大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2024年1月21日 礼拝説教 『Unity』

創世記2章21節から24節をお読みいたします。

 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、

 わたしの肉の肉。

 男から取ったものだから、

 これを女と名づけよう」。

 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

(口語訳聖書)

 それでは、『Unity』と題してお話させていただきます。

 まずは前回のおさらいをしますが、神さまは人間をつくって園に配置し、園を守らせました。しかし人間は1人だけでした。そこで神さまは「人がひとりでいるのは良くない」とおっしゃって、その人間にふさわしいパートナーを見つけようと、いろいろな動物を造られました。しかしそれでも、パートナーは見つかりませんでした。

 今回は、そのお話の続きです。

 神さまは人、つまり後のアダムを眠らせました。そして、あばら骨の一つを取って1人の女性をつくったと言われています。この箇所を読んで、「は? なんで女があばら一本から造られとんねん。男尊女卑かコラ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、この「あばら骨」という言葉ですが、古代イスラエル人の神話を編纂する際に、異民族の神話を翻訳して転用して、「あばら骨」になったという説もあります。そして翻訳される元になった言葉は「生命」を意味すると言われています。するとこれは、単に骨一本を取ったのではなく、人の命を分けて2人の人間をつくった、という意味合いにも取れます。「あばら骨」という言葉について、もう1つ解釈があるんですけれども、こっちが私の好きな解釈です。それは、あばら一本ではなく、「側面」あるいは「片側」という解釈です。「あばら骨」と訳されている言葉は他の聖書箇所では専ら「片側」とか「側面」といった意味で翻訳されており、「あばら骨」と訳されているのはこの箇所だけなんです。つまり、一人の人間を真っ二つにして、二人の人間に分けた。対等なパートナーという感じで素敵じゃないでしょうか。

 元の人から生命の一部を取ったにせよ、片側を取ったにせよ、どちらの解釈であっても、新しく造られたもう1人の人間が、とても大切な存在だったと感じられるのではないでしょうか。

 そしてアダムは言います。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」

 この台詞から、アダムは新しく造られたもう1人の人間をただのあばら一本の人間とは見なしていないことが分かります。わたし骨の骨、わたしの肉の肉、まさに瓜二つ、向かい合うパートナーという感じでしょうか。

 こうして、人間は親元を離れて結婚するようになったのだと語られます。

 この場面は「結婚の制定」と呼ばれることもあります。たしかに、神話には起源譚というものがあり、「こういうわけで、人々はこうするようになったのです」といった起源が語られることがあります。しかし、私にとっては、この箇所は単に結婚の話をしているだけではないように思われるんです。

「人間がたくさんいるのは、助け合うため」と、この物語は伝えてくれているのではないでしょうか。

 人間はたくさんいるし、それぞれクセや個性はあります。それでも一つになって助け合う。神さまは、そんなメッセージを、この神話を通して伝えてくださっているのではないでしょうか。
 
 しかし、今の現実に目を向けてみると、神さまの理想とは逆のことが起こっています。

 神さまが望んだ世界は悪しき思いで塗りつぶされています。

 神さまは人々が1つになって助け合うことを望んだのに、人が人を抑圧し支配する社会体制、レゲエ用語で言う「Babylon system」が出来上がってしまいました。こうして今この時も、強き者が私服を肥やし、弱き者を踏みつけています。

 しかし、そんな中私たちを助けに来てくださったのが、イエスさまでした。

 パウロは、キリストの血がユダヤ人とそうでない者を一つにしたと語りました。そして、キリスト教の教会がキリストのからだであると言いました。新約聖書におけるこのパウロの表現も、この物語を念頭に置いたものなのだと、私は思います。

 現実の世界は奪い合い潰し合う地獄みたいな世界です。そんな世界より、互いに尽くし合い庇い合う、そんな極楽みたいな世界の方が良いのではないでしょうか。

 レゲエにはUnityという言葉があります。これは、みんなが1つになるという意味です。支え合い補い合い助け合う、その働きの内にUnityというものがあるのではないでしょうか。

