どうも、ねだおれです。
今回は、わりと日本人向けのキリスト教入門の第2回目ということで、キリスト教の重要な教義について説明していきたいと思います。
私ねだおれの理解に基づいて説明するので、他の教派と異なる場合があります。
というわけで、全キリスト教徒の信条を代弁するものではありませんので、ご了承いただけますと幸いに存じます。
今回の流れとしては、キリスト教の神、「神の像」というキリスト教の人間理解、そして、「神の国」の3つの柱から説明していきたいと思います。
キリスト教の神
神と聞いてどんな存在を思い浮かべるでしょうか?
白い服を着た雲の上のおじいさん?
それとも海底に封印された太古の支配者?
人によっては、人の力を超えた自然現象、動物などが神かもしれません。
この世界を創造し、ユダヤ教でも崇拝される「ヤハウェ」を崇拝します。
イエス・キリストは神の子なので、イエス・キリストも崇拝します。
そして、神の霊である聖霊も崇拝します。
「あれ……?多神教じゃね?」
でも、一神教です。
……?
突然意味不明な話になってきました。
とりあえず、順を追って説明します。
三位一体の神
キリスト教では、神は「三位一体(さんみいったい)」とされています。
ヤハウェ、イエス・キリスト、聖霊は、すべて一つの神であるという考え方です。
「3つの位格を持った1つの神を崇拝する宗教なので、一神教扱いでヨシ!」
ということです。
(※「こんなん一神教ちゃうやん」と怒られることもあります)
もはや合理的に理解することは至難の業です。
ですが、父・子・聖霊の三位一体の神であると、ほとんどのキリスト教徒は信じています。
父がユダヤ教でも崇拝されてきた「ヤハウェ」、子がイエス・キリスト、聖霊は聖霊です。
父なる神
「ヤハウェ」という神は、初めにユダヤ教で崇拝されていた神です。
聖書では、この神が世界を創造し、すべての生物を創造し、ユダヤ人たちに神の教えを授けたと信じられています。
つまり、この世界は自然発生的に意味もなく湧いて出たのではなく、神によって意図的に造られ、人間は自由意志を持ちつつも神によって導かれていると考えます。
衆生一切、さらには草木国土も、神の作品です。
世界を造った神なので、めちゃくちゃ圧倒的な存在です。
人知を超えた支配者です。ヤバい存在です。
しかし、この神は人間の自由意志を認め、自由に行動させます。
それでいて、人々を教え導き、人間社会に介入すると信じられています。
そんな人知を超えた存在を、イエス・キリストは「父」と呼ぶように勧めました。
しかも、キリスト本人はヤハウェのことを「お父ちゃん」と呼んでいます。
(※聖書にはイエス・キリストがヤハウェのことを「アバ」と呼んでいたと記録していますが、これは幼児語であり、特に古代世界においては、神格に親しみを込めて呼びかけることは、異例中の異例でした。)
というわけで、人知を超えた圧倒的な存在ですが、宇宙的恐怖や外宇宙の支配者というよりは、万物の親というイメージの方が近いと思います。
日本人としては、「お天道様が見てるで~」のお天道様が一番イメージしやすいかもしれません。そんな感じです。
子なる神
イエス・キリストは、そんな「ヤハウェ」の子です。なので同様にヤバい存在です。
しかも、聖書では「神の言(ロゴス)」と表現されています。
ここで言う「ロゴス」とは、宇宙を支配する真理のようなものです。
そんな存在が、人間として生まれたのが、イエスなのです。
人知を超えすぎて意味不明です。
ちなみに、奈良の大仏様は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)ですが、この仏様は「真理そのものを身体とした仏」らしいです。宇宙の真理を仏像として表現した感じでしょうか。
そう考えると、イエス・キリストは「キリスト教版奈良の大仏」と言えるかもしれません。
(※鎌倉の大仏様は阿弥陀如来なので、また別の仏様です。)
たぶん、多くの人は「この世に神がいるなら、どうして高いところから見てるだけで何もしてくれへんねん」と考えたことがあるかと思います。その問いにモロに答えたのがイエス・キリストでした。
イエス・キリストは宇宙の真理であり神そのものでありながら、人間として生まれたのです。
