大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2024年3月10日 礼拝説教 『はじめのバビロンシステム』

 創世記4章17節から24節をお読みいたします。

 カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。

 レメクはその妻たちに言った、

「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。

(口語訳聖書)

 それでは『はじめのバビロンシステム』と題してお話させていただきます。

 前回は、弟のアベルを殺してしまったカインが呪われ、地を彷徨うことになってしまいました。しかし、神さまから命を守る印を付けられ、そこからアダムとエバのように再出発しました。

 カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。

 命を守る印を与えられ再出発したカインが、子どもをつくって町を建てました。さらに、自分が建てた町に名前をつけています。何かをつくって名前をつけるというのは、はじめの創世神話に似ています。

 神の像としての役割を果たして地上を治めているのか、それとも自分が神であるかのように振る舞っているのか、今の時点ではどちらとも取れるように思います。いろいろ想像をかきたてられます。

 エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。

 いつの間にか一夫多妻制になっています。男性と女性の対等な関係は完全に破壊されてしまいました。

 ここではカインの系譜が記されていますが、実は神話では、系譜というのはとても重要です。古事記でも神々の系譜と共に、天地創造の様子が語られます。

 同じように聖書では、物語と共に人間の系譜が描かれています。もしかしたら、聖書では神の像である人間が神々のような存在なのだと言っているのかもしれません。そのように考えると、やはり神さまから人間に託された責任というのが、非常に重く感じられると思います。

 レメクはその妻たちに言った、

「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。

 カインの子孫であるレメクは、2人の妻に向かって、「わたしの声を聞け」「わたしの言葉に耳を傾けよ」と言っています。まるで自分が2人の主人であるかのようです。そして、自分が敵対する者をやっつけたことを誇っています。自慢げに、自分を傷つけた者を殺すと言っていますが、自分の身を守るためというよりは、過剰な報復という感じがします。

 レメクのように女性を所有物のように扱い、自分の暴力性を自慢する、権力を持った男性というのは、現代の日本にも多いと思います。そして、そういう他人を大切にできず暴力的に振る舞う人が権力を持った時に、バビロンシステムが出来上がるわけです。バビロンシステムというのは、レゲエ音楽でよく使われる言葉で、権力者による抑圧的な支配体制を指します。

 せっかく再出発したカインですが、その子孫からバビロンシステムをつくる者が出てしまったわけです。しかも、命を守るために神さまがカインにつけられた印を引き合いに出して、「逆らうやつはぶっ殺す」とオラついているわけです。エデンの園の蛇のように、神さまの言葉を歪めて悪用しています。こうして、聖書の物語での、はじめのバビロンシステムが出来上がったのです。

 聖書の物語では、人間は神の像として、地上の平和を守るために造られました。しかし、自分が神のようになろうとして、自分で神のように善悪を決めるようになった結果、人と人が歪み合う苦しい世界を造ってしまいました。そして、アダムとエバから生まれたカインの子孫であるレメクもまた、王様のように振る舞い、自分で善悪を決めて人を裁くようになりました。人間は自分が社会の中央側にいると思い、自分が善悪の基準だと思うようになったとき、他人を周縁化するようになります。つまり、自分が善悪の物差しになってしまうことで、自分の考えを絶対化してしまい、他人を粗末に扱うようになってしまうのです。そして、そういった人が世の中で力を持った時にバビロンシステムが出来上がります。

 しかし、これは権力者だけの問題ではありません。私たちもまた、時に自分を絶対化して他人の想いや感情を粗末にしてしまうことがあります。そんな時、日常の友人関係や家族関係の中で、誰かが誰かを粗末にしてしまう小さなバビロンシステムが出来上がってしまうのです。

 そういう意味では、バビロンシステムは全ての心の中にあると言えるでしょう。

 カインは罪に襲われ、兄弟関係の中で殺人事件を起こしてしまいました。そして、その系譜の中から、罪に捕らわれてはじめのバビロンシステムをつくるレメクが登場しました。バビロンシステムは私たちの心の中からはじまるということを心に留め、平らかな心で生きていきたいと願います。