 キリストの元でのUnityが地を覆った時、Babylon systemは音を立てて崩れます。

 私たちは聖書を単にお勉強の書物として読んでいるのではありません。知的好奇心も大事ですが、知的好奇心だけで聖書を読んでいる内は、聖書の言葉は身にはつきません。聖書の言葉に魂の深い所で触れ、その振動が魂全体に響く時に、その人の生き方が変化します。そして、実際の生活の中で人と助け合い愛し合う。そういった営みの中でキリストのUnityが育っていく。そういうものなのではないでしょうか。

 そうしてキリストの下でのUnityが大きくなった時、理不尽な社会体制つまりBabylon systemに立ち向かう力、Babylon systemの城壁を穿つような力が生まれるのだと、私は信じています。

 だからこそ、神さまはこの物語を聖書の最初に書かせたのだと思います。

 1人の人間からもう1人の人間がつくられ、そして2人は愛し合い補い合い、まるで1つの身体のように力を合わせる。神さまが描いたこのイメージこそが、キリストの下でのUnityの元型であり理想像なのだと思います。

 ですから、私たちもこの聖書箇所を単なる文字で終わらせるのではなく、日常生活の中でお互い支え合い補い合い助け合い、父と子と聖霊の下でのUnityを目指していきたいと思います。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)6

第1回 ↓

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前回 ↓

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教会の存在意義

 教会は、世界を修復する神の働きの共働者による共同体である。

 聖書の創世神話において、神は地上を統治させるという目的のために人間を創造した。つまり、原初から人間の存在は世界の調和を守ることである。

 その一方で、その後に続く物語は、人間自身の選択が世界の調和を破壊する様子が描写されている。

 よって、聖書の伝承は、人間は全て尊厳を持って生まれた神の代理人である一方で、悪しき行いに傾く弱さも持っているというメッセージを伝えていると言える。

 その後、神がアブラハムを選び、アブラハムの子孫から「神の民」として古代イスラエル民族が生まれるという神話が語られる。この神の民という概念は、人間の暴走によって崩壊した世界を修復するための神の共働者を表す。しかし、その後の物語において、古代イスラエル民族も暴走し神を裏切る様子が描写され、それがイスラエル王国の崩壊の原因であると言い伝えられている。そして旧約聖書は、人間が神に立ち返り世界が修復されるには、救世主(ヘブライ語でメシア、ギリシア語ではキリスト)が必要であると語る。

 新約聖書は、イエスこそが、人々を罪の力から救い出す救世主であり、イエスの元に集うことで、ユダヤ人(古代イスラエル人の子孫)もそうでない者も皆1つの神の民になるのだと伝えている。

 キリスト教会はこれらの伝承の連続性の上に成り立っている。それゆえに、世界の調和の回復のための神の共働者としての役割こそが、最も重要である。よって教会に必要なのは、助け合い支え合う愛し合う生き方を模索し実践することと、異なる属性を持つ人々が互いに尊重し合える文化の形成である。そのためにキリスト者は聖書の伝承に思いを巡らせ、祈り、教会に集まるのであって、そこに強制や暴力があってはならない。

 教会における宗教行為は、世界を修復しようとする神の働きに参加し、それに寄与することが目的であって、宗教行為によって人間性が疎外されるということがあってはならない。

 また、聖書は抑圧的な社会構造を度々批判している。そして、神の力が働く時には、抑圧的な社会構造が正され、抑圧された人々が解放されるのだと説く。教会においても、信仰生活の中心は神との関係性、人との関係性の内にあるべきであり、教会が抑圧的な社会構造を作り出す側に回ってはいけない。

 

聖書解釈について

 聖書は多数の伝承が元になって編纂されている。旧約聖書においては、古代中近東の多神教神話、宗主国と属国との間で交わされた契約、法典、文学との共通点が多い。よって、旧約聖書は古代中近東の文化的土壌から紡がれたと言える。

 新約聖書は初期のキリスト教徒によって書かれたが、イエス・キリストの奇跡についてはユダヤ教の伝承との類似性が指摘されている。またパウロ書簡においても、ギリシア多神教における賛歌との類似性やギリシア・ローマ文化の影響が指摘されている。よって、新約聖書もまた1世紀の地中海文化の影響の下に紡がれたと言える。

