大和寝倒れ随想録

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わりと現代日本人向けのキリスト教入門6~どんなノリで聖書を読む?~

 どうも、ねだおれです。

 今回は、聖書の「クセ」についてのお話です。

 

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 第1回目はここ

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はじめに

 聖書は最も最近に書かれた書物でも2000年近く前まで遡り、時代も文化も言語も、現代の日本人からはかけ離れたものとなっています。

 なので、聖書を読むこと自体が異文化コミュニケーションであり、当時の文化や文学的な手法が聖書を深く味わうためのヒントとなってきます。

 今回は、聖書を味わうコツのお話に入る前に、聖書をどんなノリで読んでいくと現代日本人に理解しやすいかということについて、触れておこうと思います。

聖書は「神の言葉」?

 よく「聖書は神の言葉」と言われます。これはどういう意味でしょうか。

 新約聖書の『テモテの手紙』の2章16節には、「聖書は全部、神の霊感によるもので、教えること、戒めること、正しくすること、正しさのトレーニングをすることのために、役立ちます」的なことが書いてあります。

 この手紙が書かれた時代、聖書と言えば旧約聖書(タナク)のみを指していたわけですが、後の時代になると、初期のキリスト教徒が書いた福音書や書簡も聖書であると信じられるようになりました。

 神の霊感と訳されているのは、「テオプネウストス(θεοπνευστος)」という、聖書の中でこの一瞬しか出てこない言葉です。「テオス(θεοσ)」は神、「プネオー(πνεω)」は息をするとか風が吹くとかの時に使う言葉です。

 つまり、神がインスパイアした(神がひらめきを与えた)みたいな感じのニュアンスで、わざと誤解を招く最悪な言い方をすると、「お神の息がかかったメディア」ということでしょうか。お上(かみ)はお上でも、神(かみ)の方です。(※決して神さまは言論統制やら検閲やらを好まれる方ではありませんので、どうかご安心ください。)

 つまり、聖書は神が影響を与えて書かれた書物であり、人々を教えて正しさへ導くために有益であるという感じのノリです。

 なので、キリスト教徒は聖書が神による導きにより書かれたということを信じています。そして、聖書の言葉について思いめぐらし、「は? この箇所意味分からんねんけど」「レビ記長い割に全然頭入って来ぉへんやんけ」「この箇所は良えこと書いたぁるけど実行すんのは嫌や」「全ッ然、意味分からん」などという風に、聖書の内容について思いめぐらせつつ、その箇所が何を伝えたいのかぐるぐる考える中で、徐々に神に近づいていくという感じでしょうか。

 聖書とは、キリスト教徒にとっては霊的な修行をする「ポータブル道場」なのかもしれません。

 というわけで、聖書は決して人を叩くための凶器ではなく、恐怖で人々を縛って金銭と労力を搾り取るためのものでもなく、権力者による非人道行為を正当化するためのものでもありません。

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ルールブックや教科書とは違うかも

 聖書は文書の集まりなわけですが、その所どころに緻密な文学技法が使用されたり、詩的な表現がモリモリ盛り込まれたり、さらにはそういったテクニックが古代中近東の文化を前提にしていたりと、現代人からすると、もはや古代アートの領域に達しています。

 冒頭で、聖書は神の霊感によるものだと信じられているという話を紹介しましたが、神さまは無限で捉えどころのない存在であり、その神さまがある時代のある文化圏の人間の言葉で表現されるわけですから、人間の言葉を通して神さまが啓示されるとき、その文化の制約を受けることになります。

