大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年12月10日 礼拝説教 『王として』

 マタイによる福音書2章の1節から4節をお読みいたします。

 イエスヘロデ王の代に、ユダヤベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。

(口語訳聖書)

 それでは、『王として』としてお話させていただきます。

 東方から博士がエルサレムに来ます。パレスチナから見て東とのことなので、メソポタミアやペルシアから来た人たちなのかもしれません。

 博士と訳されていますが、ギリシア語では「マゴイ」、単数形に直すと「マゴス」で、これはマジックの語源と言われています。とは言っても、魔術師というわけではありません。東方の博士たちは、占星術師であったと言われています。

 古代の世界では占星術が大変盛んでした。古代の人々は天の世界と地の世界で起こることは対応していて、天体の動きを観測することで、地上で起こることを予測できると考えていたようです。飛鳥・奈良時代の日本でも「陰陽寮」という機関が設置され、陰陽寮で国家公務員として陰陽師が働いていました。

 一方、旧約聖書占星術は、敵対する勢力の悪しき風習の1つとして描かれています。その一方で、紀元1世紀頃には多くのユダヤ人が、天体を観測することで未来が予測できるという考えを受け入れていたとも言われています。

 旧約聖書占星術があまり良い印象で描かれていないにもかかわらず、新約聖書では占星術師が、占星術を通してイエスさまの誕生を知り、イエスさまを礼拝しに来るというのは、なかなか奇妙な展開です。

 イエスさまの誕生を喜んだのは、ユダヤ社会の中心にいた人々ではなかったのです。

 ユダヤ人たちを統治していたヘロデ王の反応は、東方の占星術師とは対照的なものでした。

 不安を感じて、聖書に詳しい専門家を呼び出して、キリストが生まれる場所を聞き出したのです。新しい王の誕生を喜んで場所を調べようとしたわけではありません。不安を感じたのです。

 古代の権力者にとって、星からの予兆というのは、不安の種であったようです。特に、自分が死ぬことの予兆を恐れていたと言われています。

 古代ローマの暴君として知られるネロは、自分の死を予兆する星が観測されると、身分の高い人々を大勢殺すことで、自分の死を回避しようとしたという言い伝えがあるそうです。

 ヘロデは、新しい王が生まれたと聞き、不安になりました。東方の占星術師が礼拝に来る程の王が生まれるということは、自分が権力の座から転落することを意味するからです。

 旧約聖書ではあまり良い印象で描かれていない占星術師が、イエスさまを礼拝するために東方からやって来て、それに対し、ユダヤ人を統治する権力者は、イエスさまの誕生を聞いて不安になる、そういう伝承が、このマタイの福音書には収録されているのです。

 イエスさまは権力者から歓迎されず、むしろ異教の占星術師によって歓迎されたのでした。

 東方の占星術師が登場するこの物語では、イエスさまは王としてお生まれになったと記されています。イエスさまは世界の王であり、人々を支配する権力者にとって脅威となる存在なのです。

 神さまの働きは、地上に生きる人間を巻き込み、現実の世界に介入します。人々を心の底から突き動かし、社会に波紋を引き起こします。

 東方の博士たちも、偉大な王が生まれる徴を星から知り、東方からパレスチナへやって来たのでした。偉大な王に会いたいという情熱が、博士たちを突き動かしたのだと思います。パレスチナから見て東ということは、メソポタミアやペルシアかもしれません。もしかしたら、占星術師が生まれたとされるバビロニアかもしれません。だとすれば、ユダヤ人を支配した人々の子孫です。そんな人々が、ユダヤ人の王として生まれたイエスさまを礼拝するために、パレスチナまでやって来たのでした。

 一方、ユダヤ人を統治するヘロデは、別の感情に突き動かされたのでした。それは不安です。自分が権力の座についているにもかかわらず、別の王が生まれたという報せを聞き、不安になったのでした。古代のユダヤ人が待ち望んだ救世主の誕生は、ヘロデにとって恐怖の対象だったのです。

 自分が社会の中心だと思っている人は、神の働きに気づいても、それを拒絶しようとします。自分が偉いと思っている人にとって、神の働きは裁きという形でやって来ます。イエス・キリストの誕生は、虐げられる人々、苦しむ人々にとって良き報せですが、人々を支配することで利益を得る人にとっては、裁きの宣告なのです。神さまの福音は、傲り高ぶる人を権力の座から引きずり降ろし、低められた人を高みに引き上げる力を持っています。そしてイエスさまは、この世界のヒエラルキーを逆転させる神の国の王様として、この地上に生まれられたのでした。

