大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

キリスト教とメンタルについての試論(1)~アイデンティティの話~

はじめに

 メンタル関係の問題がネット上や書籍で取り沙汰されるようになりました。

 多くの人に「社交不安」、「自動思考」、「認知の歪み」、「トラウマ」といった用語が流通するようになり、ストレス社会の中で、自分の内面を探求していきたいというニーズも、益々高まってきているように思われます。

 今から1700年近く昔、2~3世紀頃のキリスト教徒たちもまた、今とは違った方法でメンタルの問題と向き合っていました。

 彼らは、イエス・キリストの完全性を模倣することで、神に近づこうと考えました。

 その内ある人々は、自分の心を浄化するため、人里離れた場所に修道院をつくりました。そこで孤独な祈りの生活を送ることで、徹底的に自分の心と向き合い、心の奥底から湧き上がってくる感情や思考――彼らは、自分や他者に害をなす感情や思考を「悪霊(あくれい)」と呼んで擬人化していました――と戦う日々を送っていました。

 現代のような臨床心理学や精神分析学が存在しなかった時代――古代のキリスト教徒は、キリスト教の神と人との関係からメンタルの問題を捉え、自分の感情や思考に対処していたのです。

 私は、「古代のキリスト教徒の実践は、現代のメンタルの問題にも、ある程度有効なのではないか」と考えました。

 そこで、キリスト教とメンタルについて、私なりの考えや仮説を述べていきたいと思います。

 

※ここに書いてある内容は、2~3世紀のギリシア教父の思想やエジプトの修道院での実践を参考にして私が理解した内容なので、カトリックプロテスタントなど、欧米で主流となっているキリスト教の考えとは大きく異なります。現代であれば、むしろ東方正教会の静寂主義<ヘシカズム>の方が近いと思います。

※「ある程度有効なのではないか」と述べたのは、少なくとも生活の質(quolity of life)の向上には寄与できるのではないかと考えたためです。しかし、現状では実証的な根拠(empirical evidence)はなく、個人的な推測の域に留まっています。決して、医学的な効果を主張するものではありません。

アイデンティティ

 キリスト教的なメンタル理解を語る上で、アイデンティティの問題は避けて通れないと思いますので、アイデンティティの影響について、私の考えをお話しします。

 

 人は、アイデンティティを土台として、自分の生活を展開させていくように思います。

 例えば、「自分は奈良市が大好きな奈良市民だ」というアイデンティティを持って生活している人は、奈良公園の鹿と戯れたり、寺社仏閣、近所の天皇陵などを訪れたり、あるいは地元の店舗で飲食したりショッピングしたりすることを、楽しみとします。

 こうして、「奈良市」という地域やその歴史を中心に生活が回っていくことになります。

 このように、趣味をアイデンティティとする人は、趣味を中心に生活が回っていくことになると思います。音楽が好きであれば、自分の好きなジャンルの音楽を愛で、音楽が生活に彩りを与えるし、漫画が好きであれば、自分の好きな漫画の世界観に浸ることで、日々の生活の活力を得るでしょう。 

 多くの人は、複数のアイデンティティを持っていて、その中でも1つがメインになっていたり、あるいは複数が並立したりしているかもしれない。

 

 このように、アイデンティティはその人の生活の中心になり、その人の人生を方向付ける力を持っています。

 しかし、常にその人に良い影響を与えるとは限りません。

 地元愛も、ゆがんだ形になると、他の地域との競争心で殺伐とすることもあります。「私は愛国者だ」というアイデンティティを持つ人が、外国人や、国内の少数派や少数民族の人々を見下すことは、深刻な社会問題となっています。「趣味」についても、違った趣味を持つ人を排撃したり、初心者にいろいろ指摘してマウントを取ってみたりといった問題を引き起こすこともあるでしょう。

 また、社会からスティグマ(否定的な意味)」を与えられることもあります。

 かつて、「3Kの仕事」という言葉が流行りました。

 キタナイ・キツイ・キケンの頭文字で、危険を伴う肉体労働などを否定的に意味づけた言葉でした。

 最近は、「底辺職」といった言葉で就活サイトが炎上しました。

「底辺職」という言葉が用いられるときは、「誰でもできる仕事」という言葉がセットになってきます。

 こういったスティグマを元にアイデンティティを形成した場合、「自分は能力が足りず、誰でもできるような仕事に就いてしまった」と考えるようになるかもしれません。

 しかし、どこかの就活コンサルやエリートビジネスマンが「誰にでもできる仕事」と判断したからと言って、それが本当に誰にでもできる仕事だと言えるでしょうか?実際には、「国家資格を要する専門性の高い職業」かもしれません。

