大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

わりと現代日本人向けのキリスト教入門3~人間のことが結構心配な神~

 どうも、ねだおれです。

 わりと現代日本人向けのキリスト教入門、第3回目やっていきます。

 

第1回はこちら↓

nara-nedaore.hatenablog.com

 

前回はこちら↓

nara-nedaore.hatenablog.com

 

はじめに

 ここまで、キリスト教の起源や基本的な教義について、ざばっと説明してきました。

 今回は、「人間のことが結構心配な神」というテーマです。

 神と人との関係について、お話していきます。

 

 一般的にキリスト教の神というと、「従わない人間をブチ殺す暴君の如き神」というイメージが強いかもしれません。

 実際にキリスト教の歴史を辿ってみると、「人間の暴力によって殺されたけど復活した神を崇拝する宗教」から、いつの間にか「従わない人間を殺してもいいことになっている人殺しの宗教」に変質してしまっています。

 意味不明ですが、これが人間の罪のなせる業であります。

 控えめに言って最悪です。

(なぜこのようになったかについては、いつかお話するかもしれません……。)

人間の罪は、「愛の教え」すらも大量虐殺の口実にしてしまう

 しかし、聖書には「神は愛である」と書かれています。

 そうです。神は「愛」なのです。

 というわけで、神の名のもとに弱い者虐めをする極悪キリスト教徒を見かけたら、こういってあげましょう。

 「そこに愛はあるんか?」

 

 キリスト教の神は、「愛」の神です。

 慈悲深い神さまなのです。

 キリスト教の聖書には、旧約聖書新約聖書がありますが、まずは、完全な神の啓示であるイエス・キリストが話した神の人物像(?)を初めに紹介します。

 そっちの方が分かりやすいからです。

 旧約聖書に登場する神のエピソードは、次回あたりで紹介します。

 それでは早速、はじまります。

 

イエス・キリストが伝えた愛の神

 新約聖書の「福音書」には、イエスさまの言動が記されています。

 その中の、「ルカによる福音書」の15章で、神の愛について、3つのたとえ話を交えて分かりやすく説明しています。

 まずは、イエスさまがこれらのたとえ話をされた状況を確認してみましょう。

 

 イエスさまの所に、徴税人や「罪人(つみびと)」がお話を聞こうと集まっていました。

 徴税人というのは、ローマ帝国から委託され、ユダヤ人からローマ帝国の税金を徴収していたユダヤ人です。

 ローマ帝国ユダヤ人を支配する侵略者な上に、当時のユダヤ教では、異教徒と接すると穢れるとされていたので、徴税人は「民族の裏切り者+穢れてる奴」というダブルの汚名を着せられていました。

 罪人(つみびと)は、犯罪者というより、宗教の戒律を破った人という感じです。

 こうして社会で疎外される人々がイエスさまのお話を聞こうを集まっていたのでした。

 それに文句を言ったのは、当時の勝ち組エリート達です。

 今で言う、悪徳マナー講師みたいな感じの人たちです。

 当時、庶民の中で勢力が強かった「宗教の戒律守ろうぜ運動」の宗教家と、宗教の専門家が、「この人、罪人(つみびと)受け入れて一緒に飯食うとるで」と文句を言ったのでした。

 この、悪徳マナー講師みたいなエリートの人たちは、宗教的な教えを非常に厳しく解釈し、たくさんの戒律をつくって人々に宗教マウントを取りまくっていました。

 つまり、流れとしては、「自分を絶対正義だと信じて疑わない勝ち組エリートが、宗教ヒエラルキーの底辺にあった人々と行動を共にするイエスさまに文句を言った」という状況です。

 これを受けて、イエスさまは3つのたとえを話し始められたのでした。

 話したのは、「100匹の羊のたとえ」「銀貨のたとえ」そして「放蕩息子のたとえ」です。

 これらのたとえ話はすべて、神と人間(特に罪人)との関係を表しています。

 そして、そこで描かれているのは、「神から離れた人間を追いかける慈悲の姿」です。

 