 この世界の多くの権力者は、自分の利益のために働き、人々から奪い、人々を踏みつけます。

 しかしイエスさまは、人類の救いのために働かれ、人々に与え、そして、人々に踏みつけられました。

 イエスさまの王としての働きもまた、地上の権力者とは真逆なのでした。

 キリスト教で崇拝されるイエス・キリストとは、そのようなお方なのです。

 キリスト教ローマ帝国で国教となって以来、キリスト教もまた人々を支配するための統治機構となり、人々を抑圧する存在となってしまいました。キリスト教はもう一度、逆転の王であるイエスさまの理想に立ち返る必要があるように思います。

 そして、クリスマスはそんなイエスさまが王としてお生まれになったことを記念する日です。残りのアドベントも、そのことを思いめぐらせて過ごしていきたいと思います。

2023年12月3日 礼拝説教 『その名はインマヌエル』

 今週からアドベントという、クリスマスを待ち望む時期に入りました。

 なので、キリストの降誕を思い起こす聖句でお話をしていきたいと思います。

 それではマタイによる福音書1章18節~23節をお読みいたします。

 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。

(口語訳聖書)

 『その名はインマヌエル』と題してお話しさせていただきます。

 今回の聖句は、イエスさまの誕生前のお話で、イエスさまの母親であるマリアが聖霊さまによって身ごもるという不思議な物語です。

 古代の世界では、偉人の誕生に関して神秘的な伝承が語られるというのはよくある話で、たとえば、インドで仏教を開いた釈迦ですと、白い像が胎内に入る夢を母親が見たという言い伝えもあれば、母親の右脇から生まれて来たという言い伝えもあります。さらには聖徳太子も、母親が観音を飲む夢を見たという言い伝えがあります。

 このように、世界各地に不思議な伝承があるわけですが、イエスさまの場合は、聖霊によって身ごもったと聖書に記されています。聖霊さまというのは、神さまの霊です。キリスト教では伝統的に三位一体という考えがあり、天地を造られた神さまとイエスさまと聖霊さまを、それぞれ人格を持った存在と信じつつ、1つの神として崇拝しています。

 ですが、このことがある問題を引き起こします。マリアとヨセフは婚約していましたが、まだ一緒に住む前に、マリアが身重になってしまいました。

 ヨセフはマリアが浮気したと思ったのかもしれません。自体を公にしてマリアを告発するようなことはせず、マリアから離れようと考えます。

 しかし、天使がヨセフの夢に現れます。古代の日本においても、夢は神や仏が見せるものと信じられていましたが、聖書でも同じように、神さまが夢を通して人に語られることがあります。夢に出て来た天使はヨセフに言います。
ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」

 聖霊さまによって人が生まれるということ自体がすでに大事なのですが、さらに壮大な話になっています。生まれて来た子が、自分の民をもろもろの罪から救う者となるというのです。

 ここで罪という言葉が登場します。聖書における「罪」というのは、神道における「罪」と共通している部分もあるのですが、それに加えて、人間を騙し善悪の判断を狂わせて、人間を悪い行動へ駆り立てるキャラクターのような存在としても描かれています。ですので、キリスト教といえば「人間は皆罪人」と教えているというイメージが強いかもしれませんが、聖書のおける「罪」というのは、人間に備わっている性質というよりは、人間に災いをもたらす存在として描かれています。つまり聖書では、イエスさまは人々に災いをもたらす「罪」という存在から人々を救うために、聖霊さまによって生まれた、神さまの子と伝えられているということになります。

 そして、これらの出来事はイザヤ書を通して神さまが語られた「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」という言葉の成就だったのだと締めくくられています。

 これに対して天使の言葉は、少し直訳寄りの訳をすると「しかし、彼女は男の子を生むであろう。そして、その名をイエスとあなたは呼ぶであろう」となります。イザヤ書の言葉とすごく似ています。

 物語の展開も天使の言葉も、旧約の預言を意識した構成になっています。

 この箇所を書いた人は、イエスさまこそが旧約聖書で予告された救い主であり、人々を苦しめる罪の力から人々を救う存在なのだとたくさんの人々に伝えたかったのだと思います。だからこそ、旧約聖書を引用しながら、一つ一つの言葉を慎重に紡いで、この箇所を書いたのだと思います。

 イエスさまは神の子ですが、人間の世界を天から見下ろすのではなく、人々の間で、人としてお生まれになりました。三位一体の伝統では、父なる神さまとイエスさまと聖霊さまで1つの神となりますから、聖書の神さまは、人々の間に坐す(います)神さま、人と人との間に神留る(かむづまる)方だということになります。

 そして、その神さまが、人々を諸々の罪から救い出すために、人として世にお生まれになったのでした。

 神さまは人々の間で生きられ、人々と共に悲しまれ、人々とともに傷つかれました。そして、人々を罪から救うために人として生まれた神の子を、人々は罪人として裁いて殺してしまいました。それでも、そうなることを知っていても、イエスさまは人々を救うためにお生まれになったのです。