2024年3月3日 礼拝説教 『そして繰り返す』

 創世記4章8節から17節をお読みいたします。

 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

(口語訳聖書)

 それでは、『そして繰り返す』と題してお話させていただきます。

 これまでのおさらいをします。エデンの園から追放されたアダムとエバは、カインとアベルを生みました。カインは神さまに作物をお供えし、アベルは家畜をお供えしました。すると、神さまはアベルの供え物に目を留められましたが、カインの供え物には目を留められませんでした。怒って俯くカインに対して、神さまは、もし正しいことをしていないのであれば、罪が戸口で待ち伏せている。それはあなたを欲しがるが、あなたがそれを治めるのだ、と声をかけられました。今回はその続きです。

 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。

 さっそく殺人事件が起きてしまいました。カインを狙っていた罪はカインを自分のものにしてしまったわけです。カインは善悪の判断を狂わされ、アベルを殺してしまいました。

 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

 ここでのやり取り、エデンの園と同じことが繰り返されていないでしょうか。神さまが尋ねたときに、人間が言い逃れしようとする光景。しかし、神さまには全てお見通しです。

 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。

 カインの行いの結果が、カイン自身に返ってきます。

 カインは自分の手でアベルを殺し、アベルの血を土地に流しました。その結果、カインは呪われ、土地を耕しても、作物が実らないようになってしまいました。エデンの園と同じように、人を悪い方向へ引っ張って行く存在に善悪の判断を狂わされ、悪いことをしてしまった結果、自分に悪事の結果が跳ね返って来たわけです。

 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」

 弟を殺しておいて何を被害者ぶってるんやと思わなくもないですが、次は自分が殺されるかもしれないと、カインは怖がっています。アベルを殺した結果、次は自分が命を狙われる側になるわけです。ここもまた、悪事の結果が跳ね返ってくる描写と言えるかもしれません。しかし、神さまはそんなカインにも救いの手をさしのべられます。

 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

 カインは自分の行いの結果、地を彷徨うことになり、危険に晒されることになりました。すると神さまは、カインの命を守るために、印をつけられました。アダムとエバエデンの園から出て行くことになったとき、皮の衣を2人に着せられたのと同じです。

 カインとアベルの物語では、エデンの園の物語と同じパターンが繰り返されています。

 エデンの園では、アダムとエバが蛇に善悪の判断を狂わされ、善悪の知識の木の実を食べてしまいます。そして、アダムとエバは皮の衣を着せられ追放されます。カインとアベルの物語では、カインが罪に善悪の判断を狂わされ、アベルを殺してしまいます。その結果、カインは命を守るための印をつけられ、地を彷徨うことになります。

 このパターンは、聖書の中でずっと繰り返されます。そして、このパターンを念頭に置いて読むと、人間と罪との戦いというテーマが浮かび上がってきます。キリスト教は、人間と人間が争う宗教ではありません。人間と神が対立している宗教でもありません。人間と罪との戦いなのです。

 そして、このパターンを繰り返しながら、人間は神の子さえも殺してしまうという行動に行きついたのです。

 同じように、私たちも何度も何度も罪に敗れ、過ちを犯してしまいます。この繰り返しが、時に自分自身の人生を破壊し、家族を破壊し、社会を破壊してしまいます。

 しかしそれでも、神さまは辛抱強く助け舟を出されます。人間が失敗する度に、皮の衣を着せ、命を守る印を与え、そして、人間が神の子を殺した時には、人間の目の前で復活され、やり直しの機会を与えられました。

 失敗はしないに越したことはないのでしょうが、それでも罪の力は強く、私たちは失敗を繰り返してしまいます。ですが、だからといって開き直ったり諦めたりするのではなく、神さまが辛抱強く助け舟を出してくださることを信じ、そこから悔い改めて再出発したいものです。

2024年2月25日 礼拝説教 『罪が待ち伏せている』

創世記4章1節から7節をお読みいたします。

 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(口語訳聖書)

