大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

キリスト教とメンタルについての試論(5)~覚醒<ネープシス>と不動心<アパテイア>~

 

はじめに

 どうも、ねだおれです。

 キリスト教とメンタルについての試論、第5回目です。

 前回はこちら

nara-nedaore.hatenablog.com

 第1回目はこちら

nara-nedaore.hatenablog.com

 前回は、静寂<ヘシュキア>と祈りのお話をしました。

 今回は、覚醒<ネープシス>不動心<アパテイア>について、少し詳しめにお話ししたいと思います。

覚醒<ネープシス>

 前回は、「自分の内面への気づき=覚醒<ネープシス>」というお話をしました。

 古代の修道士は、人間の心を「家」にたとえて、自分の思考や感情と向き合っていたようです。

 たとえば、心が無防備な状態は、家の戸が開け放たれているようなものであり、「泥棒」が侵入して家の中を滅茶苦茶にしてしまう危険があると教えられていたそうです。

 聖書の中では、人間の罪を動物にたとえ「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。あなたはそれを治めなければならない」と神が人間に警告する場面があります。

 罪――自分や他人を粗末にする破壊的な思考や感情――は、常に人間を狙っており、隙あらば人間の心に侵入しようと、いつも待ち伏せしているのです。

 古代の修道士は、欲望や嫉妬や怒りなどといった感情と闘っていたようです。

 現代を生きる私たちも、様々な思考や感情に襲われます。

 スマホやテレビからも情報の波が押し寄せ、私たちの感情はかき乱されます。

 怒り、嫉妬、欲望、さらには、被害妄想に襲われることもあるでしょう。

 他者の動きが気になって仕方ないという状態になるかもしれません。

 時には、自己嫌悪の思考に襲われることもあるかもしれません。

 自分の欠点ばかり目に付き、自分が無価値だと錯覚してしまうこともあるでしょう。

 繊細な人であれば、加害妄想に取りつかれることも、あるかもしれません。

 自分が放った言葉で誰かを傷つけたかもしれないと、何度も何度も考えてしまうことも、あるかもしれません。

 そういった思考は、戸口で私たちを待ち伏せ、恋い慕っています。

 隙あらば、私たちの心に侵入し、心の中を荒らし回ろうと、待ち構えているのです。

 古代のキリスト教徒は、人間の魂には理性的な部分と、非理性的な部分があると考えました。そして、非理性的な部分を侵入経路として、自他を粗末にする情念が入り込み、魂全体が汚染されると考えました。

 なので、自分や他者を傷つける思考や感情が侵入しようとしてきたその時に、見つけ出すということが重要視されていたようです。

 認知行動療法では、「自動思考」といった言葉が出てきます。ある状況で、反射的に思い浮かぶ考えのことです。認知行動療法では、この自動的に浮かんでくる思考のクセを見つけ出して対処することもあります。

 古代の修道士は、このことに気づいていたのかもしれません。

 反射的に浮かぶ思考や感情が、自分自身を苦しめるということに。

「コイツは何て嫌な奴なんだ」

「私はなんて駄目な人間なんだ」

 こういった思考が浮かび上がる時、自動思考が作用しているかもしれません。

 古代の修道士風に言うなら、これがまさに「悪魔」の所業です。

 古代の修道士は、自分や他者に害をなす思考や感情を「悪魔」と呼んで擬人化していたそうです。

 実は、臨床心理学の世界でも、ある症状や否定的な感情をキャラクターにたとえたり、イメージの中で自分から引き離したりすることで、冷静に向き合う「外在化」という技法があります。

 臨床心理学も通俗心理学も存在しなかった時代。

 そんな時代に、古代の修道士たちは、宗教が生み出した知恵を用いて、自分の心と向き合っていたのだと思います。

不動心<アパテイア>

 前回は、「自分の感情にコントロールされないこと=不動心<アパテイア>」というお話をしました。

 この記事を書いている私自身は恥ずかしながら、まだまだガラスのハートなのですが、覚醒<ネープシス>の境地が深まると、容易には感情にコントロールされないようになるようです。

 感情にコントロールされないというと、何だか苦しい修行を積んで心を強くしないといけないというイメージがあります。実際に、古代の修道士の中には、肉体的苦痛を伴うような修行をしていた人もいたようです。しかし、覚醒<ネープシス>を高めることによって、ある程度の所まで不動心<アパテイア>を養う分には、そういった苦しい修行は必要ないのではないかと、個人的には思っています。

 というのも、自分や他者に害を為す思考や感情に襲われても、それが何であるか、それが自分にとって本当に必要なものなのか、冷静に判断できるようになれば、そういった思考や感情から距離を置きやすくなると思われます。そうやって距離を置くことで、思考や感情に惑わされずに済むようになるかもしれません。

 もちろん、誰でも苦痛を伴う場面においても不動でいるのは、相当な修練が必要になることが予想されます。私たちのような一般人には、雲の上ような境地と言えるかもしれません。

 ただし、不安傾向や怒りっぽさなどは、考え方や感じ方の「クセ」を修正することで対処できるのではないかと思います。

 先ほど、古代のキリスト教徒は、非理性的な部分に「悪魔」が侵入し魂全体が汚染されていくと考えていたというお話をしましたが、覚醒<ネープシス>を高め、不動心<アパテイア>を養うことにより、こういった「悪魔」に惑わされないようになり、魂が浄化されていくとも考えられていました。

 こういった魂の浄化のプロセスを通して、古代の修道士は神と似た存在へと育つこと、つまり神化<テオシス>を目指したようです。

おわりに

 今回は、覚醒<ネープシス>と不動心<アパテイア>について、ちょっと突っ込んでいろいろ考えてみました。そして、古代の修道士は、覚醒<ネープシス>を高め不動心<アパテイア>を養うことを通して、神に似た存在へと育つこと、つまり神化<テオシス>を目指したというお話をしました。

 次回は人間が神に似ていくこと、神化<テオシス>についてお話ししたいと思います。