 私たちが悲しみに暮れる時も、私たちが絶望に打ちひしがれる時も、そして私たちが怒りに打ち震える時も、神さまは共に苦しんでくださいます。

 今回の聖書箇所で引用されている旧約の預言では、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」というフレーズがあります。インマヌエルという言葉はヘブライ語で、その意味は「神は我等と共に」という意味です。その言葉に、神がどのようなお方であるかが既に示されているのです。

 神が私たちと共にいてくださる方であるということを思い巡らせ、アドベントの時を過ごしていきたいと思います。

2023年11月26日 礼拝説教 『義とされて帰ったのは』

 ルカによる福音書18章9節から14節をお読みいたします。

 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

(口語訳聖書)

 それでは『義とされて帰ったのは』と題してお話させていただきます。

 今回は、自分たちを義人、つまり正しい人間だと思って他の人を見下している人たちに対して、イエスさまがたとえ話をされています。自分を正しいと思って他の人を見下すというのは、残念ながら宗教の世界では割と頻繁に見られる光景です。宗教の他にも、民族や国家、組織への所属や政治的な信条などの属性を巡って、自分と違った属性を持つ人を見下す人はたくさんいます。どうも今回は、他の人を見下すというのがキーになってくるようです。

 今回のたとえ話には、人物が2人登場します。ファリサイ派の人、つまり宗教界の優等生と、取税人、すなわち古代ユダヤ社会における嫌われ者です。

 ファリサイ派の人は、感謝の祈りを捧げます。

「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」

 傍から見るとなかなかすごい祈りです。

 一週間に二度断食して、全収入の十分の一を捧げるという行いは素晴らしいかもしれませんが、その前後がなかなか攻撃的です。他の人たちのような者でないことを感謝するという祈り方には驚いてしまいますが、さらには、近くにいる人間を指して「この取税人のような人間でもないこと感謝します」というのは、なかなか失礼です。ただ、当時のユダヤの人々がローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国のために税金を集める取税人が、民族の裏切り者とされていたということを考慮に入れると、取税人に憎しみの感情を抱いてしまうのも、致し方ないかもしれません。さらには、他の人たちを見下す祈りについても、真面目に生きる人程、不真面目そうな人や努力してなさそうに見える人に腹が立ってしまうのかもしれません。

 そのように考えると、このたとえ話に登場するファリサイ派の人は、単に他の人を見下して喜んでいる人とは限りません。もしかしたら、歪んだ世界で必死に真面目に生きようとしながら、不真面目そうな人に対して腹が立ってしまう人なのかもしれません。

 しかしそれでも、他の人を見下した祈りをしてしまうという所に、その人の自己愛が潜んでいるようにも思われます。すると、日々の生活の中で、自分より不真面目そうな人や、自分より努力してなさそうに見える誰かを軽蔑してしまう私たちの心にも、そういった自己愛の怪物が潜んでいるのかもしれません。

 露骨に誰かを見下した言動を取るのは論外ですが、誰かを見下してしまう心というのは、誰もが持っているのではないでしょうか。

 一方、取税人は遠く離れて立っています。天を見上げることすらしません。古代の人々は、世界を天と地と黄泉の三層構造と考え、天に神さまがいると考えていました。天に目を向けようとしないと敢えて書かれているのは、神さまがいるとされていた天に目を向けられない、そんな後ろめたさを表現しているのかもしれません。

 取税人は胸を叩きながら祈ります。

「神様、罪人のわたしをおゆるしください」

 たった一言の祈りです。

 自分を罪人と表現し、神に慈悲を求める祈り。単純で短い祈りです。

 この取税人が、ファリサイ派の人よりも義とされて帰ったのだと、イエスさまは語られます。

 そして、このように締めくくられます。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 聖書でいつも出て来る、上下逆転の法則です。

 自分で自分を正しい人間と思い、他を見下す人が、神さまの前に正しい人間と認められることはなく、むしろ自分の弱さを認め慈悲を求める人こそが、高められるのだと、イエスさまは語られます。

 キリスト教は本来、宗教的な儀式さえこなせば善人と認められる宗教というわけではありません。自分の弱さを認め、祈りの内に心の闇と向き合う時にこそ、人は前に進むことができます。

 自分の弱さを認め、神さまに助けを求める働きが、人間を癒そうとする神さまの働きと合わさり、癒しが起こります。

 ですから、この例え話を読んで、「自分はファリサイ派の人みたいじゃなくて良かった」と思ってしまうと、自分を正しいと思って他を見下す人になってしまいます。聖書の中ではファリサイ派は悪役のように登場しますが、聖書は古代ユダヤ人と聖霊さまによって紡がれたものです。ですから、聖書の登場するユダヤ人批判は身内批判であって、つまり自己批判のようなものです。ということは、私たちは聖書を読む時、ファリサイ派への批判を他人事として捉えるのではなく、むしろ人間が持つ普遍的な弱さが例え話を通して暴かれているのだと考え、我が事として受け取らなければなりません。