 言い換えるならば、神さまは人間に理解しやすいように、その文化に合わせてご自身が語り継がれるようにされたとも言えるかもしれません。

 今から約1300年前の飛鳥時代修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ, 役小角"えんのおづの"とも)は人々の救いのため、吉野の山で大変厳しい修行をしていました。言い伝えによると、彼の祈りに答えて、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三仏が現れたそうです。しかし、役行者は彼らの優しそうな姿を見て、そのような姿では人々を救済することはできないと思い、さらに祈ったところ、三仏は大変恐ろしい姿になったといいます。こうして、三仏が変身した蔵王権現が祀られるようになったそうです。同じように、聖書の神さまもまた、古代イスラエルの人々を救済するために、古代イスラエルの文化に合わせ、時には荒々しい存在として語り継がれるようにされたのかもしれません。

修験道の開祖とされる「役行者役小角)」
生地は現在の奈良県御所市(ごせし)

 さらに一歩踏み込むと、「書物」の捉え方すらも、古代と現代では異なるかもしれません。

 現代人は「聖典」やら「正典」などと聞くと、ルールが書いてたり、なんかめっちゃスゴい真理が書いていたりするという印象があります。

 現代人にとって「教える書物」となると、学者によって内容の正確性が認められた教科書のイメージが強いかもしれません。そこでは、客観的な事実や多くの学者によって認められた定説を書くことが求められます。そして、読者も教科書を字義通り解釈することが求められます。

 すると、現代人は聖書を教科書のようなイメージで読んでいくことになるかもしれません。

 しかし、先ほど述べたように、聖書には古代アートのような側面もあります。

 ところどころにポエムめいた表現が散りばめられています。

 ポエムが散りばめられた古代人のアートみたいな感じの書物を教科書として字義通りに読むと、かなりカオスな事態になります。

聖書は万葉集を味わうが如し?

 現代日本人にも馴染みのある古代ポエムと言えば、万葉集です。

 突然ですが、第15巻3602番歌をここに張り付けてみます。

安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛

(あをによし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも)

 この詩を見て、「平城京があった場所(奈良市大和西大寺から近鉄奈良駅らへん)に行けば、いくら見ても飽きることのない、綺麗な白雲が見られるッ……!! 平城京の中心だった平城宮跡に行こう!!」なんて字義通りに解釈をする人はいないと思います。

 字義通りの解釈というものは、時に作者の意図をブチ壊します。

 平城京は「綺麗な雲が見られる映えスポット」ではありませんし、雲自体はどこで見ようが、同じものが見られると思います。

 この詩が雲の魅力について語ろうとしているわけではないことは、多くの人が分かることと思います。雲について語ることを通して、奈良の都への想いを語った詩と解釈した方が良いでしょう。

 さらに、国語の授業の内容を覚えていたなら、「あをによし」は「奈良」を導き出す枕詞であることが分かると思います。

 なので、「あをによし」は「奈良は青丹で綺麗だよ」みたいな情報を伝達しているのではなく、「あをによし」という言葉から「奈良の都」というフレーズを導き出すものです。

 もしかしたら、さらには当時の奈良の都の美しさについて思いめぐらせるためのものでもあるかもしれません。

 この詩は詠み人知らずの詩ですが、遣新羅使朝鮮半島新羅に遣わされていた使者)によって詠まれたとも言われています。当時の航海技術では、日本から朝鮮半島に行くだけでも、文字通り命がけで、帰れる保証はどこにもありません。この情報を心に留めて詩を読み直すと、詩に対する印象がさらに深まります。いろいろな想像が膨らみますね。

繰り返し思い廻らせ、言葉の裏にある想いに共鳴する

 詩を思いめぐらせる中で感じるものは、ただ暗記できる知識や、頭で理解する理論と言うよりも、簡単には言葉にできない情緒です。それは、言葉の裏にある想いへの共鳴です。

 ポエムはエモいものなのです。

 そのエモみによって、人の心を動かし、ときに人の心を動機づけたり、今ある命について真剣に考え直させたりすることすらあります。

 映画や漫画なども同じように、人の心を揺さぶり、時にそれが己の生き方を振り返る機会にすらなることもあります。

 それが、アートの力です。

 すると、聖書は「エモみによって心を動かすことで人間を教えし、正しさのトレーニングをする古代アートのようなもの」とも言えるかもしれません。

 もちろん、「100%アートだから、芸術鑑賞するノリで読まなければなりません!」と主張したいわけではありません。

 現代人の感覚では、「教科書を読んでお勉強する」と考えるより、「アートのエモみに心を動かされ正しさについて考える」という雰囲気で考えた方が、聖書のメッセージを感じ取りやすいのではないか、と私は考えています。