 それでは、『罪が待ち伏せている』と題してお話させていただきます。

 アダムとエバエデンの園を追放されました。そして、エデンの園の地で再出発することになりましたが、そうこうしている内に2人の子どもを授かりました。

 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 アベルは動物の世話をする者になり、カインは植物の世話をするものになりました。人類が楽園から追放された後も、地上の調和を守るという役目は続いているようです。そしてアダムとエバから引き継いだこの役割を、アベルとカインは兄弟で共に担っていくはずでした。

 ところで、アベルは羊を飼う者、つまり牧畜民で、カインは土を耕す者、つまり農耕民にあたるわけですが、古代中近東の世界では、牧畜民と農耕民というのは、あまり仲が良くなかったようです。さらには、当時は農業の方が高度であると見なされていたそうです。聖書の中では、社会的な立場が高い者や、大国や経済的に栄えていた都市が悪役として登場する傾向にあります。そして、そういった強い立場にある人々が神さまによってひっくり返されるという展開が、お決まりのパターンになっています。つまり、ここで牧畜民と農耕民という対比が示されている時点で、わりと不穏な雰囲気になってきているわけです。

 そんなこんなで、2人はそれぞれの収穫を神さまにお供えます。

 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

 ここでトラブルが起きました。2人のお供え物のうち、神さまはアベルのお供え物にだけ目を留められたので、カインが怒ってしまいました。

 カインとアベル、どんな違いがあったのでしょうか。アベルが羊の中で一番良い物を持って来たということが、お話の中から分かります。しかし、カインが悪い物を持って来たのかというと、特にそういうことは書かれていません。それに、神さまがカインを責めているという描写も特に見られません。

 この箇所を書いた人の時代だと、農耕の方が、レベルが高いという風潮があったようです。そうすると、カインも日頃からアベルを見下しているキャラクターという前提があったのかもしれません。聖書は社会的な立場が高い人や強い国を悪役として描く傾向があるので、社会的なヒエラルキーをひっくり返すというストーリー展開を加えたとも考えられます。ただ、もしかすると単にカインが怒る物語の導入として、このエピソードを加えているだけなのかもしれません。

 ともあれ、カインは怒ってしまいます。そこで神さまはカインに語り掛けられます。

 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

 罪が門口に待ち伏せている。人間の心を家に喩えているわけですが、罪が人間の心に入り込もうと待ち伏せているような感じがします。罪が人間を慕い求めるという、不思議な表現が使われていますが、原文のヘブライ語では、恋愛感情や、肉食獣が獲物を求めている状態を指す言葉が使われています。

 エデンの園の物語では、蛇が人間を悪い方向へと引っ張って行きましたが、カインとアベルの物語では、「罪」という、より直接的な言葉が使われています。しかし、入口で人間を待ち伏せて狙う、そういったキャラクターとして描かれているのです。

 キリスト教というと、「人類みな罪人」と言っているイメージが強いと思います。しかし、罪という言葉が聖書の中で最初に出て来るのは、この箇所なのです。そしてここでは、「罪」は人間を狙う悪役、敵キャラとして登場します。エデンの園のテーマと同じです。この世界は、究極的には人間同士の戦いではありません。人間と、人間を悪い方向へ持っていく存在との戦いなのです。ですから、「罪」は人間を絶えず狙っていて、人間に襲い掛かり、捕らえて、悪い行いをさせようとするのです。ですが、神さまは言われます。「それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

「罪」は私たち全員を狙っています。私たちの心が揺らいだ時、チャンスを狙って待ち伏せています。それにいつも気づけたら良いのですが、人間の心は弱いもので、私たちは何度も負けてしまいます。

 しかし神さまは、人間が罪を治めることを求められているのです。もちろん、人間の力のみで罪に打ち勝つことはできません。しかし、自分だけの正義から抜け出し、神さまと力を合わせ、他の人と力を合わせる時、この世界に神さまの力が働き、神さまの力によって罪を治めることができるのではないでしょうか。そして、それこそがキリストのからだである教会の使命ではないでしょうか。