 聖書の言葉を向き合うというのは、単なるお勉強ではなく、人間が持つ弱さ、自分の心の闇と向き合うことが求められます。

 この例え話を通して、イエスさまは私たちに2つの選択肢を突き付けます。

 1つ目は自分を正しい人間と信じ、自分を高める生き方。2つ目は自分の弱さを認め、謙虚に心の闇と向き合う生き方。

 義とされて帰ったのは、取税人でした。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)5

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教会の存在意義

 一部プロテスタント系団体においては、「什一献金」と称して、収入の十分の一を献金することが信徒に義務づけられている。中には、義務としては明文化されていなくとも、什一献金を実行するよう、教職者等が圧力をかける場合もある。什一献金を要求する団体やその教職員はいくつかの聖句を根拠に、什一献金キリスト教徒の義務であると主張する。

 旧約聖書においては、主にマラキ書3章から引用されることが多い。マラキ書3章8節から10節には以下のように記されている。

「人が神から奪うだろうか。しかし、あなたがたは私から奪ったのだ。しかし、あなた方は言う。私たちがあなたから奪いましたかと。十分の一の捧げものと奉納物においてだ。呪いによってあなた方は呪われている(もしくは「あなた方は確かに呪われている」)。あなた方は国全体で私から奪っている。すべての十分の一を倉に持って来て、私の家に食べ物があるようにしなさい。そして今、これによって私を試しなさい――万軍の主は言われる――私があなた方に天の窓を開いてあなた方に限りない祝福を注がないかどうか」

 しかし、この箇所における神の言葉は3章5節から始まっており、そこには「裁きのために私はあなた方に傍に来る。そして、魔術を行う者たちや、姦淫する者たちや、偽って誓う者たちや、賃金を巻き上げて雇い人や寡婦や孤児を抑圧する者たちや、寄留者を退ける者たちや、私を畏れない者たちに対して、急いで証人となる。万軍の主は言われる」と記されている。よって、箇所の主題は十分の一の捧げものではなく、社会正義の回復であり、その例として十分の一の捧げものが引き合いに出されていると考えられる。

 十分の一の捧げものについては、レビ記民数記などに記述が見られる。ただし、捧げものは単に「月々の収入の十分の一」という形ではなく、複数の捧げものが存在し、それらは祭司として使えるレビ族への給与、祭りの資金、困窮者への支援等に用いられていた。つまり、古代イスラエルにおいて十分の一の捧げものは、共同体を維持するための税金や社会保障費として機能していたと言える。よって、マラキ書における「神から盗んだ」という告発についても、現代で言う脱税のような状態として捉えることができる。ゆえに、旧約聖書に十分の一の捧げものが記されているからといって、全キリスト教徒が収入の十分の一を所属する団体に支払わなければならないということにはならない。

 しかし、「什一献金」を信徒に義務付ける教職者は、新約聖書におけるイエス・キリストの発言も引用することで、自らの主張を補強しようとしている。

 マタイによる福音書23章23節には、以下のような記述が見られる。

「あなた方に災いあれ。律法学者とファリサイ派の偽善者たちよ。すなわちあなた方はミントとアニスとクミンの十分の一は捧げるが、律法でより重い公正と慈悲と誠実をないがしろにしている。これらは行われるべきであり、そしてそれらはないがしろにされてはならない(または「それらもまたないがしろにされてはならない」)」

 この箇所における「そしてそれらはないがしろにされてはならない」の部分が、一般的に「十分の一の捧げものもないがしろにしてはならない」と解釈されている。しかし、この箇所は十分の一の捧げものが主題ではない。十分の一を捧げているにも関わらず、より重要な公正さや慈悲や誠実を怠っていた人々に対する批判が主題である。さらに、これは当時のユダヤ教の文脈の中で語られた言葉であり、初期キリスト教における信仰実践をこの箇所から導き出すことはできない。聖書の中で初期キリスト教の実践を検討するには、使徒言行録も参照する必要がある。

 初期教会においては、土地や家を売り払って共同生活をしていた時期もあったようではあるが、牧会書簡においては献金額の目安は定められてはおらず、パウロも「悲しみ(痛み)からでなく、強いられてでもなく、全ての人が心に前もって決めた通りに(捧げものをしなさい)」(コリントの信徒への手紙第二9:7a)としか述べていない。よって、捧げものという概念自体は古代イスラエルからキリスト教へ引き継がれてはいるものの、キリスト教徒に対してノルマが課されているわけではないと言える。

 以上のことから、聖書は献金の額についてキリスト教徒に具体的な義務を課しておらず、団体や教職者が献金のノルマを決めることは不当であり、さらに信徒を脅して資金を調達するのは反社会行為であると言える。献金は信徒の自由意志に基づくべきであり、聖書を利用した強要は不適切である。