 以上のことから、聖書は当時の文化の中で編纂された文書群であり、教職者は当時の文化を考慮に入れた上で聖書について語る責任を負うと考えられる。さらに、聖書の用い方についても、現代の「テキスト」や「聖典」の概念を聖書に押し付けるのではなく、古代世界において聖書がどのように用いられたかという点を配慮する必要があると思われる。聖書には多様な文学的技法が用いられており、教科書というよりも、文学作品のような形で人々の心に働きかけることを想定して編纂されたと考えられる。よって、聖書は客観的な事実のみが書かれた教科書や決まり事が書かれたルールブックというより、物語に心を浸し、思いを巡らせることで、生き方や人との関係性の変化が引き起こされる仕組みになっている。ゆえに、聖書を「答え」が書かれた書物と見なすことよりも、聖書に描かれた伝承を思いめぐらすことで、生活や命を向き合うことを重視することとする。そして、聖書の伝承を思いめぐらす中にこそ、神との交わりがあるものと考える。

2024年1月14日 礼拝説教 『人がひとりでいるのは』

 創世記2章15節から20節をお読みいたします。

 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『人がひとりでいるのは』と題してお話させていただきます。

 旧約聖書創世神話には2つの伝承があり、今回の聖書箇所は、実は前回のお話とは別の伝承です。しかし、人間が地上の平和を守る仕事を神から委託されるという世界観は変わりません。

 今回の伝承では、エデンの園という所に人が配置されています。エデンという言葉は、ヘブライ語で喜びや楽しみを意味する言葉から来ているとも言われていますし、近隣の言葉であるアッカド語で園を意味する言葉から来ているとも言われています。とりあえず、神に護られた領域という感じでしょうか。楽園の元型的なイメージなのかもしれません。

 人間はエデンの園で、園を耕し守るという使命を与えられます。つまり園の管理人として働くことになったわけです。こういった描写に、「人間は本来、地上の調和を守る存在として造られた」という聖書の人間観が反映されているように思います。

 神さまは人間に命じられます。

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」
善悪の知識の木以外からは自由に食べて良い。しかし、善悪の知識の木だけは食べてはいけない。そういった命令ですが、ここでは善悪の知識の木というものがどういったものなのかは、はっきり分かりません。

 その次に神さまは言われます。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」

 園を守る仕事がワンオペ状態なので、増援を造ることになりました。

 ここで、「ふさわしい助け手」という言葉が出てきます。

「助け手」という言葉、日本語だとなんだか補助役とかお手伝いという印象がしないでしょうか?

 この言葉、原語ではエゼルという言葉です。このエゼルという言葉ですが、旧約聖書の他の箇所で出て来る時には、専ら神からの助けを指しています。つまり、助け手は補助役とかお手伝いとかではなく、相手を助け出してやる存在であり、相手はその助け手に助けていただく存在ということになります。

 そして、「ふさわしい助け手」の「ふさわしい」という言葉ですが、これは原語では「向き合う」とか「平行する」とかいったニュアンスを持つ言葉のようです。すると、この助け手というのは、困難から助け出してくれる存在でありながら、対等な存在という印象がします。もしかしたら、助け合うパートナーということなのかもしれません。

 こうして神さまは、はじめの人間のパートナーを造ろうと、様々な動物を造られます。そして、人間に名前をつけさせます。ここにも、人間に仕事を委託する神さまの在り方が見られます。

 しかし、ふさわしい助け手はここでは見つかりません。そこから後に、もう1人の人間を造ることになります。

「人がひとりでいるのは良くない」

 キリスト教では、ここを引用して結婚しなさいと言う人もいます。宗教関係なく、例えば学校ですと、クラスに友達がいないといけないという雰囲気が教室を支配しています。中には、いつも誰かと群れていないと不安だという人もいるかもしれません。「ぼっち」という言葉もあります。

 では、聖書で語られた「人がひとりでいるのは良くない」というのは、結婚しろとか友達をつくれとか、そういう意味なのでしょうか。

 世間には、結婚はしたけど配偶者を支配しているという状態の人もいます。そういう人は相手にとってふさわしい助け手になっていると言えるでしょうか。実際には、相手をひとりぼっちにしてしまっているのではないでしょうか。あるいは、そんな生き方をする人自身もひとりぼっちなのかもしれません。