 神さまは言われます。「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

2024年2月18日 礼拝説教 『そこからやり直す』

 創世記3章21節から24節をお読みいたします。

 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

(口語訳聖書)

 それでは『そこからやり直す』と題してお話させていただきます。

 まずは、この箇所以前の内容をおさらいします。

 地上の調和を守らせるために、神は人間を神の像として創造されました。そして、エデンの園に人間を配置されました。

 園の真ん中には善悪の知識の木と命の木が生えていました。そして、園のどの木からでも自由に食べて良いけれど、善悪の知識の木からだけは絶対に食べてはいけないと、神さまは言われました。

 はじめは人間がまだ一人だけだったので、ひとりぼっちは良くないということで、神さまは助け合うパートナーを造られました。

 生き物の中で一番賢い蛇は、悪の象徴、つまりサタンとして登場します。蛇は、巧妙な手口で人間の善悪の判断を狂わせ、善悪の知識の木を食べさせます。人間が神のように善悪を決めるようになったことで、人間同士の関係も人間と神の関係も壊れてしまいました。そこで、神さまは蛇と人間の間に敵意を置かれました。そして、アダムとエバの行いの結果、人間の生活が苦しくなることを2人に伝えました。ここまでが、おさらいです。

 今回の内容は、その続きということになります。

 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 いちじくの葉で腰を覆っていた人間に、神さまは皮の着物を造って着せられました。葉っぱだけでは心もとないだろうということでしょうか。人間が過ちを犯しても、神は人間のために着物を造られたのでした。しかし、人間のしでかしたことの結果は、人間に撥ね返ってきます。

 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

 善悪を知るものとなることは、神と同じ存在になるに等しいことなのだそうです。

 見落とされがちですが、「われわれのひとりのようになった」と書かれており、まるで人間がこの地上の世界の神になってしまったかのようです。この世界には悲惨なことがたくさんあります。「神はいないのか」と思ってしまうこともあります。しかし、人間が引き起こす悲惨な出来事は、人間がこの世界の神になってしまったがゆえに起きていることなのかもしれません。

 民間人をテロリストと呼んで虐殺したり、あるいは、一般市民はわずかな所得の申告漏れも許されないけど、政治家は数千万単位で脱税しても許されたり、あるいは、社会的地位があれば他人に暴力を振るっても許されたり、あるいは、勝手に宗教的な戒律をつくって人々を苦しめたり、この世界には人間が勝手に決めた善悪が横行しています。慈悲の心を持たぬ人間が神になったつもりで善悪を決めてしまうからこそ、この世界は大変苦しく辛い場所になっているのではないでしょうか。

 命の木から食べることを禁じられていなかった人間が今、命の木から食べられては困る存在と見なされている。この違いは、人間の在り方が変わってしまったことを示しているように思います。

 物語は続きます。

 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 楽園を追放されることになりました。追放というと罰のような印象がしますが、ここでヘブライ語の原文を確認してみましょう。原文では、この箇所の前に出て来た、手を「伸ばす」という言葉も、「追い出す」という言葉も、元々同じ語根から変化して出来た言葉です。

 原文のニュアンスを意識してまとめると、「命の木に手をやられて命の木から食べられたら困るから、人をエデンの園の外にやった」という感じでしょうか。

 つまり、「命の木に手をやられたら困ると思われることをしてしまったから、エデンの園の外にやられた」わけです。なんだか、罰というよりは、行いが跳ね返ってきたという感じがしないでしょうか?