 専門職というアイデンティティを持つと、「自分は専門性を求められる、責任ある仕事に就いている」と考えて日々の業務に励むかもしれません。

 そんな人が、自分の職業に対する待遇と直面した時、「国家資格を要する、専門性の高い職業であるにも関わらず、低賃金で搾取される犠牲者」というアイデンティティを得て、待遇改善を求める運動に参加するようになるかもしれません。

 とすると、アイデンティティはメンタルの問題にも大きな影響を与えるのではないでしょうか?

 

「診断」が「否定的なアイデンティティ」をつくる時

 近年、精神疾患やメンタルの問題への関心が急速に高まり、「うつ病」「不安障害」「愛着障害」といった用語が社会に流通するようになりました。

 その結果、治療の必要性を感じ、医療やカウンセリングに繋がる人も増えてきました。

 現代は、いわゆる「通俗心理学」も流行し始めています。

 たとえば、「アダルトチルドレン」は医療的な診断名でなく、アルコール依存症を治療する現場から生まれた言葉ですが、通俗心理学においてはかなり意味が拡大されて使用されている印象です。さらに、「愛着障害」に至っては、本来の診断基準と、一部の専門家や通俗心理学においては、含まれる範囲が大きくことなります。

 そこには、学術的な権威から離れて自由にメンタルの問題を探求できるという利点や、医療的な介入の範疇に至らない人も、自分のメンタルの問題を掘り下げることができるという利点もあるかもしれません。

 ただし、そこには大きな危険もあります。

 それは、「診断」の乱用です。

 本来、「診断基準」は、その人の問題を特定し、適切な支援に繋げるためのものです。それに、精神疾患の正式な診断を下せるのは、現在は精神科医のみです。

 しかし、「通俗心理学」では、その基準が非常に曖昧であったり、記事や書籍を読んだ人が、「私もこれに当てはまる!」と思わされてしまう内容であることが、少なくありません。

「診断」すれば、適切な支援に繋げたり、有効な対処法を伝えたり、治療したりする責任があると思いますが、「〇点以上だったあなたは、××です!そんなあなたには、〇〇という生きづらさがあって、その原因は幼少期の……」という風に、不安にさせる情報を羅列し、いかに困難な問題かを強調し続けることも、少なくないように思います。

 生き辛さの原因を説明されて、それで生き辛さが改善するなら超ハッピーなわけですが、私の知る範囲内で、メンタル本を読んで生活が楽になったり問題が解決したりした人は、それほど多くないように思います。(メンタル本を読むのを止めたことで、精神状態が安定したという人はいました。)

 むしろ、「自分は愛着障害だから、親密な関係を避けてしまう(でも実行できる解決策はない)」「私はアダルトチルドレンだから、人との信頼関係を築けない(でも実行できる解決策はない)」という風に、「自分の生き辛さの原因は理解できたけど、どうすればいいのか分からない」という状態になる人が多いように思います。そして、「理解できた」という感覚はあるので、さらに自己理解を深めなければならないと思わされ、メンタル本を買うよう誘われていきます。

 もしも、問題に悩んで病院に行ったのに、「この症状の原因は幼少期で……、この症状にはこんな生きづらさが伴い、云云かんぬん……」と言いつつ、治療してくれない医者がいれば、「原因の説明だけして治療してくれへんのかーい!」となり、二度と行かないでしょう。

 でも、通俗心理学の本や動画は、そんなタイプのものが多い印象です。

 対処法を示していたとしても、「すべてを受け入れてくれる人を見つけ、その人との関係の中で、時間をかけて心を癒す」「幼少期のトラウマと向き合い、心の傷を癒す」など、多くの人はスタートラインにすら立てない内容だったり、あるいは高額なセミナーを受けさせたりうるパターンも見られます。

 悪質な例としては、「このリストに当てはまったあなたは、毒親かもしれません! あなたは、子どもから見て、と~っても嫌な親かもしれません! このままだと、あなたの子どもはアダルトチルドレンになり、いろんな生き辛さを抱えて生きていくことになるかもしれません! そんなの嫌でしょ? 私のセラピーを受けましょう!」みたいなケースもありました。不安を煽って依存させるというのは、とても悪質です。