 友達はたくさんいるように見えて、自分の利益になりそうな人を利用しているだけという状態の人もいるかもしれません。あるいは、マウントの取り合いで日々消耗している人もいるかもしれません。そんなのは、ふさわしい助け手、つまり対等に助け合える相手がいるとは、とても言えないでしょう。

 それでは、聖書が言う「人がひとりでいるのは良くない」というのは、どんな意味なのでしょうか。

 これは、神さまからの語り掛けではないでしょうか。

「私がたくさんの人間を造ったのだから、お互い対等な立場で助け合いなさい」

 創世神話を通して、神さまはそのように私たちに語りかけているのではないでしょうか。

 神さまは、元々この世界を良い場所として造り、神の像、世界の調和を守る存在として人間を造られました。さらに、対等に助け合う存在として、たくさんの人間を造られました。今この地球には、80億人近くの神の像がいます。私たちはお互い対等に助け合う存在となれているでしょうか。

「ぼっち」という言葉、「社会の分断」という言葉、そして「孤独」「孤立」といった言葉がよく聞かれますが、ひとりぼっちになってしまう人が悪いのでしょうか。むしろ、誰かがひとりぼっちになってしまう世界を造った人類の在り方に問題があるのではないでしょうか。

 単に友人や家族であることが、対等に助け合える存在というわけではありません。目の前にいる人もまた自分と同じように、大切な存在なのだということを心に留め、それと同時に自分もまた目の前にいる人と同じように、神の像として造られた尊厳ある存在なのだということを胸に刻んで相手と接する、そういうことを積み重ねていくことこそが、助け合う仲間をつくっていくということなのではないでしょうか。

「人がひとりでいるのは良くない」

 誰かがひとりぼっちにならなくて良い世の中を目指していきたいと思います。

2024年1月7日 礼拝説教 『神の像』

 創世記1章26節から28節をお読みいたします。

 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(口語訳聖書)

 それでは、『神の像』と題してお話させていただきます。

 これは聖書の初めの創世神話ですが、神さまは、神さまのかたちとして、人間を造られています。

 神のかたちというのは、神の像ということです。ヘブライ語のツェレムが「かたち」と翻訳されていますが、このツェレムという言葉は、像を指す言葉としても使われています。

 旧約聖書が書かれた古代中近東の世界では、像はそれが象徴するものの本質を運ぶものとされていたそうです。そして、神の像は神そのものではないけれど、その像を通して神が働くと信じられていたそうです。ですから、そういった文化的な背景の元で、聖書は人間が神の像だと言っているのです。

 奈良時代の日本では、鎮護国家といって、仏教の力で国を守ろうと、平城京の東に大仏を建立しました。像を通して現れる仏の働きで、国を守ろうとしたわけです。

 それと似たように、聖書の創世神話では、神さまご自身が、人間そのものをご自身の像としてつくり、ご自身が造られた地上に配置されました。そして、人間が神さまの性質を表現し、地上の平和を守るために、人間に地上の管理を委託されたのでした。

 さらに、「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と聖書にあります。現代の日本にもまだまだ性差別はありますが、古代の世界は現代以上に男尊女卑が酷い世界でした。まるで女性が男性の所有物のような扱いであったり、人数を数えるときには男性しか数えていなかったり、そういった描写が聖書の中にも度々登場します。しかし、この箇所では、男も女も性別に関係なく人間そのものが神の像として造られたのだと書かれています。

 そして、神さまは人間を祝福されます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」

 少子高齢化の時代に「生めよ、ふえよ」と言われると圧迫感を覚えますが、古代の世界における「生めよ、ふえよ」はおそらく意味合いが現代と異なると思います。当時は現代と比べ、出産の成功率も子どもが成人するまでの生存率も圧倒的に低いでしょうし、子沢山であることに繁栄のイメージがあったのかもしれません。それに加えて、近隣の神話では、増えすぎた人間を減らすために神々が洪水を起こすという物語が伝えられていました。その伝承では、人間が増えることは神々にとって好ましいことではなかったのです。ですから、聖書での「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という祝福の言葉は、単に増えなさいという意味ではなく、増えていいんだ、人間はその存在を肯定されているんだ、そこにいていいんだ、といった意味だったのかもしれません。ともあれ、生産性がどうとか、社会的地位がどうとか言うわけでなく、人間そのものが神の像として造られたのでした。