 実はこの、行いが跳ね返ってくるというパターンは、聖書全体の中で何度も繰り返されています。神に選ばれた存在が、失敗して、神に護られた領域から追い出されてしまう。エデンの園の物語は、このパターンの元型とも言えるかもしれません。

 しかし、追い出されて終わりというわけではありません。エデンの園の物語では、予め人間に皮の着物を着せて、園から追い出し、そして園の外の地を耕させました。つまり、皮の着物という救済措置を与えて、そこからやり直させたわけです。

 人間が勝手に善悪を決めた結果、この世界が苛酷な場所になってしまったから、人間が神のようになった結果、神さまに護られた楽園から離れて、人間自身が創り出した、辛く厳しい世界へ出て行かないといけないから、だからこそ、人間の身を守るために、神さまは皮の着物を人間に着せたのではないでしょうか。

 これもまた、聖書の中で一貫して語られるパターンです。神さまに選ばれた人間、あるいは集団が、悪いことをしてしまう。その結果、神さまに護られた領域から追い出される。しかし、そこからやり直すチャンスが与えられている。

 日常生活の中でも、私たちは何度も失敗します。神になった気で善悪を決めて、良かれと思って人を傷つけたり、自分を粗末に扱ったりしてしまいます。そして、自分や他人を粗末にする扱いは、他人を苦しめるだけではなく、その人自身を内側から蝕んでいきます。

 しかし、その結果に目を向け、そこからやり直す。

 世の中には取り返しのつかない過ちもあるし、反省したからといって自分の行いがチャラになるわけではありません。結果は結果として受け入れなければなりません。しかし、そこからやり直す。

 失敗してしまう自分の弱さに目を向け、失敗に気づいたらそこからやり直す。そうする中で、神の像として在り方に向かっていくのではないでしょうか。皮の着物を受け取り、そこからやり直して、再び地を耕すものになりたいと思います。

2024年2月11日 礼拝説教 『人と蛇の戦い』

 創世記3章14節から20節をお読みいたします。

 主なる神はへびに言われた、

「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
つぎに女に言われた、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
更に人に言われた、
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

(口語訳聖書)

 それでは、『人と蛇の戦い』と題してお話させていただきます。

 神さまは蛇が呪われたことを、蛇に伝えます。

「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」

 蛇は人間を騙した結果、呪われて這いずり回ることになったのだと、このお話では伝えられています。こういった起源譚は神話の中ではよく登場するもので、ギリシア神話でも、嘘をついたカラスが全身を黒色にされるというお話が出てきます。

 古代イスラエルの人々は、蛇を見る度にエデンの園のお話を思い起こし、戒めとしていたのかもしれません。

 次に語られる箇所は、聖書全体を貫くテーマになってきます。

「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」

 前の台詞は、蛇が這いずり回っていることの起源譚という感じでしたが、こちらは、より宗教的なテーマについて語っています。蛇とエバ、そして蛇の子孫とエバの子孫に、神さまが敵意を置いたというのです。これはどういうことでしょうか。

 蛇は、ここでは悪の象徴として登場しています。そして後にサタンと呼ばれるようになっていきます。つまり、人間の善悪の判断を狂わせて悪へと引っ張って行く存在です。

 蛇の子孫とエバの子孫とは、どういうことでしょうか。ヘブライ語では、子孫とか子とかいう言葉は、所属する者とか、メンバーといったニュアンスで使われることも多いみたいです。ということは、悪と人間の間に敵意があって、悪に惑わされた人間と正しさを求める人間のいざこざが起こるといった感じでしょうか。しかし、究極的には蛇と人間との戦いなのです。人間同士の戦いではありません。私たちは、蛇つまり悪魔に立ち向かっていかなければならないのです。

 しかし、既に神さまは人間が勝利することを予告されています。エバの子孫について、このように語られています。

「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」

 ここでの子孫は「彼」という単数形で語られています。この箇所はイエスさまのことを語っていると言われています。つまり、イエスさまは十字架にかけられるけれど、復活して悪に打ち勝つことを予告しているというのです。

 まとめてみると、この世界の戦いというのは、本来悪と人間の戦いであって、人間同士が戦うべきではない。そして、最終的にはイエスさまによって悪が倒される、といった感じでしょうか。

 この箇所はイエスさまの十字架によって成就されたと言われています。イエスさまは十字架にはりつけられましたが、人類を赦して復活することによって悪に打ち勝ったからです。

