どうも、ねだおれです。
そういえば、キリスト教の牧師目指してるくせに、全然キリスト教っぽいこと書いてないな、と思ったので、自分の知識の整理を兼ねて「わりと日本人向けのキリスト教入門」を書いてみることにしました。
タイトルの通り、なるべく現代の日本人に分かりやすいように書いていこうと思います。分かりにくかったらごめんなさい。あとは、私ねだおれが奈良県民なので、今後奈良要素が強めに出るかもしれません。奈良以外の人すみません。
まずは、キリスト教って何やねん?って話ですよね。
キリスト教というのは、古代ユダヤ人のイエスが世界を救うスーパーヒーロー、つまり救世主だと信じる宗教です。救世主はギリシア語でキリスト(厳密にはクリストス)なので、キリスト教になりました。
~終わり~
これだけでは意味不明ですね。
とりあえず、今回はキリスト教の起源について説明します。
キリスト教の起源、ユダヤ教とは?
ユダヤ人は、中東起源の民族で、ユダヤ人の言語であるヘブライ語は、アラビア語と似ています。
唯一神ヤハウェを信仰し、民族の伝承を元に編纂された聖書を重んじています。
ユダヤ教の聖書は、後にキリスト教の旧約聖書とされますが、日本の古事記に似ており、宗教的な世界観を交えつつユダヤ人の歴史を語るというスタイルになっています。
聖書が語る歴史観は、キリスト教を語る上で重要になってくるので、ざっくり説明します。
天地を創造した神は、人間を神の像として造り、地上を治めさせることにしました。しかし、人間は堕落しました。
世界の管理者としての人間が堕落したので、世界全体が汚染され、かなりえげつない感じになりました。死や病が世界に入り込み、人間もめっちゃ暴力的になってしまいました。
しかし、なんとかして神は世界を立て直そうとします。
アブラハムという人間を選び、その子孫を増やし、神はイスラエル民族(後のユダヤ人)をつくりました。
そして、神がイスラエル民族を率いて世界を回復させようとしましたが、イスラエル民族も堕落しまくり、イスラエル民族が建てた国は、めっちゃ強い国に滅ぼされてしまいます。そして、そのめっちゃ強い国も、さらにめちゃくちゃ強い国に滅ぼされてしまいました。
しかし、神はイスラエル民族に約束しました。
「いつか、人々のためにスーパーヒーロー的な存在(メシア)を遣わして、みんなを救ってあげるよ」
聖書が編纂された当時、ユダヤ人には国がなく、めちゃくちゃ強い外国に支配されていました。そこでユダヤ人は、「イスラエル民族(自分達の先祖)が神の背いた結果、神の裁きとしてイスラエル民族の国は滅亡した。自分たちが外国に支配されているのも、神の摂理なんや」という理解のもとに聖書を編纂したのです。そして、「いつかスーパーヒーロー的な存在(メシア)が自分達を助けてくれるんや」という希望も忘れず書き残しました。
つまり、「世界は最初とても良いものだったが、人間が堕落したせいでバイオレンスでグロテスクな世界になってしまった。神は自分達の先祖を選び国をつくったが、先祖も堕落したので、国も滅びてしまった。しかし、神の教えを守れば神は守ってくれるし、いつかスーパーヒーロー的な存在(メシア)が自分たちを救ってくれる」という感じです。
後にキリスト教が誕生する上で、「人間の堕落」「いつか現れるスーパーヒーロー的な存在(メシア)」が、めちゃくちゃ重要な伏線となりました。
キリスト教の誕生
ついにキリスト教の説明に入ります。
キリスト教誕生の舞台は、テルマエ・ロマエで有名なローマ帝国がブイブイ言わせて周辺の異民族を威圧しまくっていた時代でした。
ユダヤ人が住む中東のパレスチナは、ローマ帝国の支配下にあったのです。
外国による支配が続く閉塞感の中で、「俺らの先祖は神様に罪を犯したから国が滅びたんや。俺たちはしっかり神様の教えを守って、神様に守ってもらおうな」と戒律守ろうぜ的な運動が流行っていました。