 この箇所は、聖書の人間観が描写された初めての箇所です。

 キリスト教や聖書というと、人間は皆罪人なのだとか、エデンの園で罪を犯して堕落してしまったのだとか、そういったことを言っているイメージが強いかもしれません。それでも、聖書で最初に人間が登場する物語では、人間は神の像であり、祝福された存在なのです。そして、これが本来の聖書の人間観なのです。人間という存在は、罰されなければならない存在でもなく、滅ぼされるべき存在でもなく、神の性質を表現し、地上を治める、つまり地上の平和を守るための神の像として創造されたのでした。

 罪や堕落といった言葉も、確かに後から出てきます。人間は自分勝手に善悪を決めてしまい、悪を善としてしまい、善を悪としてしまう弱さを持っています。そして、神の性質を表現して周りの人々を大切にするという生き方を選ぶ自由もありますし、逆に自分の欲望のために暴力的な生き方に走るという自由もあります。地上の平和を守るという仕事を神さまから委託された人間には、どのように生き方を目指すかを自分で選ぶ自由がありますから、自由には危険も伴います。それゆえ、人間は失敗することもありますし、逆に失敗を乗り越えて成長することもできます。

 少なくとも、人間は運命の奴隷ではありません。意思を持たない操り人形として生まれて来たわけでもありません。神から地上の平和を守るという業務を委託された存在、つまり神の代理人なのです。人間自身が神を表現する存在として生まれて来たのです。

 神の像として生きるということは、宗教っぽいことをすれば良いというわけではありません。

 正義と慈悲を重んじて生きる、周りの人々を大切にして生きる、そういった生き方の積み重ねが、神の像として生きることにつながり、神を表現することにつながるのです。そして、そんな生き方を目指すとき、人間に仕事を委託する神の働きと、それに応える人間の働きが連動し、人間を通して神の働きが現れます。その積み重ねの中で、神の国というものが広がって行くのだと思います。

 現実の世界では、人間は強き者がさらに強くなり、弱き者が虐げられる歪な世界を造ってしまいました。無力感の中で、社会の歪さから目を背け、自分1人の幸せの中に引き籠りたくなることもあります。しかしそれでも、神さまは全人類を大切な大切な神の像としてつくってくださいました。そして、人間が神の性質を表現して、人間同士が尊重し合い大切にし合う世界を造って行くことを期待してくださっています。

 すべての人が大切な存在として造られたことを心に留めて、一週間を過ごしたいと思います。

2023年12月31日 礼拝説教 『命をねらっていた人々』

 1月6日はエピファニーという日で、東方の博士たちがイエスさまの元を訪れたことを記念する日とされています。そのエピファニーまで1週間ありますので、今回までクリスマスを思い起こす聖句からお話ししたいと思います。

 それでは、マタイによる福音書2章19節から23節をお読みいたします。

 さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『命をねらっていた人々』と題してお話させていただきます。

 ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺したヘロデが死にました。すると、天使がエジプトに避難していたヨセフの夢に現れます。マタイによる福音書では、星による導きや夢のお告げといった出来事が登場します。どちらも古代の世界では重要視されており、日本にも星を観測して吉凶を占う公務員がいたり、夢で見た内容が政治に影響を及ぼしたりということもあったようです。古代人にとって、星は神が住まう天の領域でしたし、夢は神が人に語り掛ける回路でした。星の導きや夢のお告げといった描写は、イエスさまの誕生が、まさに神さまのご計画であり、神さまがこの世界に介入した出来事だったのだと強調する意図があったのかもしれません。

 夢に現れた天使は言います。

「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」

 この天使の台詞、実は旧約聖書出エジプト記という部分で、神さまがモーセに語られた言葉ととても似ています。そのため、この箇所は預言者モーセを思い起こさせる意図があったのではないかと言われています。つまり、イエスさまこそが旧約聖書を成就する方であると、強調されているわけです。

 そして、最終的にガリラヤ地方のナザレという町に住むことになります。そこで「これは預言者たちによって、『彼はナザレ人と呼ばれるであろう』と言われたことが、成就するためである」と書かれていますが、旧約聖書でそのような箇所は見つかっていません。ともあれ、預言者たちの言葉がイエスさまによって成就されたのだということが、ここでも強調されているわけです。