 次に神さまは、善悪の知識の木の実を食べた結果を、アダムとエバに告げます。

 産みの苦しみと働くことの苦しみ。生きること全般が辛いものになったという感じでしょうか。

 単に、人間が神に背いた結果苦しみに満ちた世界になったのだという解釈もできます。しかし、人間が神のように善悪を決めようすることで、社会が生き辛い場所になっているという意味合いで考えることもできるのではないでしょうか。世の中に目を向けてみると、勝手な戒律をつくって人々を虐げたり、マイノリティを差別したりしながら、それが神の教えなのだと言っている宗教家もいます。さらには、子どもを暴力でしつけることが正しいと言っている大人もいれば、労働基準法は守らなくても良いなんて言っている経営者もいたりします。人間が神になったつもりで善悪を決めるというのは、こういうことを言うのではないでしょうか。

 さらに神さまは、人間同士の関係についても語られています。

「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」

 男尊女卑が始まります。男尊女卑は呪いであって、神さまが望んだ在り方ではないのです。これもまた、人間が勝手に善悪を決めた結果、男女の対等な関係性を破壊し、支配的な関係性を作り出したということではないでしょうか。世の中にはいろんな差別があります。そして、差別を正当化しようとする人々もいます。しかし、支配や差別もまた、蛇に騙されて人間が決めた、勝手な善悪の結果なのです。

 これらの出来事があった後、アダムは女をエバと改名しました。古代中近東の王は、部下に新しい名前をつけたらしいので、このシーンを入れることで、男性による女性支配が始まったことを強調しているのだと思います。

 こうして、向き合うパートナー、助け合う対等なパートナーという関係は壊れてしまいました。善悪を神のように決めた結果、神が造ってくださったパートナーを支配することが正しいことなのだと思い込んでしまったのです。

 聖書には、神話のような形をとったお話もたくさん収録されています。しかし、神話というのは単なるフィクションではなく、深い人間理解が、そこには込められています。

 この世界の生き辛さをつくるのは、人間が善悪を勝手に決めてしまったから。そしてその背後にあるのは、聖書の中で悪魔と呼ばれる、善悪の判断を狂わせてしまう存在があるから。

 この世界が人と蛇の戦いであることに思いを馳せ、心の中を見つめ直していきたいです。

2024年2月4日 礼拝説教 『自分だけの善悪』

 創世記3章8節から13節をお読みいたします。

 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

(口語訳聖書)

 それでは、『自分だけの善悪』と題してお話させていただきます。

 今回の箇所は、前回の箇所の続きです。

 前回のお話では、アダムとエバが蛇に惑わされて、食べるなと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。すると、元々二人は安心して裸でいられる関係だったのに、実を食べた後は、裸ではいられない関係になってしまいました。それで、葉っぱで腰を覆うようになりました。

 今回は、その続きです。

 まずはナレーションから始まります。

 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 2人は神さまを避けて隠れます。善悪の知識の木の実を食べた結果、人間同士の関係だけではなく、神さまとの関係も壊れてしまいました。

 エデンの園での裸というのは、多分、楽園だから裸でも恥ずかしくないというような、頭の中お花畑みたいな感じではないと思います。どっちかと言うと、ノーガードでも安心していられるような関係を表現しているんだと思います。

 安心できる関係だったのに、善悪の知識の木の実を食べて、その関係が壊れてしまいました。

 そして、神さまはアダムに呼びかけられます。

「あなたはどこにいるのか」

 アダムは答えます。

「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」

 そこで神さまは言われます。

「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」

 善悪の知識の木の実を食べたことが神さまにバレています。
裸の状態を恐れて、葉っぱを腰に巻いたり、木に隠れたりっていう場面を繰り返した後、「食うたらアカンで言うた実ぃから食べたんかいな」っちゅう神さまの台詞に行きつくわけです。裸であることを恐れるシーンを繰り返した後に、神さまのこの台詞を持ってくるからこそ、善悪の知識の木の実がここの最重要テーマなんやでっていうのが伝わってくるのではないでしょうか。