100匹の羊

 宗教ヒエラルキー最上層のエリートたちからの、「罪人(つみびと)と一緒に飯食うとるやん」という文句への返答として初めに繰り出されたのでは、「100匹の羊のたとえ」でした。

 イエスさまは、このような内容のことを話されました。

 

「みなさんの中で、100匹の羊を飼うとる者がおるとしよう。その1匹がおらへんようになったら、99匹を荒野に残して、おらんようになった1匹を見つけるまで、探しに行かへんやろか。そいで見つけたら、喜んで肩に乗せるやろ。ほんで家に帰ったら、友達とか近所の人呼んで、『一緒に喜んで!どっか行って、おらんようになってた羊、見つけてん!』って言うやろ。言うとくけどな、同じように、罪人が1人悔い改めたら、悔い改めんでも良い99人よりも、神の国ではデッカイ嬉しさやねん」



 羊飼いは神さまを表しています。

 そして、いなくなった羊は、「罪人」を表しています。

 野原に残された99匹は、「悔い改める必要のない善人」です。

 

 ちなみ、荒野という言葉、ギリシア語では「砂漠」「寂しい場所」「羊飼いから見捨てられた群れ」といった意味も持っています。

 さらに、「荒野に残す」の「残す」という言葉、ギリシア語では「捨てる」「見捨てる」といった意味も持っています。

 となると、「神は悔い改める必要のない善人を見捨ててでも、罪人を探しに行く」と、イエスさまは語っているとも言えるかもしれません。

 そうすると、「えー!なんで真面目に生きてる人間より、悪い人間が優遇されなアカンのよ!こんなん不公平やわ!」と思う人もいるかもしれません。

 

 ここで、たとえ話が披露された状況を思い出してみましょう。

 

 自分は宗教的に正しいと思っている勝ち組エリートが、イエスさまに対して、「罪人と一緒に飯食うてますやん」と文句を言っている状況です。

 

 ということは、「自分は清く健全やと思ってる人間よりも、自分は壊れて病んでると思てる人間の方を、ワシは助け出してやりたいんじゃい!」ということが言いたいのかもしれません。

 

 一般社会では、いかにも正しくて健康的な感じの人が中心にいて(※本当にその人が善人かは不明)、社会のものさしから外れて痛みを抱えた人は、周縁に追いやられます。

 しかし、神さまは、その「社会のものさしから外れて痛みを抱えた人」こそ、神の国の中心にいるのだと語っているのだと、私は思っています。

 聖書では、このような神の国の逆転現象」が度々起こります。

 

銀貨のたとえ

 次に、イエスさまは2発目のたとえ話をされます。

 それは銀貨のたとえです。

 

「銀貨を10枚持った女の人がおって、1枚どっか行ったら、ろうそくに火ぃつけて、家中掃いて、見つかるまで注意深く探さへんやろか? ほんで見つけたら、友達とか近所の人呼んで、『一緒に喜んでください! どっか行ってたやつ見つかったんです!』って言うやろ」



 「コイン1枚で大げさな!」と思う人もいるかもしれません。

 しかしこの銀貨、ドラクメというのですが、現代の日本円に換算して、だいたい1万円くらいの価値があったのではないかと言われています。

 10万円持っているうちの1万円です。

 そりゃ必死になりますね!

 もちろん、女の人が神さま、失くした銀貨が人間を表しています。

 つまり、「神さまは、失くした大金探すのと同じくらい、必死に罪人助けに行くんじゃい!」といった感じでしょうか。

 神さま、相当必死ですね。

 

 神さまは、「失われた人をどこまでも追いかけて、必死になって探す方」なのです。

 

放蕩息子

 3つ目のたとえ話は、放蕩息子のたとえです。

 放蕩とは、「やりたい放題やりまくってる」みたいなノリです。

 長いので、間でちょくちょく解説を挟みます。

 

「ある人に、2人の息子がおってん。そいで、弟がお父ちゃんに言ったそうや。『お父ちゃん、財産分けてくれ』それで、その人は2人に財産を分けてやったんや」

 は?

 はい、遺産の生前贈与です。

 しかも、息子の方から要求しやがりました。

「なんちゅー失礼な話や! あ、でも古代のユダヤでは普通のことなんかな?」

 いえいえ!