また、「スーパーヒーロー(メシア)がこの時代に出てきて、ローマ帝国をぶっ壊してくれたらなあ」というメシア待望論が高まっていました。
宗教の戒律守ろうぜ的な運動と、メシア待望の機運が高まっていたのです。
しかし、ユダヤ人社会の中では、社会の分断が深刻化していました。
原因の一つに、宗教の戒律守ろうぜ的な運動の行き過ぎがありました。
ローマ帝国に雇われてローマ帝国の税金を回収する、集金人的な仕事のユダヤ人(徴税人)は、「裏切り者め!」と嫌われていました。さらに、当時の戒律で外国人と接すると穢れると信じられていたので、「異民族の手下になっているあいつらは穢れている!」と嫌われていたのです。
宗教の戒律守ろうぜ運動の矛先は、徴税人では収まりませんでした。
羊飼いも娼婦も、さらには病人や障がい者までもがその犠牲となったのです。
羊飼いは、羊の世話をしなければなりません。
すると、ユダヤ教で働いてはいけないとされる安息日にも、働かなくてはなりません。つまり、「羊飼いは安息日の戒律を破ってる!あいつらは罪人(つみびと)や!」というわけです。
娼婦もまた当時の社会で侮蔑されていた職業であり、「身体売ってるあいつらは罪人や!」と断罪されていました。
病人や障がい者にも矛先が向いたのは、当時の社会では、「病気や障害はその人の罪か、その人の先祖の罪の結果である」と考える風潮が強かったからです。
「あいつら何か悪いことしたから病気になってんや!自己責任や!」「先祖が何か悪いことしてんやろ!」というわけです。
こうして社会の閉塞感の中、宗教の戒律守ろうぜ運動が盛り上がったり、スーパーヒーローの出現を待ち望んだりする一方で、弱い者虐めが蔓延るという状態になっていたのです。
つまり、ローマ帝国という圧倒的強者に抑圧された人々が、その中でさらに弱い立場にある人々を虐めるという、まさに地獄のごとき様相を呈していたのでした。
ここからは私ねだおれの想像ですが、もしかしたら、「スーパーヒーロー(メシア)が来てユダヤ人が解放されるためには、ユダヤ人全員が悔い改めて戒律を守らなあかんのや!戒律を守らん罪人(つみびと)どもは、ユダヤ社会の足を引っ張るお荷物や!」と考えていた人も、もしかしたらいたのかもしれません。
だとしたら、何と不幸なことでしょうか。
しかし、現代社会に目を向ければ、強者から抑圧・搾取されている人々が、自分達より弱い人々に怒りの矛先を向けるということは、今まさに繰り返されていることかもしれません……。
そんな中、イエスが現れました。
イエスは、「神の国が来たで!心入れ替え生きるんやで!」と呼びかけて回りました。神の国とは、神による支配のことです。つまり、神の救いがこの残酷な世界に来たということです。
そして、徴税人や娼婦と一緒にご飯を食べたり、病気を治したりしながら、布教して回りました。
当時は、罪人は穢れているとされていたので、罪人と接すること自体アウトだとされていました。なので、一緒に食事をすることは、彼らの尊厳を回復する行為だったのです。
同様に、病人や障がい者に接することも良くないとされていました。しかし、病や障害に苦しむ人と関わり、癒して回ったのでした。
イエスは、神による罪の赦しを説いて回り、社会の中で虐められていた人々と友達になりました。イエスは、バイオレンスでグロテスクなこの世界の只中に、一人ひとりが大切にされる優しい世界、まさに「神の国」を持って来たのです。
その一方で、人々に宗教マウントを取って虐める悪徳エリートや、人々を宗教的な戒律で縛りまくって苦しめる宗教版悪徳マナー講師みたいな人たちを論破しまくりました。
抑圧に苦しむ弱い人を助け、弱い者虐めをする強者を論破して回ったイエスの行動は、やがてバズりまくり、フォロワーがかなり増えた感じになりました。