 そこからの人間側の地獄みたいな釈明が始まります。

「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」

 これって、エバのせいにしてますけど、間接的にエバをつくった神さまのせいにしてる感じしませんか? 神さまが、人が1人でおるんは良うない言うて、助け会えるパートナーをつくったのに、今はそのパートナーに責任をおしつけている。さらにはパートナーをつくった神さまにさえ、間接的に責任を押し付けているわけです。しかも、アダムは最初「これこそ私の骨からの骨、私の肉からの肉」いうてめっちゃ喜んでたのに。

 とりあえず神さまはエバにも事情を聞きます。

「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」

 蛇に惑わされたのは事実ですが、エデンの園の物語のはじめの所を思い出すと、結構悲しい気持ちになってきます。

 もともと神さまは、エデンの園を守らせるために、エデンの園に人間を配置されました。そして、はじめ独りぼっちだったアダムの仲間をつくるために、たくさんの動物を造られました。ということは、本来アダムも蛇もエバも、みんな仲間だったのです。さらに、2人の人類は仲間として造られたはずの蛇に惑わされ、人類も蛇に騙されたと言って責任転嫁しています。

 お互いを責めあう地獄のような事態になってしまいました。神さまの理想とは思いっきり反対へと世界が動き、関係性が壊れています。一体何がいけなかったのでしょうか。この物語は、今を生きる私たちに、何を伝えたいのでしょうか。

 蛇もアダムもエバも、それぞれ自分だけの善悪を決めてしまったことが、この悲劇の原因ではないでしょうか。神さまは、園のどの木から食べても良いけど、善悪の知識の木からだけは食べてはいけないと言われました。しかし、蛇はそれを良しとしなかった。蛇は蛇自身だけの善悪に従って、2人の人間に善悪の知識の木の実を食べさせます。その後の2人は自分を守るために、それぞれエバと蛇に責任転嫁しました。エバが悪い、エバを造った神さまが悪い。騙した蛇が悪い。自分は悪くない。それぞれ自分だけの善悪を振りかざすことで、関係性が壊れていきます。信頼関係が損なわれていきます。

 この物語を読むと、「アダムもエバもなんちゅう愚かな真似をしたんや」と感じるかもしれません。しかし、この物語が映し出すのは、まさに私たち人類の姿そのものではないでしょうか。

 わざと悪い事をしてやろうなんて考える人はいないと思います。誰だって、正しくありたいはずです。でも、自分だけの善悪を決めてしまうと、どれだけ自分が正しいことをしていると思っていても、お互い傷つけ合ってしまう。私たちはそんな弱い生き物です。

 しかしそれでも、神さまは私たちを地上の調和を守る存在として造ってくださいました。自分勝手に善悪を決めるのではなく、神さまと力を合わせ、他の人とも力を合わせる。その中にこそ、真の正しさの片鱗を垣間見ることができるのではないでしょうか。

 自分勝手に善悪を決めず、違った立場、違った属性の人にも敬意を払う。これは、単に聖書をたくさん読んだだけでは出来るようにはなりませんし、どれだけキリスト教の教義を学んでも役には立ちません。

 日常の中で、神さまのお導きを求め、目の前の人と向き合い、いろんな人に共感する中で、自分だけの善悪から抜け出していきたいと思います。

2024年1月28日 礼拝説教 『目には美しい』

 創世記2章25節から3章7節をお読みいたします。

 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

(口語訳聖書)

 エデンの園では、初めの人類は全裸でも恥ずかしいとは思わなかったと伝えられています。エデンの園の人類が完全に純真無垢な存在であったかというと、そうでもないと思います。完全に純真無垢であれば、食べることを禁じられた木の実を食べるという選択もできないでしょう。日本では特に男性同士で「裸の付き合い」という言葉が使われることがあります。一緒に風呂やサウナに入ることで親睦を深めるという意味合いですが、裸でいられるというのは、それだけ信頼できる安全な関係性ということではないでしょうか。