 信徒個人が十分の一を目安とするのは個人の自由だが、組織や教職者が献金の額について圧力をかけることがあってはならない。さらに、日本弁護士連合会によると、献金の勧誘において宗教的恐怖心を煽ることは是認されず、悪質な場合には恐喝罪に当たり得る。一方、信徒個人の自由意志に基づく献金であったとしても、多額の献金によりその信徒の子が生活を脅かされることがあってはならない。そういった場合には、団体側が強制的に献金を返金するべきであろう。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)4

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女性への暴力について

 1000年以上の歴史を持つ伝統的な団体から19世紀のアメリカで生まれた新興勢力まで、様々なキリスト教系団体において、女性への性加害が深刻な問題となっている。多くの場合、加害者は聖職者、教職者など指導的な立場にある男性である。本来、組織内で犯罪が発生した場合、被害者の安全を最優先し、加害者を司法に引き渡さなければならない。しかし、多くの組織では加害者ばかりが守られ、被害者が放置されたり、団体の関係者から二次被害を受けたりするという最悪の事態が繰り返されている。こういった加害行為は、特に権威主義的な団体が温床となっているが、それは上下関係が明確であるほうが加害者にとって都合が良いからであると思われる。また、男尊女卑的な文化によって男性と女性の間に暗黙の上下関係が規定されていることも、重大なリスク要因の1つになっていると思われる。

 キリスト教内での男尊女卑については、文化的な影響も考慮に入れて反省する必要がある。旧約聖書は古代中近東の文化的土壌の元で生まれ、新約聖書は1世紀のユダヤ文化とギリシア・ローマ文化の影響で書かれた。元々これらの文化に男尊女卑的な要素が含まれているため、聖書を解釈する際には、文化的な制約や社会状況にも留意する必要がある。これを怠ると、聖書の宗教的な教えでなく、聖書が書かれた時代の世俗的な文化を神格化することになりかねない。そして、こういった聖書解釈の仕方が、男尊女卑的な教会形成を助長することに繋がる。

 キリスト教内における男尊女卑的な文化を形成する原因としては、パウロ書簡の解釈が上げられる。パウロ書簡は、パウロから各地の教会に向けて発出された文書と言われているが、エフェソの信徒への手紙以外は、特定の教会の特定の状況に当てて書かれたものとされている。エフェソの信徒への手紙のみについては、同じ内容の手紙が複数の教会で回覧されていた可能性が指摘されており、他の書簡とは異なる。以上のことから、パウロ書簡を解釈する上では、当時の文化的背景に注意を払う必要が生じるのに加え、エフェソの信徒への手紙以外については、その教会が置かれた状況にも注意を払う必要が生じる。さらに、古代地中海世界の文化自体が男尊女卑的であり、キリスト教以前のギリシア思想家も女性を男性より劣った存在であると見なしていたことに注意を払う必要がある。加えて、ローマ帝国の家父長制により、父親が家を支配するという社会体制が成立していたことも考慮に入れねばならない。家父長制においては、家長が夫として妻を支配し、父親として子どもを支配し、主人として家の奴隷を支配するという体制が取られていたとされている。パウロ書簡は、これらを考慮に入れて慎重に解釈する必要がある。

 パウロ書簡において、男尊女卑的に解釈される箇所として主に挙げられるのは、頭のかぶりものに関する議論、女性が教えることを禁じることに関する議論、そして夫婦関係に関する議論である。

 まず、頭のかぶりものに関する議論では、コリントの信徒への手紙一11章2節から16節には以下の記述が見られる。

「そして私はあなた方を誉めます、同胞たちよ。すなわち、私のすべてのことをあなた方が覚えており、私があなた方に伝えたように言い伝えをあなた方が守っていることを。しかし、私はあなた方に知ってほしいのです。すなわち、すべての男の頭はキリストであって、女の頭は男であり、キリストの頭は神であるということを。祈ったり預言したりして頭に(被り物を?)持っているすべての男は、自身の頭を辱めています。しかし、祈ったり預言したりして頭に被り物をしていないすべての女は、自身の頭を辱めています。頭を剃っているのと同じだからです。女が被り物をしないなら、髪を切ってしまいなさい。しかし、切ったり剃ったりすることが女にとって恥ずかしいのであれば、被り物をしなさい。男は実に神の像であり栄光であるため、男は頭を覆うべきではありません。しかし女は男の栄光なのです。なぜなら、男が女から(出たの)ではなく、女が男から(出たの)だからです。そして、女のゆえに(または「女を介して」?)男が造られたのではなく、男のゆえに(または「男を介して」?)女が造られたからです。このため、女は天使のゆえに頭に権威を持つべきです。とは言っても、主にあって、女なしでの男でもなく、男なしの女でもありません。女が男から(出たの)であるように、男も女から(出たの)だからです。しかし、全ては神から(出たの)です。あなた方自身で判断しなさい。被り物をしていない女が神に祈るのは相応しい(または「魅力的」?)でしょうか。自然自身があなた方に教えていないでしょうか。すなわち、もし男が長い髪を持っていたら、それは彼に恥となるが、女が長い髪を持っていたら、それは彼女に栄光となることを。すなわち、長い髪は被り物の代わりに彼女に与えられているからです。しかし、もしある人が論争的であるように見えても、私達はそのような習慣を持っていませんし、神の諸教会も(そのような習慣を持っていないの)です」