 古代ユダヤの方が、現代日本よりも厳しいコッテコテの家父長制なんです!

 なので、この弟は、「父親が一家の主である家庭において、父親が生きているにも関わらず、自分から父親に対して遺産の生前贈与を要求したウルトラ不届きもの」と言えるかもれません。

 しかし、神さまからは見ると我々人間は、それ程に未熟な存在ということなのかもしれません……。

 

 こともあろうに、父親は弟の言いなりになって、2人に財産を分けてしまっています。

 しつけがなってませんね。こんなに甘やかしていいのでしょうか?

 一般社会であれば、父親としての監護能力が疑われるレベルです。

 しかし、神さまはそれ程までに、慈悲の目で私たちを見守ってくださっているようです。

 

 果たしてこの後、どうやってしまうやら……。

 

「それほど日が経たへんうちに、弟は荷物をまとめて、遠い国に行ってしまったんや。そこで、遊び倒して財産を使い果たしてしまったんや」

 

 あー! 言わんこっちゃない!

 父親に面と向こうて生前贈与要求するような弟なんやから、ちゃんとやっていけるわけないやろうに!

 でも、そんな生活がずっと続くわけがありません。この後、不幸が弟を襲います。

 

「財産を使い果たした時に、その国で飢饉が起こったんや。それで、食べ物も足りひんようになってしもた。そいで、その国の人の所に身を寄せて、豚の世話をすることになった。ほんで、豚が食べるイナゴ豆でお腹いっぱいにしたいぐらいやったけど、誰も食べ物くれへんかってん」

 

 自業自得やんけ!

 ……と思ってしまうわけですが、これが人間の現実を表しているようです。

 道を踏み外したり、いろんな欲望に振り回されたりして、痛い目に合ってしまう。それが人間の常なのかもしれませんね。

 ちなみに、ユダヤ教で豚は「穢(けが)れた動物」とされているので、忌み嫌われる存在です。穢れた動物の世話をするしか生きる術がないという描写から、弟の惨めさが伺えます。

 しかも、豚の世話をして豚は餌を食べているのに、弟は豚の餌が欲しいほどに飢えています。こ、この職場はヤバい……!!

 誰も彼に食べ物をくれなかったのです。

 世間では自己責任論が叫ばれます。

「努力した人が報われる社会を!」というスローガンは、「努力してないやつは自己責任で滅びろ!」という排除の理論に変貌する危うさを秘めています。

 ある意味では正論です。

 ある意味では合理的です。

 悪いことをしたら、痛い目に遭って反省した方が良いのかもしれません。

 実際に彼は反省します。

 

「弟は我に返って、こう言ったんや。『お父ちゃんの所では召使いが腹いっぱい食うてんのに、俺はこんな所で飢え死にしそうになってる! お父ちゃんの所に行って、こう言おう。お父様、私はお天道様に対しても、お父様に対しても、罪を犯してしまいました。せがれと呼ばれる資格はありません。召使いとして雇うてください』ほいで、弟は、お父ちゃんのところに行ったんや」

 

 弟、痛い目に遭って反省しました。

 そして、自分は息子と呼ばれるに値しないとまで考えるようになりました。

「やっと気づいたんかい!」という突っ込みが聞こえてきそうです。

 しかし、我々人間というのは、道を踏み外したり、欲望に負けて悪いことをしたりしたとき、痛い目に遭わないと学べない存在なのかもしれません……。

 2000年頃から流行り出した自己責任論でいけば、「怠けたせいでこうやったんや! この国は自己責任の国や! 政府も誰も守ってくれへんねん! 社会のせいにすんな! 文句があるなら、君が政治家になってみなさい!」と恫喝されそうです。

 現代の日本では、真面目に働いた人ですら、上記の自己責任論で完膚なきまでにシバき倒されるわけですが、放蕩息子のお父ちゃんは、どのような態度で弟に接するのでしょうか……。

 先の2つのたとえ話を聞いた皆さまなら、もうお分かりでしょうけど……。

 