 今回の箇所は権力者の死によって、大きく物語が展開しています。

 ヘロデの死を受けて、天使がヨセフに「幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」というわけですが、「人々」と複数形になっています。これはヘロデという悪しき王1人だけがイエスさまの命を狙っていたわけではないということを示しています。それに、ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺するよう命令を出したのはヘロデ1人ですが、その命令を実行したのは、おそらく兵士たちだったと思われます。

 ヘロデの下についていた「命をねらっていた人々」は、どんな人たちだったのでしょうか。絵に描いたような悪人だったかもしれません。しかし、そうでもなかったかもしれません。もしかしたら、日常生活では家族や友人を大切にし、上から命令されたことを淡々とこなす、ある意味では「普通の人々」だったのかもしれません。そして、そんな「普通の人々」がイエスさまの命を狙っていたのかもしれません。

 音楽ジャンルのレゲエでは、「バビロンシステム」という言葉が度々出てきます。権力を悪用して人々から搾取する社会体制を指す言葉だそうです。レゲエはジャマイカで生まれましたが、日本のレゲエミュージシャンの曲にも、理不尽な社会体制に立ち向かうことをテーマに歌ったものがあり、そこでは「バビロン」という言葉が登場します。レゲエでは、特定の悪人ではなく、バビロンシステムという、権力を持った人々の作り上げた社会体制が問題として取り上げられているわけです。

 もしかしたら、バビロンシステム、つまり人々を抑圧する社会体制というのは、日常生活を普通に生きる「普通の人々」によって維持されているのかもしれません。権力の暴走に対する、「まあいいか」とか「これが現実だ」といった諦めや無関心が、ヘロデのような王をつくってしまったのかもしれません。

 ということは、悪人らしい悪人を倒せば世界が良くなるというわけではないのでしょう。

 ヒトラー1人が倒され、ナチズムがドイツで禁止されても、アジア人差別やスラブ蔑視はドイツ社会に根強く残っています。プーチンやネタニヤフ1人を倒したところで、ロシアやイスラエルが無差別殺戮を止めて健全な国家になるわけではないでしょう。同じように、日本の政治家を数人倒したからといって、日本が突然理想国家になるなどということはありません。社会のシステムそのものが癒されなければ、「普通の人々」が第2第3のヘロデを育てあげてしまうでしょう。

 人類を罪から救ってくださるイエスさまもまた、ヘロデが死んだにも関わらず、最後は「命をねらう人々」によって十字架刑に追いやられました。イエスさまを十字架につけるように叫んだ人々は、北斗の拳に出て来るような悪人面をしていたでしょうか。きっと、普通の顔をした「普通の人々」だったと思います。そして、その「普通の人々」の暴力性が神さまの命を狙うというところに、聖書の真実はあるように思います。イエスさまの命を狙う暴力性は、私たち全員の心の闇に潜んでいるのかもしれません。

 しかしそれでも、イエスさまはそんな、いつ「命を狙う人々」になるかもしれない私たちを罪から救い出すために、この世界に生まれてくださいました。そしてイエスさまは、第2のモーセとして、ユダヤ人も異邦人も関係なく、すべての人を神の民として受け入れ、罪による支配から救い出してくださいます。そのことに希望を置いて、日常を生きていきたいと思います。

2023年12月24日 礼拝説教 『王と王』

 マタイによる福音書2章9節から18節をお読みいたします。

 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。

「叫び泣く大いなる悲しみの声が

 ラマで聞えた。

 ラケルはその子らのためになげいた。

 子らがもはやいないので、

 慰められることさえ願わなかった」。

(口語訳聖書)

 それでは、『王と王』と題してお話させていただきます。

 東方の博士たちは、ヘロデ王から赤ちゃんを見つけたら教えてほしいと言われ、送り出されます。

 すると、東方で見た星、つまり博士たちが故郷で観測したその星が、博士たちを生まれたばかりのイエスさまの所まで導きます。現代人にとっては、星が動いて人を導くというのは理解しにくい話ですが、旧約聖書の伝承では、神の介入を表現するために、天体が止まったり雲が輝いたりという超常現象が用いられます。ですから、星が動くという出来事も、イエスさまが旧約聖書を成就する存在だということを強調するための表現なのかもしれません。