やがてイエスの弟子もイエスを尊敬する人々も、「イエスこそが、ユダヤ人を抑圧から救うスーパーヒーロー(メシア)なんちゃうか?」と考えるようになりました。
しかし、当時の人々が考えるスーパーヒーロー(メシア)とは、軍事的なパワーで人々を解放し、力強く人々をまとめ上げる、パワーに満ち溢れた軍事的・政治的指導者なのでした。つまり、「力こそパワー!」というわけです。
なので、実はイエスの弟子の中にも、「ローマ帝国やっつけた後、側近とかにしてもらえるかな……」等という期待を抱いていた人もいたようです。
そんな感じでフォロワーとの意識のズレを抱えつつ、やがてイエスはユダヤ社会の支配層、俗に言う「上級国民」に憎まれるようになりました。
当時のユダヤ社会では、神殿の祭司がパワーを握っており、祭司が部下を派遣してイエスを逮捕しました。
祭司達は、当時の掟でも違法になる無茶な裁判を開き、イエスを「神に対する不敬罪」としました。そして、ローマ帝国の当局にイエスを突き出し、「ローマ帝国に対する反逆罪」で処刑するよう要求しました。
ローマ帝国からユダヤ人統治のために派遣された中間管理職みたいな感じの人は、「いや、ユダヤの王名乗ってんのか知らんけど、ローマの法律やと……処刑までしやんなあかんかなあ?」とイエスを処刑することを渋っていたようです。
ローマ帝国の中間管理職みたいな感じの人は、イエスを処刑しろという、人々からの圧に押され、結局イエスを十字架刑に処しました。
十字架刑は、当時ローマ帝国では反逆者に対する処刑方法なのでした。最終的にイエスは反逆者として処刑されたというわけです。
弟子たちは、イエスがほぼ無抵抗でなぶり殺しにされる様を目の当たりにし、絶望しました。圧倒的なパワーでローマ帝国を破壊し、自分達を救い出し、あわよくば新生ユダヤ人国家の重役としての地位を与えてくれるはずだったイエスが、ローマ帝国に逮捕され、完全に無抵抗で惨たらしく殺されてしまったのです。
当時の弟子たちの絶望はどれ程のものでしょうか。
しかし、イエスは3日目に復活しました。
弟子たちは、「イエスはやはり人類を救うために、神によって遣わされたメシアだった」と信じるようになりました。
そして、イエスが十字架で処刑された出来事については、「神の子であり、神そのものであるイエスが、全人類の罪を一身に受けて処刑された。イエスは復活し、罪に勝利した」と信じられるようになりました。
つまり、人間が勝手に神を裁き、人間が神を殺したけど、それでも神は人間を赦して復活することで、人間の暴力性・罪に打ち勝った。そして、神の愛のパワーが人間を罪による支配から解放するのだ、と信じる信仰が生まれたのです。
こうして、一部のユダヤ人の間で、イエスを「愛のパワーで、人々を罪による抑圧から解放するスーパーヒーロー(メシア)」として崇拝する信仰が広まり始めました。
かつては「軍事のパワーでローマ帝国から救い出し、ユダヤ人国家を建設してくれるかも!」と期待されていたイエスは、「愛のパワーで全人類を罪の力から救い出し、すべての人が大切にされる優しい世界・神の国を建設してくれるガチのヒーロー」となったのです。
この時は、ユダヤ教の異端みたいなポジションでした。
しかし、「外国人も神の国の一員になれる。神は人を差別しない」という信仰から、ローマ帝国内にキリスト教が広まり、ユダヤ教の異端から世界宗教へと進化したのです。
スーパーヒーロー・救世主を意味する「メシア」は、ユダヤ人の言語、ヘブライ語です。はじめに述べたように、ギリシア語で救世主は「キリスト」です。
というわけで、古代ユダヤ人のイエスが世界を救うスーパーヒーロー、つまり救世主だと信じる宗教であるキリスト教が誕生したのです!
