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どうも、ねだおれです。
今回は、聖書って何やねんっていうことについて、お話ししたいと思います。
はじめに
聖書はキリスト教の聖典で、大きく分けると旧約聖書と新約聖書の2つに分かれています。
旧約聖書はイスラエル民族(ユダヤ人の先祖)の伝承が書かれています。
新約聖書はイエス・キリストと教会指導者について書かれており、最後には世界の終末(というか完成)について書かれています。
どちらの聖書にも書かれているのは「神がどのように人々を救うのか」みたいな感じのノリのお語です。
では、旧約聖書のお話から始まります。
旧約聖書(タナク)
旧約聖書は、イスラエル民族の伝承や詩を集めた感じのやつで、ユダヤ版古事記のようなものとも言えるかもしれません。
古事記には、天地開闢、神々の物語、そして古事記において神々の子孫とされる、大和王権の天皇の物語がまとめられており、歌謡も収録されています。
同じように旧約聖書も、天地創造、神と人々の物語、そしてイスラエル民族による王国の物語がまとめられており、詩や文学も収録されています。
(※こうして比べると似てるけど、古代ユダヤ人と古代の大和の人々の間につながりがあったわけではないと思います)
旧約聖書はユダヤ教の聖書(タナク)と共通する部分が多く、「ヘブライ語聖書」と呼ばれることもあります。本文のほとんどがヘブライ語で書かれているためです。
タナク(Tanakh,タナフ、タナハとも)とも呼ばれますが、それは律法(Torah,トーラー)、預言者(Nevi'im, ネヴィーム)、諸書(Ketuvim, ケトゥヴィーム)の3つに分けられるためです。
- 律法(トーラー):なんか世界が創造されてから「イスラエル民族」が出来るまでの物語を収録したやつ
- 預言者(ネヴィーム):なんか神から言葉を預かった預言者の物語を収録したやつ
- 諸書(ケトゥヴィーム):なんか詩編とかいろんな文学とかが入ってるやつ
みたいな感じです。
このように、旧約聖書(タナク)はいろいろな伝承や詩や文学などが収録された文書の集合体です。これらの内容が一気に書かれたのではなく、いろいろな時代のいろいろな人々がいろいろな伝承をつなぎ合わせ、1000年以上かけて編纂されたと言われています。
めちゃくちゃ長い年月をかけて編纂された文書群なので、後の時代に書かれたキャラクターが古い時代の文書を見つけて驚くといったメタ(?)な展開も見られます。
全体的な流れとしては、神さまが世界を創造した物語から始まり、人々の堕落と神による救済の物語が繰り返されます。
そして、「いつか、神から遣わされためっちゃスゴイ救世主(メシア)が、自分達を救ってくれる……!!」という希望が示されています。
ただし、旧約聖書の中では、その救世主(メシア)が誰なのかは記されていません。
宗教的な書物となると、めちゃくちゃ尊敬されているエラい人たちによって書かれたのかなという感じがするかもしれません。しかし旧約聖書は、むしろ社会的マイノリティや、エリート階級に属しつつも体制に対して批判的な人々によって書かれたのだと指摘する学者もいます。
新約聖書
新約聖書はイエスこそが救世主(メシア:ギリシア語でキリスト)だと信じる人々、つまりキリスト教徒によって書かれました。
内容としては、大雑把に言うと、福音書、使徒言行録、牧会書簡、黙示録に分類できます。
それぞれの内容をざっくり説明すると、
- 福音書:なんかイエス・キリストの伝記みたいなやつ
- 使徒言行録:なんかイエス・キリストの直接の弟子とかの伝記みたいなやつ
- 書簡:なんか初期キリスト教の指導者がいろんな教会に送ったメールとかがいっぱい収録されてるやつ
- 黙示録:なんか世界の終わり(完成)について書いてある感じのやつ
みたいな感じです。
旧約聖書が主にヘブライ語(聖書ヘブライ語)で書かれているのに対し、新約聖書はギリシア語(コイネー・ギリシア語)で書かれています。
コイネー・ギリシア語は古代地中海周辺の共通語で、現代の英語みたいなポジションの言語です。
キリスト教において救世主(キリスト)とされているイエス・キリストの伝記みたいなやつに始まり、終末(世界の完成)のお話で締めくくられるという感じです。
聖書は異文化の芸術
聖書はめちゃくちゃ昔に書かれた書物であり、さらに、多くの伝承や文学や詩や手紙を積み重ねられた、なんか文書のミルフィーユみたいな感じのやつです。
最初から1冊の本として書かれたわけではなく、長い年月をかけて、少しずつ文書が付け加えられてきました。
さらに聖書の中で1つの書とされている書についても、複数の資料がつなげられた形跡が見られることもあります。
これは単なる「編集」ではなく、いろいろな資料をつなぎ合わせながら、非常に緻密に作り上げられた芸術作品という側面もあります。
現代と全く違った価値観で書かれており、現代人には難解に感じられる箇所も多いですが、当時の文化や文学構造に着目して読むと、めちゃくちゃ面白いことになってきたりします。
聖書をフォト・モザイクアートに例える学者もいます。
近くでガン見していると、大量の写真が並べられているように見え、それ自体1つ1つの作品なのですが、全体を見ると、大量の写真が1つの写真に見えるという感じです。このように、聖書はそれぞれの書が有機的に繋がり合っています。
多くの人々が書いた文書の群が、1つのストーリーとして見えてくるとき、聖書が編纂された過程の中にある神の働きを感じることができます。
その一方で、聖書の言葉を切り貼りすると何とでも言えてしまうため、文学構造をガン無視して、宗教者の欲求(金銭欲・支配欲など)や宗教団体の利益のために聖書を利用すると、かなり悲惨なことになります。
そういうわけで、聖書は異文化の芸術作品であり、取り扱い注意な書物でもあります。
おわりに
そして、聖書が異文化の芸術作品でありつつ、取り扱い注意な書物でもあることにも触れました。
次回は、この取り扱い注意な聖書の「クセ」について、もうちょっと詳しめにお話しようと思います。