 また、この手の書籍では、半神的存在の如き領域に達した「健常者」が登場することもあります。

 例えば、「健全な愛着を形成して育った人は、ストレス下にあっても、恐れることなく自分の意見を述べることができ……」みたいな、それっぽい記述でスタートし、いつの間にか、どんな困難に直面しても自分を見失わず、対人葛藤においても相手からの批判を冷静に受け止め、建設的な自己主張ができるという、ユートピアの住人みたいな「健常者」が出現していたりします。

 しかし、生き辛さに悩み、切羽詰まっている時にこういった記述を目にすると、「こんなの自分にはできない! 自分には何か弱さがあるんだ……!」と、絶望させられてしまうこともあります。

 そして、自分は「健常者」とは違う存在だと考え、社会的な孤立感が高まります。

 実際、メンタルの当事者から見ると、「健常者」が化け物のように見えることはあります。「自分達に出来ないことを、平然とやってのけるッ……!」と思わされることもあるかもしれません。しかし、専門家がそこに追い打ちをかけるようなことをしてはいけないのです。

 怪しげな専門家の安易な「診断」の結果、「自分は○○で、こんな生き辛さがあって、あんな生き辛さもあって、とても人生が辛い」というアイデンティティが出来上がると、生き辛さを中心に生活が回るようになり、どこにいっても生き辛さが目に付くようになります。

 生き辛さを抱えつつも出来ている部分は隠され、「健常者」ですら困難を覚えるような場面に直面したとき、「健常者なら、こんなことも簡単に乗り越えられるんだろうな……」となってしまうのであれば、かえって孤立感や辛さが増してしまいます。

 このように、「否定的なアイデンティティ」のみを保持すると、自分の否定的な部分が増幅され、「否定的な自分」として生きる方向へと、自分の考えや行動を拘束してしまうようになるのです。

 単に「心の持ちよう」とか「気のせい」という言葉によって矮小化されるべき問題ではなく、「自分や自分の生活への意味づけ」、つまりアイデンティティは、心の動きに大きく影響します。

 「病」がアイデンティティになること自体が悪いというわけではありません。
 「自分にはこんな生き辛さがあるし、自分のことなんて大嫌いだけど、とりあえず生きている」という風に、少しでも意味づけが変われば、状況は大きく変わると思います。

 

 生き辛さの原因を理解したいという思いに付け込んで、不安を煽って依存させ、さらに本を買わせたり、高額なセミナーや特に役にも立たない治療で金銭をむしり取る悪質な専門家が結構いるように思われます。

 通俗心理学や、「アダルトチルドレン」・「愛着障害」の定義の拡大や、HSPのカテゴリ分けなど、それ自体が悪いかどうかは分かりませんし、私も把握しきれていないので、確かなことは言えません。

 それらの中には、有益な情報もたくさんあるかもしれません。

 それに、精神医学で使用されるDSMの診断基準に当てはまらなければ、全く問題がないなどということはなく、医学的な診断に当てはまらない生き辛さは、実際にたくさんありますし、これもまた「気の持ちよう」などという言葉で矮小化されて良いものではありません。

 しかし、「その知識を得たことで、生活が少しでも楽になっただろうか? それとも理解できたと感じるだけで全然楽になってなかったり、かえって生き辛さが気になるようになってはいないだろうか?」といった問いは、常に必要だと思います。

 そして、読んだ本やブログ、視聴した動画などが役に立っていなければ、そこで得た知識は、手放してしまっても良いのかもしれません。

 大事なのは、少しでも楽になったかどうかです。

(このブログ記事も、役に立たなければ手放してください)

宗教もアイデンティティを形成する

 宗教も、信者のアイデンティティとなるわけですが、宗教の作り出すアイデンティティは非常に強力です。なぜなら、その人の世界観や道徳観に根底から影響を与えるからです。

 ここにも、大きな落とし穴があります。

 例えば、「この宗教を信じている自分達だけが正しい人間で、自分達の宗教を信じない人間はレベルが低い」と思い込んでいる人たちは、自分達の優れた部分と、外部の人々の劣った部分ばかりを見て、自分達に都合の良いように物事を解釈するようになります。