「弟はめっちゃ遠くから来とったのにな、お父ちゃんは弟を見て、可哀そうになって、走って行って、首を抱いてチューしたったんや。そしたら、弟は言うた。『お父様、私はお天道様に対しても、お父様に対しても、罪を犯してしまいました。せがれと呼ばれる資格はありません。召使いとして雇うてください』

 でもお父ちゃんは、召使いらに言うた。『一番上等な上着持って来たって! ほんで着せたって! ほんで、手に指輪はめたって、靴も履かせたって! 超えた子牛つれてきて、〆てみんなで食べよう! お祝いや! 俺のせがれは死んでたのに生き返って、おらんようになってたのに見つかったからや!』」

 

 予想通り……!!

 お父ちゃん、めっちゃ喜んでます。

 しかも、息子が反省の弁を述べる前に、駆け寄ってチューしてます。

 日本では、恋人とか夫婦でしかキスしませんが、古代ユダヤでは、家族同士の愛情表現としてキスするようです。たぶん唇同士でなく、首とか頬っぺただと思います。

 それにしても、反省する前に姿を見た途端駆け寄るところに、慈悲深さが表されていますね。

 だって、「お父ちゃん! 財産使い果たしたから、やっぱ実家で暮らすわ!」と厚かましく家に上がり込んでくる可能性だってあったわけですから……。

 それにしても、相当豪勢な祝いっぷりです。

 よっぽと嬉しかったんですね。

 でもこれ、他人事ではありません。

 神さまが、これ程までに弱い我々を大切に思ってくださっている、ということなんです。

 でもこれ、お兄ちゃんはどう思ってるんでしょうね。

 気になりませんか? これまで完全に空気と化してたお兄ちゃん。

 続きを見てみましょう。

 

「さて、お兄ちゃんは畑におった。家の近くまで来たら、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、召使いの1人を呼んで、どういうことか尋ねたんや。そしたら、召使いは言うた。『あなたの兄弟が帰って来はりましてん。無事に戻って来はったさかいに、そ、お父様が子牛を屠らはったんですわ。』

 お兄ちゃんは怒ってしもて、中に入らへんかった」

 

 あちゃー!そらそうなるわ!

 お兄ちゃん、畑にいたということは、真面目に畑仕事していたようです。

 そしたら、弟が戻って来たというので大宴会。

 お兄ちゃんの方は、ちっちゃな頃から 悪ガキでルカによる福音書の)15(章)で放蕩息子と呼ばれた弟のハチャメチャっぷりを見て、一緒に育ったのかもしれません。

 一方、お兄ちゃんの方は、ちっちゃな頃から優等生、気づいたら大人になっていた方のタイプだったのかもしれません。

 お兄ちゃんが怒っていることに気づいたお父さんは、どうするでしょうか?

 続きを見てみましょう。

 

「お父ちゃんは外に出てきて、お兄ちゃんを宥めた。

 ほんで、お兄ちゃんがお父ちゃんに言った。

『お父ちゃん、俺は何年もお父ちゃんに仕えてきたやんか。言いつけも一度も破らへんかった。でも、友達と宴会するときに、子ヤギ一匹すらくれへんかったやないか。せやのに、お父ちゃんの財産を風俗街で使い潰した、あの息子が戻ってきたら、肥えた子牛屠ったるんかいな』

 ほんで、お父ちゃんはお兄ちゃんに言うた。
『せがれ、あんたはいつも、俺と一緒にいてくれた。俺のもんは、全部あんたのもんや。あんたの兄弟は死んでたのに生き返って、おらんようになってたのに見つかったんや。お祝いするんは、当たり前のことやん』」
 