 この箇所を根拠に、一部の教会では「女の頭は男であるから、男が主導し女は男に従うべきだ」と捉えられてきた。この箇所については、「女の頭は男」という側面が強調されがちであるが、本来の文脈は、教会で女性が被り物をするべきかどうかについての議論である。この箇所における「男の頭はキリストであり、女の頭は男である」という説明も、女性に対して被り物をするよう説得するために用いられているのか、パウロ自身が普段からそのように考えているのか慎重に考えねばならない。さらに、「女の頭は男である」というフレーズがパウロ自身の価値観を反映していたとしても、頭をどのような意味で解釈するかによって、教会文化の形成も異なったものとなる。

 頭の意味については、専門家の間で議論があり、頭が権威を意味しているとする解釈のみならず、ギリシア語では頭という単語は権威を指さず、字義通りの頭か、高い場所か、あるいは源を指すとの指摘もある。そこから、ここでの「頭」はエデンの園の物語を意識し、人(アダム)から女(イッシャー、後のエバ)が造られたことを引き合いに出し、「女の源は男である」と述べているという解釈もある。そのように解釈すると、「そして、女のゆえに(または「女を介して」?)男が造られたのではなく、男のゆえに(または「男を介して」?)女が造られたからです」についても、人(アダム)の一部から女(イッシャー、後のエバ)が造られたというエデンの園の物語とリンクさせて書かれたものと考えることができる。この箇所については、女は男の利益のために造られたというニュアンスで理解されることもあるが、エデンの園の物語とリンクさせていると考えると、異なるニュアンスでの解釈も可能となる。

 その後に続く箇所でパウロは、女なしに男は存在し得ず、男なしにも女は存在し得ないと述べ、その上で、すべては神から出たのだと結論付け、男女の関係性について均衡を保とうとしているように見える。このような表現を敢えて加えていることから、パウロはこの議論が男女の上下関係を規定するものとして用いられることを防ごうとしていた可能性があると考えられる。

 この箇所は女性の頭の被り物について論じているが、パウロはコリントの文化に寄せて論を展開していると考えられる。なぜなら、男性が祈ったり預言したりする時に被り物をしているのは恥であるとしているが、ユダヤ人の男性は礼拝の際に被り物をしているからである。この箇所があらゆる時代のあらゆる文化に向けて書かれたものであれば、ユダヤ人男性は礼拝の度に恥をかいていることになってしまう。女性については、当時のギリシアにおいても被り物をするのが一般的であったと言われている。さらに、当時の文化では、女性の髪が性的な関心の対象とされていたとの指摘もある。その中で、ローマ帝国の上流階級の女性の間では、髪を露わにしたファッションを好む者もいたと言われている。  

 よって、パウロが述べた被り物に関する議論は、当時のコリントの文化から考えて望ましい服装で礼拝に出席するよう促すものであったと考えられる。男性にとっては長い髪が恥であり、女性にとっては長い髪が誉れであることを自然が教えているという箇所についても、当時の文化の影響が伺える。なぜなら、古代地中海世界においては、社会通念上一般的とされた物事を「自然の摂理」として語る論法が普及していたと言われているからである。したがって、パウロが「自然」と述べているのは、パウロが語り掛けた当時のコリントの社会通念を念頭に置いた話であると考えられる。

 以上のことから、コリントの信徒への手紙第一における「女の頭は男である」とする記述は、コリントの教会における服装の風紀に関して、エデンの園の物語を引用しながら女性を説得するためのものであり、男女間の上下関係や役割分担を規定したものではないと考えられる。そして、この箇所を男女間の上下関係や役割分担を規定するものと解釈した場合、男性が主導し女性が補助するという意識に囚われてしまいやすく、組織内の男尊女卑的な文化の形成に繋がるリスクがあると考えられる。また、この聖句は男尊女卑的な文化の影響下で書かれたものであると考えられるが、「女なしに男は存在し得ず、男なしにも女は存在し得ない」という記述から、文化的な制約を受けつつもパウロは男尊女卑的な価値観を克服しようとしていると考えられる。