 イエスさまを見つけた博士たちは、ひれ伏してイエスさまを拝んだわけですが、これは当時の中近東で神々や王に対する礼として、妥当とされた方法だったそうです。博士たちは、イエスさまを偉大な王と認識し、礼拝して捧げものをしたわけです。

 その後、神さまは夢を通して博士たちとヨセフに警告します。ヘロデ王が、イエスさまの命を狙っていたからです。そして博士たちはヘロデ王を避けて故郷に帰り、ヨセフはエジプトへ逃れます。そして、旧約聖書が引用され、イエスさまが旧約聖書を成就する方であることが強調されます。

 一方、博士たちに騙されたと知ったヘロデ王は大変怒り、イエスさまを殺すために、ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺するという恐ろしい手段に出ました。この出来事については、事実かどうかは分からないのですが、少なくともヘロデ王は、自分の地位を守るために自分の家族やたくさんの人々を殺すような権力者であったことは、確実だそうです。つまり、当時ユダヤ人を支配していた権力者が非常に暴力的で、そのような人が社会の中心にいたということです。そして、この出来事についても旧約聖書が引用されることで、イエスさまが旧約聖書を成就された方であり、神の国の王であるということが、物語を通して繰り返し強調されています。

 ヘロデ王による幼児虐殺は、単に聖書の物語の一場面なのでしょうか。そうではないと思います。この物語の中に、この世界の歪んだ在り方が生々しく表現されているのではないでしょうか。

 ヘロデは当時ユダヤ社会の中心であったエルサレム、その宮殿におり、人々に命令を出して、赤ちゃんを虐殺させました。このように、人間は権力を持ってしまうと、強い立場になってしまうと、暴力性に歯止めが効かなくなってしまうことがあります。そして、安全な場所から人に命令を出して、自分より弱い立場にいる人々を踏みつけるようになります。今も、イスラエルで社会の中心に立つ人々が安全な場所から人々に命令を出して、パレスチナで虐殺をしています。

 さらに、人々を踏みつけて利益を得ようとする宗教家もまた、王のような存在になってしまっているかもしれません。キリスト教の歴史の中では、そのようなことが実際に繰り返されてきましたし、今も繰り返されています。これは、人間という存在が、心の内に抱えている暴力性が、権力を持った時に歯止めを失うということなのかもしれません。

 それに対し、神の国の王であるイエスさまは、それらの権力者とは全く反対の王様です。

 イエスさまは、無力な赤ちゃんとして、小さな町ベツレヘムでお生まれになりました。そして、当時のユダヤ人が忌避していた異教の博士たちが誕生したイエスさまを礼拝に来ました。さらには、権力者に命を狙われ、親にエジプトへ連れて行ってもらわなければなりませんでした。

 人間の暴力性は、他の人間を支配し搾取し踏みつけようとします。しかしイエスさまは、支配され搾取され踏みつけられる人々の中で生きられました。人間の暴力性は、権力者を頂点とするシステムを作り上げます。しかしイエスさまは、神さまでありながら、人間がつくったシステムの底に生まれられることで、権力のシステムに立ち向かわれます。

 だからこそイエスさまは、人々を罪から救い出す救世主として聖書に記されているのだと思います。

 歴史上にはいろいろな王がいました。ヘロデのように猜疑心に苛まれ暴力性に飲み込まれ、自分の家族やたくさんの人々を殺してしまった王もいれば、中には人々を大切にする良い政治をした王もいたかもしれません。

 しかし、イエスさまのように、神さまでありながらご自身が弱い立場で生まれることで、権力のシステムに立ち向かった王は、他にはいないのではないでしょうか。

 イエスさまがこの世界の王様であることに希望を置いて、クリスマスだけでなく、これからの日々も過ごしたいと思います。

2023年12月17日 礼拝説教 『小さいもの』

 マタイによる福音書2章5節から8節をお読みいたします。

 彼らは王に言った、「それはユダヤベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。

(口語訳聖書)

 それでは、『小さいもの』と題してお話させていただきます。

 これまでの流れとしては、まず東方の天文学の博士が、ユダヤで偉大な王が生まれることを示す星を観測して、エルサレムまでやってきました。ユダヤ人たちを統治していたヘロデは、そのことを聞いて不安になります。そこで、ヘロデは祭司や律法学者など、聖書の専門家を呼び集め、救世主つまりキリストがどこで生まれると書かれているのか尋ねました。