 そして、「自分達は世間の人々よりレベルが高い、選ばれた人間だ」というアイデンティティを持つようになり、他の人々を見下すようになります。こういったアイデンティティを獲得してしまった宗教信者は、やがて他人も自分も粗末に扱うようになってしまいます。

 過激なキリスト教徒はこのようなアイデンティティを獲得してしまうことが多いです。

 それでは、2~3世紀のキリスト教は、どのような世界観を持っていたのでしょうか。

「弱くても傷だらけでも、日々前進できる」

 2~3世紀のキリスト教徒は、「人間は神の像としてつくられており、本来は、神の完全性を目指して育つ存在としてつくられている。最初の人間が堕落したことで、神の像としての在り方は壊れ、神のつくった世界も壊れ、弱さや痛みを抱えるようになったが、神と力を合わせることにより、神の像としての性質が癒され、神を目指して育っていく」と考えていました。

 今や、ネットを見れば、いろんな情報が目に入ってきます。

 

 ポジティブでなければならない。

 自己肯定感を高めないといけない。

 圧力下でも、上手に自己主張できないといけない

 他者を信頼するには、自分の幼少期を掘り起こさないといけない……等々。

 

 たくさんしんどい思いをして、自分の嫌な部分を直視して、自分の力で這い上がらないといけないのだと、思わされることがあります。

 不安や怒り、恥などの感情に直面した時、「自分はなんて弱いんだ。こんなんじゃダメだ」と思わされることもあります。

 しかし、古代のキリスト教徒たちは、「ポジティブ思考」「自己肯定感」「心の傷」「不安障害」といった言葉を知りませんでした。

 それでも彼らは、「いろいろな感情や思考が自分を苦しめること」そして「世間で人と関わって忙しく働けば、気疲れして自分を見失うこと」を知っていました。

 

 人生には、思わぬ困難があります。

 思い出したくない大きな失敗もあります。

 生きていると、傷ついたり人生やこの世に絶望してしまうこともあります。

 

 臨床心理学や「通俗心理学」を知らなかった古代のキリスト教徒たちは、「弱さを抱えた人間が社会に適応できず不調を起こす。自分で歯を食いしばって努力して回復し成長しないといけない」という世界観を持ちませんでした

 彼らは、「そもそも、人間も世界も壊れている。人間は壊れた神の像であり、いろいろな弱さを抱えている。それでも、神の像としての性質が失われたわけではない。神と力を合わせることによって、神が自分達を癒し育ててくださる」と信じました。

 彼らは、どれだけ自分の弱さに直面しても、「自分は神の像なのだ」という真理を握りしめていたと思います。

 自分の弱さに絶望しても、「自分ではどれだけ無価値に思えても、自分では理解できないが、自分は神の像としてつくられたのだ」と神の慈悲に縋っていたのだと思います。

 そんな彼らは、「弱くても傷だらけでも日々前進できる」というアイデンティティを獲得していたのだと思います。

 

 修道院が設立されると、「人里離れた場所に住み、静寂の中でひたすら神に祈ることで、自分の様々な感情と向き合い、神の像としての癒しと育ちを目指す」という実践が生まれました。

 現代社会に生きる私たちは、修道院に籠ることはできませんが、静けさを確保できる孤独な時間は大切だと思います。

おわりに

 今日は、何をアイデンティティとするかが、その人の生活観を大きく左右するというお話でした。
 趣味をアイデンティティとする人は趣味を中心に生活が回り、宗教をアイデンティティとする人は、宗教を中心に生活が回ります。

 古代のキリスト教徒の思想からは、「自分は病んだ存在だけど、神と力を合わせることで、神の像として癒されていく人生を歩むことができる」という人生観が見て取れると思います。

 次回は、キリスト教の世界観をもう少し詳しく説明する予定ですが、その後、修道院における実践や理論について、現代人向けにアレンジした私の理解をお伝えしていきたいと思います。(※実際の理論はギリシア哲学の影響を受けており、ギリシア哲学に馴染みのない私たちにとっては難解です)

 

おまけ

「自分で心理学の本を読んでメンタルの問題について学びたい!」という方には、認知行動療法やブリーフセラピー(短期療法)についての本をオススメします。「意味づけ」が生活の質や行動に与える影響について知りたい方には、ナラティブアプローチがオススメです。認知行動療法に組み込まれて使用されることの多い、マインドフルネスストレス低減法も効果的だと思います。

 

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