 聖書を読んでいく上では、文脈に思いを馳せつつ「この箇所を通して、著者は(そして、著者にインスピレーションを与えた神は)何が言いたいのか」についてぐるぐる考え、そうする中に、神の声が聞こえてくるのではないか、と私は思うのです。

ルールブックや教科書として読むと

 聖書は人々を教え導く古代アートなわけですが、これをルールブックとして読むと悲劇が起こります。

 聖書を近現代の感覚のみで読み、聖書の中からルールや原則を導き出そうとすると、文脈を無視して聖書の内容を切り貼りし、聖書の記者さらには神さまの意図を無視して聖書を解釈することになりかねません。現代の感覚を徹底して排除しなければならないわけではありません。聖書を書いた古代人(そして、背後にいる神の想い)を無視して、現代人の文脈で無理矢理聖書を切り貼りすることが、危ないのです。

 

「聖書にこう書いてあるから、絶対に女は男に従え!」

「聖書にこう書いてあるから、神は同性愛を禁じている!」

「聖書にこう書いてあるから、子どもを鞭で叩いてしつけろ!」

 

 という風に聖書を読んでいくと、キリスト教会はたちまち、男尊女卑でLGBT差別をする上に、児童虐待を励行する地獄のカルト宗教と化してしまいます。

 ヘイトスピーチを野放しにするとヘイトクライムに発展し、さらにはジェノサイド(虐殺)につながるように、こういった聖書解釈を野放しにすると、多くの人々に死と破壊をもたらすことになります。大変痛ましいことに、暴力的な聖書解釈により、十字軍や魔女狩り、異端審問に侵略の正当化など、既に数えきれない程の犠牲が出ました。さらには現代においても、組織内や信者による女性への加害行為の放置、LGBTの人々への「転向治療」と称する虐待・拷問、児童虐待の正当化などにより、多くの人々が犠牲にされています。

 たとえば古事記ですと、倭建命(ヤマトタケルノミコトが兄の手足をもいで殺したり、敵を殺して死体に火をつけたり、なかなかにバイオレンスな物語がありますが、これを「朝廷のためなら、何が何でも敵を皆殺しにするべきである」と読み解くと大変なことになります。神話を政治利用した末路については、多くの日本人が知っていることと思います。

 また、禅宗公案南泉斬猫(なんせんざんみょう)」というお話があります。このお話では、南泉という偉いお坊さんが猫ちゃんを斬り殺すという大変ショッキングなシーンがあり、「とくに欧米では禅僧が殺生をするのは残酷だと非難される」とのことです(安永, 2018)。このお話を「弟子を指導するためなら、師匠は猫を斬り殺してもかまわない」と解釈する人は多分いないと思います。

 しかし、キリスト教においては文脈を無視して聖書を切り貼りすることにより、人々を教えるために書かれた聖書が、強き者が弱き者を虐げ搾取するために利用されるという最悪の事態が、今も後を絶たないのです。

おわりに

 今回は、キリスト教において聖書は、神によってインスパイアされ(ひらめきを与えられ)、人々を教え正しさのトレーニングをする書物と信じられている一方で、詩的な表現が多く古代アートのようなものであり、教科書のように全てを字義通りに解釈するのは無茶だということをお話ししました。

 次回は、聖書を読むための「コツ」みたいなものについてお話ししたいと思います。

引用文献

安永祖堂 (2018) 笑う禅僧「公案」と悟り 講談社.

 

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