 次に、女性が教えることを禁じることに関する議論では、テモテへの手紙第一2章8~15節とコリントの信徒への手紙第一14章34~35節が引用される。

 まず、テモテへの手紙第一2章8~15節においては、以下の通り述べられている。

「それゆえ私は望みます。男たちがどこでも聖なる手を挙げて、怒りと争いなしに祈ることを。同様に女たちもまた、落ち着いた服を着て、敬意(つつましさ?)と自制(正気さ?)で自身を飾りなさい。編んだ髪や、金や、真珠や、高価な服(を着るの)でなく。むしろ、良い行いを通して(身を飾ること)が、神への崇拝を公言する女にふさわしいのです。女性は静かにあらゆる従順さにあって学ぶべきです。しかし教えることを私は女に許しません。男を支配することも(許しません)。むしろ静けさにあることを(許します)。なぜなら、アダムが最初に形づくられ、その次にエバだからです。そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました。しかし、自制して(正気であって?)信仰と愛と聖性に留まるならば、子の誕生(出産?)によって救われます」

 この書簡は教会の指導に当たっているテモテに向けて書かれたものであり、パウロとテモテが共有していた文脈、つまり当時の社会通念やテモテが指導していた教会の状況が前提となっていたことに留意する必要がある。

 古代の地中海世界において、女性は男性より劣った存在と見なされており、ギリシア思想家もギリシア語で著作を遺したユダヤ人も、男尊女卑的な価値観を持っていた。さらに、女性は教育を受ける機会が男性よりも少なく、教育水準についても大きな格差があったと言われている。その一方で、稀に教師として活躍する女性が、ギリシアにもユダヤにもいたと言われている。よって、パウロはここで男尊女卑的な当時の社会通念に迎合する形で女性が教えていることを禁じている可能性もあるが、ここでの問題は性別でなく教育水準であった可能性もある。その後パウロはアダムとエバの物語を引用して女性が男性に教えることは相応しくないと語っているが、この引用がad hocな引用(特定の目的のための引用)である可能性がある。ここでパウロは「そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました」と語っているが、これが普遍的な女性に向けられたものなのであれば、パウロは「女性は男性よりも悪しき存在に騙されやすいため、女性が教えるのは相応しくない」と考えていることになり、パウロの書簡を聖典に含めるキリスト教会も「女性は判断力において男性よりも劣っている」と見做していることになる。その場合、全てのキリスト者は「女性蔑視論者」の誹りを免れない。しかし、この箇所を当時の社会状況を考慮に入れて解釈するなら、異なる解釈が可能となる。当時ほとんどの女性は男性と同等な教育を受けられない状況にあった。さらに、テモテに宛てられたもう1つの手紙では、パウロたちと敵対する宗教家が女性を標的にしていたことが語られている。テモテへの手紙第二3章6節では「なぜなら、彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女性を虜にしているからです。彼女らは罪を重ねてしまい、様々な欲情に駆られ」と述べられている。男尊女卑的な社会の中で男女の教育格差があったことを考えると、ここでパウロが批判していた宗教家は、女性が十分な教育を受けられていないことにつけ込み、女性を標的にしていた可能性もある。教育格差という点から解釈し直すと、アダムとエバの物語の引用についても、単に生まれ持った性別の話をしているのではなく、男性は教育を受けられている一方で、女性は十分な教育を与えられていないことを念頭に「そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました」と語っていたと考えることができる。そして、悪しき存在に騙された人が他の人を悪へ誘ってしまうという意味合いでアダムとエバの物語が引用されているのであれば、ここでのパウロが語ることを現代社会の状況で解釈し直すと、女性が教えることを禁じているというよりは、十分な訓練を受けた者にのみ教えることを許すということになる。また、女性について「学ぶべき」とパウロが述べているということは、女性にほとんど教育が与えられなかった社会の中では異例のことであったかもしれないし、女性が十分な教育を受けられた後には、女性が教職者になることも承認するつもりだったのかもしれない。

 そのように考えると、現代のキリスト者がこの箇所から学ぶべきことは、女性が教職者になることを禁じることではなく、生半可な知識に基づいて「聖書が体罰を推奨している」とか、「輸血を禁じている」などと断言したり、科学的なリテラシーを持たず、「精神疾患は信仰のなさの表れ」だとか、「同性愛や性別違和はすべて育った環境が原因だ」などと断言したりするような人々が教えることを禁じることなのかもしれない。なぜなら、「ヘビ」に欺かれて逸脱してしまった人間が他の人間に教えるなら、その人間も欺かれて逸脱してしまうからである。