そして、社会から疎外された人々や虐げられている人々と仲良くなり、病に苦しむ人を癒して回りました。
しかし人間は、そんなイエス・キリストを裁判にかけて殺しました。
キリスト教では、神が自分に従わない人間を裁いて地獄で滅ぼすのではありません。
キリスト教では、人間が神を国家反逆罪で裁いて殺したのです。
人間の持つ欲望や暴力性、つまり罪は、人間を愛する神すらも殺してしまうのです。
ゆえにキリスト教では、イエス・キリストが全人類の罪を背負って十字架で死んだと信じられています。神が人間の暴力を一身に受け、復讐することなく赦すことで、人間の暴力性(罪)に勝利したのです。
殺されて終わればただの悲劇ですが、イエス・キリストは復活して死を乗り越えました。
こうして、イエス・キリストを信じる者は、人間を支配する罪の力と死の力から解放されるという信仰が生まれました。
イエス・キリストは、「世界の終わりにはまた戻ってくるで」と弟子に言い残したとされています。イエス・キリストが再度地上に戻ると、王として全世界を治め、地上がつくりかえられ、世界が完全に癒されると信じられています。
そこは弥勒菩薩みたいです。
聖霊なる神
漫画などでキリスト教徒が祈るシーン、「父と子と精霊」と漢字を間違えられやすい位格であり、キリスト教徒も「聖霊さまって何やろう?」となりがちな存在です。
聖霊は神の霊とされています。
しかし、父や子とは別に人格を有していると信じられているので、「父、子、聖霊の三位一体の神」とされています。
聖霊は神の霊なので、人々を導きます。
人々に閃きを与えたり、悪しき心から護ったりしてくれます。
いつも人々の近くにいてくれるので、キリスト教版お地蔵様と言えるかもしれません。
ちなみに、キリスト教では、キリストを信じる人間の内には聖霊が住んでいると信じられています。なんだか憑依合体みたいですね。媒介を用意すれば、あとひとふんばりでオーバーソウルできるかもしれません。
そして、聖書ではキリスト教徒を「聖霊の住む神の宮」と表現する箇所もあります。
つまり、キリスト教徒一人ひとりが、「聖霊を御祭神として祀る神社」ということになります。
人間の近くにいて人間を護り導く存在、となると「あれ?天使?」となるかもしれません。
実は、天使は神でなく、人間と同じように神に造られた存在です。
天使は神の使いであり、聖書の中では神から伝令任務を任されていることが多いです。
ちなみに、奈良の春日大社では鹿は神聖な存在ですが、神そのものでなく、神の使いです。なので、天使はキリスト教版奈良の鹿になるかもしれません。
以上、父、子、聖霊の三位一体の神のお話でした。
父はお天道様、子は奈良の大仏様兼弥勒菩薩、聖霊はお地蔵様、みたいな感じです。
そして天使は神でなく神の使いで、奈良の鹿です。
あと、キリスト教徒一人ひとりは神社です。
そんな感じです。
すべての人間は「神の像」
キリスト教では、すべての人間は「神の像」であると考えます。
世界のはじめに、神さまは、人間を「神の像」として造られました。
そして、世界を調和を守る存在として人間を地上に住まわせられました。
「神の像」とは、どういうことでしょうか?
お寺に行けば、仏像があります。
仏像は、仏様を表現し、仏像を通して、人々は仏様の慈悲に思いを馳せます。
同じように、すべての人間は、神さまを模倣し、神さまを表現し、神さまの慈悲を表す大切な存在として造られました。
今まで生きてきたすべての人々、今生きているすべての人々、そしてこれから生まれるすべての人々は、「神の像」であり、とても大切な存在なのです。
キリスト教では、あえて「神の像」を造る必要はありません。
すべての人間が、すでに「神の像」だからです。
仏像を叩いて遊んだり、「仏像で人をブツぞー!」などということは大変罰当たりなことであり、想像するだけでも恐ろしいことであると、誰もが分かると思います。
人間も同じです。人間を傷つけたり、人間が人間を虐げることは、相手の尊厳を侵害する行為であることはもちろん、神に対する冒涜でもあるのです。めちゃくちゃ罰当たりな行為なのです。
しかし、この世界ではそのようなことが日常茶飯事となっています。
なぜでしょうか?
