「せや、天気良いし橿原神宮行くか」
ということで橿原神宮へ。
橿原神宮前駅で下車。
ラーメン屋さんで昼食。
「うまい……!!」
パインと魚のダシという斬新な組み合わせのスープのつけ麺。
そしてトロットロのチャーシュー。
写真撮ろうかと思ったが、カウンター席な上に、みんな黙々と食べていたので、撮影は控えることにした。
「……ごちそうさまでした」
ねだおれは満足した。
というわけで、橿原神宮へ。
途中、ある喫茶店が目に留まる。
「おお、境界の彼方のポスターやん!」
店の壁には、交流ノートも吊ってあった。(写真左側で見切れてる)
歩いていくと、橿原神宮の鳥居が見えてくる。
お馴染みの看板だ。
神武天皇と皇后がご祭神として祀られている。
参道も鳥居もピカピカでモダン(?)な感じだ。
手水所。
新型コロナ対策のため、柄杓は引き上げてある。
門をくぐって境内へ。
入ってみると、広場。
とても広い。
一般的には大規模な神社は、本殿の他にもたくさんの社があり、道も入り組んでいる(?)ことが多いという印象だが、橿原神宮はなかなかシンプルだ。
最近つくられた神社だからだろうか。
「これは……モダンや……!」
ホラー映画『来る』で映っていたのは、この辺りだろうか。
さざれ石が展示してあった。
帰ろうと手水所まで引き返すと、池があることに気づいた。
結構広い。
「やっぱり奈良湾はあったんや!」
付近に、稲荷神社もあった。
長山稲荷神社というらしい。
一言に神社と言っても、それぞれ個性があるのだなあと思ったのであった。
追記(2022年6月7日)
Twitterの相互フォロワーさんから、「洞村強制移転」があったとの情報をいただいたため、調べてみた。
被差別部落である洞村(ほうらむら)の人々は、「戦前に行われた神武天皇陵や橿原神宮の拡張政策の一環として1919年から翌年にかけ、全戸の移転を余儀なくされた 」(浅野2020) 。
そして、強制移転の理由は、「神武天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」と判断されたことであると指摘されている(浅野2020; 高木2020)。「恐れ多い」という理由で強制的に住居を移転させれるのは、大変酷い話である。
ジャーナリストである浅野氏 (2020) が取材した部落解放同盟全国連合会における研究発表においては、以下の事柄が指摘されている。
移転のための家屋の解体は1919年に始まり、人々は大八車に家の部材を積んで運び、全戸の移転は1921年1月、完了する。過酷な労役だったのか、移転の過程で生後1年以内の乳児8人を含む13人が死亡したという。自作農は3戸のみで、移転前の耕作地は村外地主の田畑が相当な比率を占めた。移転の補償金は全戸で26万5千円と、当初より増額されたが、耕した農地は献納された。
行政側が「神武天皇陵を見下ろすのは恐れ多い」という判断に基づいて行われた強制移転によって、多くの人命が失われたのである。
そんな背景があったとは知らず、呑気に橿原神宮を見物していた自分が恥ずかしくなった。
浅野氏 (2020) の記事のコメント欄には、読者から「被害者ビジネス」との中傷が投稿されており、部落問題が、今も続いている未解決の問題であることを物語っている。
私は、初代天皇を祀る橿原神宮が明治時代に創建されたことと、宗教施設のために被差別部落の人々が強制移転させられたことについて、気になった。
特に、宗教施設のために強制移転など、政教分離を掲げる現代では考えられないことである。
高木氏 (2020) の研究論文によると、このような指摘がなされている。
神武天皇をめぐる畝傍山の「聖蹟」が創り出される背景には,明治維新の理念である神武創業を視覚化し,その地に国民の崇敬を集め,参加・動員をはかる意図があった。近世までの朝廷の始祖は,強いていえば平安京に遷都した桓武天皇であったり,さかのぼっては天智天皇であったし,また改革としては,王政復古の大号令をめぐる議論のように建武の中興が思い出されることもあった。
明治維新以前には、神武天皇は天皇制の中でそれほど強く意識されていなかったようだ。
さらに、神武天皇が政治的シンボルとして称揚されるようになったことについて、高木氏 (2020) は以下の指摘をする。
