大和寝倒れ随想録

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2024年3月24日 礼拝説教 『ホサナ』

 今日はイースターの一週間前で、イエスさまがエルサレムに入城されたことを記念する「棕櫚の主日」ですので、ヨハネ福音書12章12節から16節までをお読みいたします。

 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、
「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。

 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。

 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。

(口語訳聖書)

 それでは『ホサナ』と題してお話させていただきます。

 イエスさまがエルサレムの町に入って行かれたわけですが、多くの人々が、イエスさまを歓迎しています。

 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、
「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」

 大勢の群衆が棕櫚の枝を手に取ってイエスさまを迎えに出て行ったとありますが、棕櫚というのは、ヤシの仲間で、当時のユダヤ人にとっては、政治的な意味がありました。紀元前2世紀頃、セレウコス朝シリアという国に支配されていたユダヤ人たちが反乱を起こしました。そして、勝利した時にユダヤの人々は棕櫚の枝を掲げて喜んだと伝えられています。つまり、古代のユダヤ人にとって棕櫚の枝を掲げるというのは、民族の独立や勝利を暗示する政治的なシンボルだったわけです。当時のユダヤ人がローマ帝国に支配されていたことを考えると、人々がイエスさまに対して、ローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれるだろうという期待をかけていたように思われます。

 人々は棕櫚の枝を掲げて、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」と叫んでいました。まさに、イエスさまが自分達の王になってイスラエルの国を復興してくれると期待していたわけです。

 ホサナという言葉が出てきますが、ホサナはヘブライ語で、「お救いください」といった意味合いの言葉です。この言葉は、旧約聖書では神さまか王さまに対してのみ使われています。

 ローマ帝国からユダヤの人々を解放する指導者になると期待されていたイエスさまですが、乗っていたのは、たくましい軍馬でも大きな戦車でもありませんでした。イエスさまは小さなろばに乗って、エルサレムに入って来られたのです。

 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。

 たくましい軍事的指導者とは反対に、イエスさまは、ろばの子に乗っておいでになる方なのです。「書いてあるとおりであった」と言われていますが、この部分は旧約聖書からの引用です。

 ゼカリヤ書9章9節にはこのように書かれています。

 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。

 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。

 彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。

 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

 ゼカリヤ書では、軍事力によらない平和が語られています。

 イエスさまがエルサレムに来られるのを歓迎する人々という構図。一見喜ばしい光景ですが、水面下では人間と神さまの心はすれ違っていたのです。軍事力でなく柔和さによって平和を勝ち取ろうとする神の心。軍事力によって自分達のための勝利を勝ち取ろうとする人の心。そういったすれ違いが起こっていたのです。

 それでも、人々がイエスさまを歓迎したことは、旧約聖書の預言の成就なのだという風に、ここでは伝えられています。

 その次には、このように書かれています。

 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。

 弟子たちもまた、この時イエスさまのことを悟っていなかったようです。

 イエスさまは人々に熱狂的に歓迎され、イスラエルの王として担ぎ上げられ、エルサレムに入られました。しかし、その後すぐ、ローマ帝国に逮捕され、国家反逆罪で処刑されています。さらに、イエスさまを王として担ぎ上げていた人々も、手のひらを反すように「十字架につけろ」と一緒に叫んでいたのです。民族主義的なシンボルを掲げて歓迎した相手に向かって、数日後には「十字架につけろ」と叫んでいる。人間というのは、なかなかに残酷な生き物です。

 ほとんどの人間は、何かしらの形で救いを求めていると思います。あるいは、満たされることを求めていると思います。ですが、自分が救われたいがために、満たされたいがために、暴力的になってしまうことがあります。

 エルサレムの群衆は、イエスさまを、異民族の支配から民族を救う指導者として祭り上げましたが、後にイエスさまがそういった方ではないと分かると、見捨ててしまいました。

 このように、救いを求める人間が他の誰かを切り捨てるというのは、現代の社会でもよくあることではないでしょうか。

 しかしそれでも、イエスさまは小さなろばに乗って、平和の王様として、私たちのところへ来られます。

 人間は暴力による勝利を求めがちですが、イエスさまは、神さまは、愛によって人々を、私たちを罪から救い、そうすることで勝利されます。

 今日はイエスさまがエルサレムに入城されたことを記念する日です。神すらも罪人として殺してしまう人間の暴力性、心の弱さ、そして、それを分かった上で小さなろばに乗って来てくださるイエスさまの愛を心に留めて、生活していきたいと思います。