 お兄ちゃん、ずっと不満が溜まっていたのかもしれません。
「俺は真面目に生きてんのに、なんで良い思いできへんねん」
「なんで頑張ってなさそうな奴が得すんねん」
 それに対して、お父ちゃんは
「何寝ぼけたこと言うとんねん!お前はお兄ちゃんなんやから、できて当然やろが!」
 なんて突き放したりはしません。
「俺のもんは、全部あんたのもんや」とまで言っています。
 イエスさまとしては、先の2つのたとえ話で、自分は悔い改める必要がないと思っているエリートのプライドをボキボキにへし折りましたが、最後の最後で、「あんたらの正しく生きようとする姿も、神様はちゃんと見てくれてはるんやで」と伝えたかったのかもしれません。
 聖書には、お兄ちゃんがどのように反応したか、描かれていません。
 私たち人間は、弱く傷んだ存在ですが、時に自分が正しいと思い、このたとえ話のお兄ちゃんのように、また、イエスさまに文句を言ったエリートのようになることがあるかもしれません。
 この聖書個所はそんな時、「どう行動するかは、あなた次第ですよ」と呼びかけているのかもしれません……。
 
 それにしても、子どもの言いなりになり、怒られたら宥める、そんなお父ちゃんでした。
 一般的にキリスト教と言うと、逆らう者を滅ぼす暴君的な神という印象があるかもしれませんが、神さまは、人間の自由意志を尊重されます。そして、人間が神に背いても、神の慈悲がなくなることはありません。
 
 しかし、財産を手にして遠くの国へ出ていく弟を止めなかったのは、本当に優しさと言えるのだろうかという疑問も出てくるかもしれません。
 もしかしたら、神さまは人間の自由意志を尊重されるから、やりたい放題し過ぎると、よくない結果がついて回るぞという警告かもしれませんし、ただ単にたとえ話だから、弟が出ていったことにしたというだけなのかもしれません。この辺りのこと、そして他のたとえ話、いろいろ疑問点を見つけ出して考えてみると、何か発見があるかもしれません。
 
 というわけで、イエスさまは3つのたとえ話を、文句を言ってきた勝ち組エリートに話されました。
 
Q: 宗教家やのに、なんで罪人と一緒に行動してるんですか?
A: 神さまが罪人を一生懸命助けようと追いかけてるんやから、当然のことでしょう。
 
 ということになります。
 一般的に宗教と言うと、「人間が神を追い求める」というイメージがあります。実際にそういう側面もあるとは思います。
 しかしキリスト教では、「神が人間を追い求める」ことが始まりです。
 
 そこには、人間が神にどれだけ背いても、あきらめることなく人間を探し求めて荒野を彷徨う神の姿があるのです。
 
 

ちょっと待って、それぞれのたとえ話の題材って……?

 3つのたとえ話から、神と人との関係が語られました。

 それぞれのたとえ話で神の慈悲を表すのは、羊飼い女の人子どもに好き放題される父親です。

 それぞれのシンボルは、当時のユダヤ社会においてどのような立ち位置だったのでしょうか。

 ここで重要になるのは、戒律主義(律法主義)家父長制と男尊女卑です。

 戒律主義については第1回のおさらいのようなところもありますが、当時のユダヤ社会では、「宗教の戒律守ろうぜ」的なノリで頑張っている信心深い人がたくさんいました。

 彼らは聖書を読んで「神さまはこういう戒律守れって言ったはる!」と解釈し、戒律を守ることによって、より良いユダヤ人として生きようと考えました。

 そこから、現代のユダヤ教が生まれるわけですが、当時は行き過ぎた動きもあったようです。

 一部の宗教的エリートは、聖書を厳格に解釈し、人々を戒律で雁字搦め(がんじがらめ)にしてしまいました。現代日本で言う悪徳マナー講師みたいな状態です。

 そんな中、羊飼いは卑しい仕事とされました。

 なぜなら、羊を見守るために、「働いてはならない」とされた「安息日(あんそくにち)」にも働かなければならなかったからです。

安息日にも働くのは、神さまに対するマナー違反です!安息日には一切仕事をせず、一日に歩く歩数も×歩以内とするのがマナーです!」

 と、マナー違反の烙印を押されてしまったのでした。

 次に重要なのが、家父長制と男尊女卑です。

 父親が一家の主なので、一番偉いです。一家の支配者です。そして、長男が家を継ぐポジションなので、長男もめっちゃ偉いです。

 そういう社会では、女性の地位は低くなってしまいます。

 実際、聖書の中で人間を数える時は、「男で×人」という数え方になっており、女性は数に入れられていません。

 ところで、2つ目と3つ目のたとえ話のシンボルを見ていきましょう。

 2つ目は女の人です。

 3つ目は子どもにやりたい放題されている父親です。

 

 ……あれ?