 その次に、蛇が最も狡猾であったと語られます。ここでは狡猾と訳されていますが、「賢い」というような良いで使われることもある言葉です。元からずる賢かったというよりは、この物語では、神が蛇を信頼して、賢い生き物として造ったということではないかと思います。

 賢い蛇は言います。

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」

 もちろんそんなことは誰も言っていません。この物語では、蛇は生き物の中で一番賢いことになっていますから、蛇はわざとこんなことを言っているのかもしれません。

 人は答えます。

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」

 実はこれも神さま、言ってはいません。

 エバが造られる前のお話ですと、中央に生えているのは善悪の知識の木と生命の木。食べてはいけないと言われたのは、善悪の知識の木だけです。それ以外の木からは好きなだけ食べて良かったのです。さらに、触ってもいけないなんて誰も言ってはいません。

 人間の中で、神さまの言葉が歪んでしまっているわけです。

 蛇は言います。

「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
 神の言葉を否定して神への不信感を煽ります。蛇はこの物語で、人間の判断を狂わせて悪しき道へ引きずりこむものの象徴として使われているようです。
 そして、エバが善悪の知識の木を見ると、それは「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」とあります。食べることを禁じられていた木の実が、ここでは良いものに見えてしまったのです。こうして人間は善悪の知識の木の実を食べてしまいました。

 蛇の言葉で判断を狂わされ、神さまの命令を破ってしまったのです。

 その結果、裸であることに気づき、いちじくの葉で腰を覆うようになりました。

 ノーガードでも安心して居られる関係は、もうありません。隠して守らないと安全ではいられない関係性になってしまったのです。

 この物語は、食べることを禁じられた善悪の知識の木の実を食べ、人間同士の関係が壊れてしまうというお話です。今回注目したいのは、神さまから食べることを禁じられ、さらに、食べた結果人間関係が壊れてしまった、そんな木の実が「食べるに良く、目には美しく」見えたという点です。

 良いと思って選んだことが、良かれと思って取った行動が、後に良くない結果、時には破壊的な結果をもたらす。人類の歴史でも、一人ひとりの人生でも、そんなことが繰り返されてきたのではないでしょうか。

 社会規模の話になると、どこか他人事のように見えるかもしれませんが、日常生活に目を移してみると、他人事とは思えないでしょう。

 相手を励ますつもりが、かえって傷つけてしまった。役に立つつもりが、かえって邪魔をしてしまった。手助けをするつもりが、かえって迷惑をかけてしまった。慰めようとしたら、かえって追い詰めてしまった……。

 人間は自分の理性を過信してしまいがちですが、それがかえって落とし穴になってしまうことがあります。「目に美しく」見えた選択肢が、時に破壊的な結果をもたらします。

 人間は自分で善と悪と完璧に判断することはできないのです。そして、自分の理性を過信し、自分で善と悪を神のように完璧に判断できると過信してしまうことこそが、善と悪の知識の木の実を食べるということではないでしょうか。

 善と悪を完全に判断するのは神の領域です。人間はどれだけ知識を詰め込もうが、どれだけ神に祈ろうが、どれだけ聖書を読もうが、そこに足を踏み入れることはできません。どれだけ努力しようと、破壊的な結果をもたらす選択肢が、「目には美しく」見えてしまうものです。

 だからといって、良いことを行うことを諦めるわけにはいきません。自分より大いなるものの存在を感じ、へりくだることが必要なのではないでしょうか。自分が失敗する存在であることを受け入れることが大切ではないでしょうか。

 イエス・キリストは、そんな私たちの弱さを受け入れ、その上で私たちの王となってくださいました。人類は良かれと思ってキリストを十字架につけ、それにも関わらずキリストは人類の過ちを受け入れ、三日目に復活されました。破壊的な結果をもたらす行動すら「目には美しく」見えてしまう私たちの弱さをイエスさまが受け入れてくださるからこそ、私たちはキリストに連なる者として再出発することができます。

 良かれと思って過ちを犯す人間の弱さ、そして、その弱さを受け入れるキリストの愛に思いを巡らせ、歩んでいきたいと思います。