 そこで、専門家たちは答えます。

「それはユダヤベツレヘムです」

 さらに預言者が残した書物を引用します。

「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」

 救世主はベツレヘムで生まれると言われているわけですが、これはキリストがダビデの子孫とされており、ダビデの故郷がベツレヘムだからだそうです。これはヘロデが支配していたエルサレムの南にある町です。そして、「決して最も小さいものではない」と書いてあるということは、当時の感覚でベツレヘムは小さな町だったようです。

 中央とされていたエルサレムではなく、人々から小さいと思われていたベツレヘムから、キリストは生まれたのでした。

 ヘロデはこっそりと博士を呼んで、いつ星が生まれたのかを聞きます。そして、自分も新しい王を拝みたいので、見つけたら詳しく教えてほしいと言って送り出します。後の展開から分かることですが、ヘロデは自分もキリストを拝みたいと思っていたわけではありません。嘘をついています。ですが、今の時点ではヘロデの意図は明かされてはいません。

 これまでの物語の流れの中で、旧約聖書が繰り返し引用され、イエスさまが旧約聖書で予告された救世主なのだということが強調されています。その中で、印象的な対比があります。それは、ユダヤ人と異邦人、エルサレムベツレヘム、そしてヘロデとイエスさまです。

 ユダヤ人は、旧約聖書の中で「神の民」とされ、神から特別な使命を与えられた民族だとされてきました。しかしこの物語では、神から選ばれたとされたユダヤ人でなく、東方の異邦人が誕生したキリストを拝むためにやってきました。

 エルサレムは、聖書の中では都とされています。それに対して、ベツレヘムエルサレムの南にある小さな町です。

 ヘロデはユダヤ人を統治していた権力者です。それに対し、イエスさまは生まれたての無力な赤ちゃんです。

 ここで、聖書の中で繰り返されているパターンが、ここにも表れています。

 それは、逆転の物語です。

 聖書の中では、一般的な感覚で優れているとされるものが低められ、小さいと見なされるものが高められます。そして、小さいと見なされたものの中から、神さまの働きが始まります。

 さらに今回の物語では、神さま自身が小さく無力な赤ちゃんとして生まれ、世界を救うための働きを始められます。しかし、前回の物語ではヘロデ王エルサレムの住民も不安になったと語られていました。当時のユダヤ社会の中央とされた人々から、人として生まれた神さまは歓迎されなかったのだと、聖書は語っているのです。

 マタイの福音書は、神さまご自身がとても小さなものとなることから始まるのです。

 そのような神さまの働きが、私たちの現実を揺さぶります。この世界にはいろいろなヒエラルキーがあります。どんな所に住んでいるか、どんな物を身につけているか、どれだけお金を持っているか、いろいろな属性で人間は上下を決めようとします。

 それでも、神さまご自身が小さなものになって、小さいと見なされた場所から働きを始められるのです。そうして、神さまはこの世界の支配を覆されるのです。

 ベツレヘムからキリストが生まれることについてですが、旧約聖書の中ではミカ書という預言書で予告されています。しかし、ミカ書とマタイの福音書では、ベツレヘムについての説明が真逆です。今回の聖書箇所では、「最も小さいものではない」と書かれていますが、ミカ書では「小さいもの」と書かれているのです。

 この違いは不思議ですが、とても大事な違いなのかもしれません。

 小さいとみなされたものの中から神さまが働きを始められるとき、それはもはや小さいものではないということなのかもしれません。

 この世界では、力を持った者が好き放題に暴れ回ります。力を持った者が力を持たぬ者を虐げます。

 現代でも、自分達が特別な存在なのだと考える人々が、他の人々を虐げます。

 絶望的な状況の中で、神の働きがどこにあるのかと思ってしまいます。

 時に私たちの力は大変小さく、私たちは無力な存在です。またある時には、私たちは自分を優れたものと勘違いし、他の誰かを虐げるものになってしまっているかもしれません。

 しかしそれでも、小さな赤ちゃんとしてお生まれになった神さまが一人の君として立ち、指導者として私たちを導いてくださるという希望を持ちたいと思います。