 

 1つ目 羊飼い

 2つ目 女の人

 3つ目 子どもにやりたい放題されている父親

 

 当時のユダヤ社会でエラいとされる人の真逆を行っています。

 

 3つ目は父親なので偉いことは偉いのですが、子どもにやりたい放題されているので、「一家の主として情けない」と当時の価値観では見られてしまうかもしれません。

 

 ただの偶然なのかもしれません。

 でも、もしかしたら、神さまは単に弱い人間を助けるために追いかけるだけでなく、神さまご自身がこの社会から蔑まれる存在そのものになってまで、我々を救いに来てくださるというメッセージなのかもしれません。

 そして、それを勝ち組エリートの前で話したのです。

 勝ち組エリートの考える、「宗教のことをいっぱい勉強して、戒律を守って清く正しく生きている自分達が一番偉い」という世界観そのものを、根底から壊しにかかっているのかもしれません。

 

 人間の社会は、ことあるごとに「エラい人間ランキング」を作りたがります。

 学校では「スクールカースト」、部活では「3年生は神、2年生は虫、1年生はゴミ」、そして就活を始めれば「就活市場」、恋愛・結婚になれば「恋愛市場」「結婚市場」という風に、それぞれの場所で、それぞれのものさしによって人間が品定めされます。

 就活や恋愛・結婚については、「ミスマッチを防ぐための基準があるのは当然のことでしょ」という意見もあるかもしれません。

 確かに、便宜上ある程度の選考基準を定めねばならないという現実もあるでしょう。

 しかし、その基準によって、その人間の価値そのものが計られるということがあってはなりません。

 また、テレビやインターネットの情報も、時に劣等コンプレックスを刺激してきます。

 容姿、生きづらさ、スキル、年収、職業などなど……

「あなたはもっと頑張らなきゃ!」「あなたのメンタルは不健全だよ!今すぐこのセミナーに参加して、癒されないと!」「〇歳で年収×円いってなかったらヤバいでしょ」「今どき株やりたがらないのは日本人だけ」などなど……

 現代の日本人は、宗教的な戒律にしばられて生きている人は少ないかもしれませんが、別の戒律に縛られて、「ダメ!」の烙印を押されることは多いかもしれません……。

 そんな時、神さまは、弱い私たちと同じ姿になって、人間が勝手につくった基準で苦しめられている私たちを助けるために、私たちの日常に入ってきてくださるのだと思います。

 このたとえ話がそういったメッセージを持っているのかは、断定できません。

 しかし、神の子が、イエスという人間として、しかも、ローマ帝国という軍事大国に支配されたユダヤ人の赤ちゃんとして、家畜小屋で産み落とされました。

 そして、「ローマ帝国に対する反逆者」として、人々に蔑まれながら十字架にかけられ処刑されました。

 神さまが、弱い私たちと同じ姿になって、人間が勝手につくった基準で苦しめられている私たちを助けるために、私たちの日常に入ってきてくださったというのは、確かなことだと言えるでしょう。

まとめ

 以上、今回は新約聖書ルカによる福音書のたとえ話から、人間を心配して追いかけていく神さまの慈悲についてお話しました。

 重要な点をまとめてみましょう。

  • 神さまは、ご自分に背く人間を救い出すため、どこまでも追いかける。
  • 神の国では、「自分は強く正しい人間だ」と思っている人でなく、「自分は弱く間違った人間だ」と心を痛めている人が中心にいる。
  • 神さまは、弱い私たちと同じ姿になって、私たちを助けに来てくださった。

 という感じです。

 次回は、ユダヤ教でも使用されているヘブライ語聖書(キリスト教で言う「旧約聖書」)から、神の慈悲についてお話したいと思います。

 

 ほな、おおきにー。

 合掌。

 

nara-nedaore.hatenablog.com