聖書を編纂した古代人は、「人間は罪により、本来あるべき姿から堕落した」と考えました。
神さまは、人間をご自身の操り人形としては造られませんでした。自由意志を与え、自分の意志で行動を選択するように造られました。すると、人間は自分も神のように善悪を自分で決めて行動したいと考えるようになり、そこから人類が堕落したと、聖書は伝えています。
ここで言う「善悪を自分で決める」というのは、現代で言う「自分の意志で自分の行動を決める」とはニュアンスが異なります。
簡単に言うと、「自分の欲のために、自分や他者を粗末に扱うことを良しとしてしまう」という状態です。つまり、善悪の価値観が気ままに転倒してしまうという感じです。
そして、キリスト教では「すべての人間は罪人です」と教えますが、これは「どうあがいても人間って自分や他人を粗末にしちゃうことってあるよね」ということです。
どのように正しく生きようとしても、どこかで自分や他者を傷つけてしまう性質を「罪」と呼ぶのです。そして、「罪」の力に身を委ねてしまうと、自分の欲望のために平気で人を傷つけたり殺したりする人間になっていくのです。これは呪いのようなものです。
というわけで、すべての人間は「神の像」として造られたので、神さまを模倣し、神さまの慈悲を表現し世界の調和を保とうとする性質を持っていますが、「罪」という呪いにかかっているので、自分や他者を大切にできなかったり、時にはめちゃくちゃエゲツない悪事に手を染めてしまうことすらあるのです。
シンプルにまとめると、
「すべての人間はメッチャ尊い存在として造られたけど、人間に自由意志を悪用する性質が付加され、人と人が潰し合う地獄みたいな世界になった」
という感じです。
すべての人間は「神の像」として造られました。
しかし、すべての人間は傷や痛みを抱えた「壊れた神の像」なのです。
SFとかで、人間の社会を豊かにするために作られたロボットとかAIが暴走して、世界を破壊しまくる展開とかがありますが、それと似た感じです。
暴走した「壊れた神の像」は、2000年前に神を裁判にかけて殺しました。
なので、キリスト教では「イエス・キリストは全人類の罪を背負って十字架で殺された」と伝えているのです。
しかし、復活したイエスさまは、それでも人類の罪を赦し、今も人々に救いの手を差し伸べられています。
そして、聖霊さまは救いを求める人々の内に鎮座され、「壊れた神の像」を、魂の奥底から癒してくださいます。
神さまの慈悲により、「神の像」としての性質が癒され、取り戻されていくのです。
そして、「神の像」としての性質が癒され、取り戻されていくことで、以前よりも自分や他者を大切にできるようになり、自分の存在を通して神さまの慈悲が表現されるようになっていきます。
神さまがその人を通して、働かれるようになるのです。
そして、「神の像」としての性質を取り戻してく人が増えることで、地域社会も、学校や職場などの組織も、そして国家や国際社会までも、癒されていくかもしれません。
古代のキリスト教徒は、神さまと力を合わせることで、「神の像」としての在り方が癒されると考えました。これは説明するととても複雑になりますが、ここではなるべく簡潔に表現します。
神さまと力を合わせる方法は、
1.他者に愛を示す実践行為
2.お祈りなどの宗教行為
の2つに大別されます。
神さまと力を合わせることで、聖霊さまの力を受け取り、「神の像」としての在り方が癒され、神さまに似た存在へと育っていくというイメージです。
そして、イエスさまが、この2つを完全に表現したお手本を見せてくださったと、古代のキリスト教徒は考えました。
なので、さらにぶっちゃけてしまうと、イエスさまをお手本にして生きていくと、人は「神の像」として癒されていくということです。
まとめると以下の通りになります。
1.すべての人は、すでに「神の像」として造られた。
2.すべての人は「壊れた神の像」でもある。
3.神さまの慈悲により、「神の像」は癒され、本来の在り方を取り戻していく。
だいたいこんな感じです。
「神の国」は近づいた
イエスさまは、「神の国が来たで。悔い改めて福音信じるんやで」と言って布教して回りました。
福音とは、宇宙よりも遠い場所にあるはずの「神の国」が、すでに地上に来ているという報せのことです。
「神の国」とは何でしょう。
まず、神さまが世界を造り、地上も動物も人間もつくり、「めっちゃ良いやん」と言われました。はじめ、世界はめっちゃ良い所だったのです。
そして、神さまは「エデンの園」をつくりました。神さまが治める楽園です。
これが、「神の国」の元型です。
「神の国」とは、世界の調和が保たれた、なんかめっちゃ良い感じの優しい世界なのです。
そして、園を治めさせるために、「神の像」である人間を配置されました。
人間は「エデンの園」の庭師だったのです。
しかし、「神の像」についての説明でお話ししたように、人間は堕落してしまい、欲望のままに振る舞い、互いに傷つけあう存在となってしまいました。そして、その人間の在り方が「呪い」となり、被造世界全体を汚染してしまいました。