明治維新期の朝廷においては,武家の文化や大陸から来た仏教を否定し,古代を理想とする政治文化として,神武創業の理念が大きく花開く。それは皇祖皇宗や万世一系といった天皇にまつわる観念の成立と不可分であった。
武家による「軍事政権」である幕府を倒した明治新政府には、武家の文化を否定したいという意図があったようだ。また、中国大陸を通って韓半島から伝来した仏教は、古来より天皇に大きな影響を与えていたため、「外国の宗教」であった仏教が伝来するより以前の天皇をシンボルにしたいと考えたらしい。
神武天皇は日本神話において初代天皇とされており(※実在したかは不明)、近代型の天皇制を中心として新たな日本を造る上で、最適の存在だったのだろう。
こうして、明治政府は万世一系の天皇制というシンボルを掲げ、神道を日本の国教のようなポジションとして扱うことで、新しく建国された「大日本帝国」をまとめあげようとした。
そうした動きの中で、天皇陵の扱いも大きく変化したらしい。
高木氏 (2020) はこのように指摘する。
明治初年の神仏分離,神道国教化政策のなかで,陵墓をめぐる観念は180度転換する。慶応4年 (1868) 閏4月7日の山陵御識の審議をもって,神武天皇践をはじめとする天皇陵は,仏教の死穣の場ではなく,死後の天皇の霊が宿る幽宮として「聖」なる場として,国家によって意味づけられてゆく。
1880年代の神武天皇陵は,神聖な天皇陵であると同時に参拝の場,祭典の場でもあり,民衆にとっては物見遊山の場でもあったのだ。そして後者の機能は, 1890年代には,新たに設置される橿原神宮に吸収されてゆく。
天皇陵が神聖視されるようになったのも、たった150年程前と、最近のことであったようだ。さらに、新たに橿原神宮を創建することで、「神武天皇によって建国された日本国」という印象を強めた。
そして、天皇陵を神聖視し始めた流れの中で、たまたま「神武天皇陵を見下ろす」位置に居住していた洞村の人々は、強制的に移転させられることとなった。
高木氏 (2020) は、橿原神宮境域・神武陵参道の拡張のなかで、被差別部落以外の人々も移転させられたと指摘する。
橿原神宮と神武天皇陵の拡張は、多くの人々の生活を犠牲にして成り立っていたのである。
部落差別は、日本国内において大和民族が抱える慢性の病であり、未だ完治には至っていない。インターネットを利用した悪質な差別も根強く続いている。
(「大和民族」と言ったのは、私が自民族中心主義の右翼だからというわけではない。奄美・沖縄の琉球文化圏と、北海道・北方領土のアイヌにおいては、ケガレ思想にもとづいた身分差別は見られないからである)
そして、明治時代に設立された政府が国をまとめていくにあたって、神道を利用したことも忘れてはならない。
宗教は一般的に、人々に希望と慰めを与え、慈悲の心で生きることを促すものであるが、権力者が人々を支配するために宗教を「利用」する時、それは人々を苦しめる「呪い」となる。
キリスト教もまた、ローマ帝国に国教化された後、人々を支配するための道具となり、その「呪い」は数えきれないほどの人々を死と破滅に追いやった。
差別と、権力のための宗教利用という問題は、簡単には解決できるものではない。しかし、過ちを繰り返さないためには、人間ひとりひとりが歴史に向き合い、たとえ最適解は見いだせなくとも、手探りで、より良い未来へ向かって歩まなければならない。
被差別部落の人々の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として、1922年に創設された全国水平社の『水平社宣言』は、このような言葉で締めくくられている。
「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」
参考文献
浅野詠子 (2020). 奈良県)神武天皇陵見下ろす 橿原・洞集落移転から100年 「強制的だった」 部落解放同盟全国連の三宅さん研究成果、発表. ニュース 奈良の声 (http://voiceofnara.jp/20200325-news654.html) (6月7日閲覧)
高木博志 (2000). 近代における神話的古代の創造 ―畝傍山・神武陵・橿原
神宮, 三位一体の神武「聖蹟」―. 83. 19-38