ぱちぱちぱち……。
キリスト教のその後
こうして、キリスト教はローマ帝国内に広がり、地獄のような迫害を受け始めました。初期のキリスト教徒は、イエスが処刑された3日後に復活したように、自分達も終末の時には復活すると堅く信じていたので、イエスと同じように無抵抗で殉教していきました。
ローマ帝国による迫害が激しかった時期には、殉教に憧れる雰囲気すらあったそうです。
しかし、イエスが処刑されて400年後くらいに、なんやかんやでローマ帝国の国教になり、いつの間にかヨーロッパ世界の覇権を握るようになりました。
すると、今度はキリスト教が堕落し始めました。
時は流れ中世ヨーロッパ……
かつて、人々に愛を説き、無抵抗で権力者に殺され殉教する宗教だったキリスト教は、いつの間にか、人々に隷属を要求し、圧倒的武力で弱者を虐殺する切リ捨テ教へと変貌を遂げていたのです。
十字軍、魔女狩り、異端審問……
そして宗教改革の時代……
「このままではいけない!」キリスト教の変革を叫ぶプロテスタントが登場しました。しかし、プロテスタントもまた、自分と違う考えの人を焼き殺すことは普通だと思っていたので、違う考えのキリスト教徒を虐殺しました。
さらに時は流れ現代社会……
さすがに大っぴらに人を殺すことはあまりないものの、キリスト教の教義に暴力性が染みついていました。
人に愛を説くはずのキリスト教組織内で、なぜか性犯罪が起きて、しかも組織によって事件がもみ消されたり、高額のお布施を要求する牧師が現れたり、教会が人々にタダ働きを要求して使い潰したり、LGBT+Qの人々を勝手に罪人扱いして差別したりと、暴力的なキリスト教徒やキリスト教団体が多数存在しています。
なので、私ねだおれは、キリスト教の本来の教えはとても良いと思っているのですが、なかなか気軽に「教会行ってみなよ!」とは言えません。その人の近所にある教会が、大丈夫な教会か、そうじゃない教会かが分からないからです。一応大まかに判断する方法はありますが、絶対大丈夫とも言いにくいです。それについては、またの機会に詳しく説明するかもしれません。
ここでちょっとだけ触れるなら、「〇〇を信じるだけで天国に行ける」「同性愛は罪」「キリスト教を信じない異教徒は地獄の業火で滅ぼされる」みたいな教えを前面に押し出してくる教会は、個人的にはお勧めできません。自分も他人も大切にする人生を歩みたいなら、同性愛を罪と教える教会は避けてください。(詳しい理由はいずれまたの機会に説明します)
あとは、「ワクチンは悪魔の勢力の罠なので、ワクチンを接種すると地獄に堕ちる。私たちだけが真実を知っている」「実は地球は平面だが、悪の組織が隠蔽している。私たちだけが真実を知っている」「現代のイスラエル共和国は100%神の導きによって建国された。これは聖書の予言の成就だ。今のイスラエルがやっていることは正しいので、イスラエルを批判する奴は悪の勢力の手先だ。アラブやヨーロッパは、イスラエルを陥れる悪の陰謀を企てている。やがて終末戦争が起きてキリスト教徒だけが救われる。私たちだけが真実を知っている」みたいな、オカルトとか陰謀論が混ざった感じの教えと遭遇したら、全力で逃げてください。
おわりに
というわけで、途中までは希望のある展開だったのに、最後は一気に辛い話になってしまいました。
次回は、ねだおれが個人的に重要視しているキリスト教の考え方について説明するつもりです。次回は奈良要素固め濃いめ多めかもしれません。