神さまは、人間を「エデンの園」から追い出し、暴走した人間は汚染され暴走した世界で生きていくこととなりました。人間は殺したり支配したり、暴走した世界で暴走しまくり、この世の地獄のような状態になりました。
キリスト教では、病や死は、世界が汚染されたことにより始まったとされています。
つまり、この世の苦しみは、本来あるべきものではないということであり、被造物も、この世界全体も、癒しを必要としているということです。
なので神さまは、アブラハムという人物を選び、そこからイスラエル民族をつくりました。そして、イスラエル民族ははじめ神権政治のような体制で国家をつくりました。神さまは、イスラエル民族を通して、地上に「神の国」を再創造しようとされたのです。
その後、神権政治はなんやかんやでうまく行かず、神が選んだ王が国を治める王政に移行しました。神さまは、「弱い者を守り、人々を搾取から助け出し、正義を行え」と何度も何度も言われました。しかし、王政は堕落して崩壊し、「神の国」再創造計画は再び人間の堕落によってコケました。神さまは被造物の自由意志を重んじられるので、罪によって汚染された地上で神さまが働かれるときには、人間の協働を求められるのです。
これまでをまとめると、
1.エデンの園→人類の堕落により× 人類の罪により、被造世界全体が汚染される
3.イスラエル王政→人類の堕落により×
となります。超悲惨な歴史です。
そこで、イエスさまの登場です。
イエスさまは汚染された世界を救うために人間として生まれ、「神の国が来たで」と言って回りました。今度は、イエスさまが王として治める「神の国」再創造計画が始動したのです。
既にお話したように、人間はイエスさまを十字架にかけて処刑してしまいました。この時、十字架には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていたそうです。ナザレは、イエスさまの故郷です。
こうして、イエスさまは人類史上最も悲惨な形で、世界の大王(おおきみ)となられました。
しかし、イエスさまを自分の君主として仰ぎ、神さまと力を合わせて(協働して)生きていこうとする人々の間に、「神の国」の力が働き、人々の「神の像」としての在り方が癒されていくのです。
そうして人々は、どうあがいても自分や他者を大切にできなくさせる罪という呪いから解放され、世界の調和を保つという役割、神さまを目指して育っていく性質を取り戻していくのです。
ただし、世界の癒しは人間の努力によって成されるのではありません。
人間の「神の像」としての在り方が癒されるのも、世界が癒されるのも、神さまの慈悲によるものです。神さまの慈悲を受け取る時、癒しが起こるのです。
イエスさまは、「また地上に戻ってくるで」と約束されました。
それがいつかは分かりません。
イエスさまが地上に戻られる時、「神の国」は完全なものとなります。
世界が完全に癒され、死も暴力もなくなるのです。
これが、キリスト教の終末論です。
また、世界が完全に癒される時、いままで亡くなった人々も皆復活し、回復された世界で生きていくと、キリスト教では信じられています。
キリスト教は、信じた人だけが天国に行くための宗教ではなく、この世界が癒されることを伝える宗教なのです。
「神の国」はだいたいこんな感じです。
まとめ
以上、私ねだおれが解釈したキリスト教の重要な教義でした。
「神の像」、「神の国」、十字架などの概念については、以降の記事で再び詳しく説明するかもしれません。
今回の内容をまとめると、
- 父なる神(ヤハウェ)、イエス・キリスト、聖霊の3つの位格を持った1つの神、つまり三位一体の神を信仰している。
- 神は世界をめっちゃ良い所としてつくった。
- 神は世界を治めさせるため、「神の像」として人間をつくった。
- 「神の像」に罪が入り込み、「壊れた神の像」となってしまった。この時、世界全体が罪によって汚染されてしまった。
- イエス・キリストは、全人類の罪を受け止めて十字架にかけられることで、罪に勝利した。
- 地上に「神の国」が来たことで、人間が「神の国」の一員となり、「神の像」としての在り方が癒されていくことが可能になった。
- イエス・キリストが再び地上に来ると、この世界は完全に癒され、今まで亡くなった人々も復活する。
という感じになります。
一番大事なのは、キリスト教は、死んだ後天国に行くための宗教ではなく、人間もこの世界も癒され修復されるということを伝える宗教だということです。
※私はキリスト教が成立してから300年頃までの思想を重視しているので、一般的な西方教会(カトリックやプロテスタント)の見解とは異なる可能性があります。たぶん、強調点が大分異なると思います。なので、現代の一般的なキリスト教の思想を代表しているわけではありませんので、何卒ご了承ください。