 パウロがアダムとエバの物語の文脈の中で語った「しかし、自制して(正気であって?)信仰と愛と聖性に留まるならば、子の誕生(出産)によって救われます」は、女性は子を産み育てるというジェンダーロールに専念せよと言っているようにも見えるし、後の箇所では、若いやもめは再婚して子どもを産むのが良いとも述べており、パウロが当時のジェンダーロールに追従して語っていた可能性も考えられる。そして、聖書の中では不妊の女性が神の介入によって懐妊したエピソードが語られており、その文脈に寄せてパウロが語っている可能性も考えられる。しかし、アダムとエバの物語の中で、神はエバの子孫から蛇を倒す者が生まれると予告しており、福音書では救い主が生まれることを告知されたマリアが神に従順であった物語が描かれている。さらに、パウロがローマの信徒への手紙で「~によって救われます(未来形)」というフレーズを用いる時、「彼を通して私たちは怒りから救われます(5章9節)」「…私達は彼の命によって救われます(5章10節)」のように、キリストによる救いを描写している。ゆえに、テモテへの手紙第一における「子の誕生(出産)によって救われます」というフレーズも、エバ(女)の子孫であるマリアから全人類を救うキリストが生まれたことについて言及している可能性もあるのではなかろうか。ただし、現時点では想像の域を脱しない。

 以上のことから、テモテへの手紙第一2章8~15節は本来性別が問題なのではなく、女性が教育を受けられないという差別的な社会構造の中で生じた問題であると考えられる。そして、当時は女性が教育を受けることを期待されていなかったと考えると、女性に「学びなさい」と促したパウロは、文化的な制約を受けつつも、その先を行こうとしていたとも考えられる。

 コリントの信徒への手紙第一14章34~35節においては、以下の記述が見られる。

「あなた方の女(妻?)は、教会では沈黙しなければなりません。なぜなら、彼女らには話すことではなく、むしろ、従うことが許されているからです。律法(法)が語るように。しかし、何か学びたいのであれば、家で自身の夫に尋ねるべきです。なぜなら、女にとって教会で話すことは恥だからです」

 この箇所を根拠に、女性に対して徹底的に沈黙するよう教える教会もある。この箇所については、パウロの手によるものではなく、後の時代に挿入されたものと考える専門家も多い。ただし、この箇所がパウロの手によるものだとしても、女性を完全に沈黙させることが目的であったとは考えにくい。なぜなら、この箇所のよりも前の11章5節では「しかし、祈ったり預言したりして頭に被り物をしていないすべての女は、自身の頭を辱めています。頭を剃っているのと同じだからです」と述べているからである。パウロはコリントの教会の女性に対し、祈ったり預言したりすることは認めていたし、それ自体が恥とはしていなかった。それでは、なぜパウロはこの箇所で女性に沈黙を要求したのだろうか。学びたいことがあれば家で夫に尋ねるべきだと述べていることから、話に割り込んで質問をし、礼拝の秩序を乱してしまう女性がいたのではないかとの説もある。真相は不明であるが、パウロ自身は女性が祈ることと預言することを許容していることから、女性を黙らせることが目的ではなく、コリントの教会における礼拝の進行に何らかの混乱があり、それに対する措置であった可能性が高いと考えられる。

 最後に夫婦関係に関する議論でおもに引用されるのは、エフェソの信徒への手紙5章22~24節であり、この箇所では以下の記述が見られる。

「妻たちよ、主へのように、自身の夫に従いなさい。なぜなら、キリストも教会の頭であり、彼が身体の救い主であるように、男(夫)が女(妻)の頭だからです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて自身の夫に(従いなさい)」

 この箇所を根拠に、教会においても家庭においても男性が主導すべきであり、女性は常に男性に従うべきであると主張するキリスト教徒も少なくない。しかし、この箇所についても当時の社会背景を考慮しつつ慎重に解釈するべきである。

 エフェソの信徒への手紙は、パウロ書簡の中で唯一当時の教会へ普遍的に宛てられた文書とされている。よって、パウロの他の書簡に比べて普遍性が高く、教会の運営マニュアルのような側面も持っている。ただし、その場合でもこの書簡が書かれた当時の社会状況を踏まえて考察するならは、異なる解釈が生まれる。

 当時のギリシア・ローマ世界では家父長制が支配的であった。当時の家父長制においては、1人の男性が夫として妻を支配し、父親として子を支配し、主人として奴隷を支配するという秩序の在り方が理想的であるとされていた。エフェソの信徒への手紙における5章22節から24節までのみならず、6章9節までの記述全体が、家父長制を意識して書かれた内容になっている。そこでは、家父長制の文化に合わせ、夫婦関係、親子関係、主人と奴隷の関係について述べられている。しかし、妻への「従いなさい」に対して夫への「愛しなさい」、子への「従いなさい」に対して父への「怒らせてはいけません」、奴隷への「仕えなさい」に対して主人への「同じようにしなさい」のように、支配被支配ではなく、尊重し合う関係性が前提となっている。また、ここでは当時の文化において支配される側であった者に対して先に直接語りかけるという形が取られている。パウロが従来の家父長制と全く同じ考えであったなら、支配者である男性に「支配しなさい」と語り掛けるだけで十分であったはずだが、敢えて当時被支配者であった妻、子ども、奴隷に先に語り掛けたのは、当時の価値観では男性の所有物であった彼らを「人間化」する意図があったのかもしれない。さらに、家父長制の話題が始まる直前の5章21節では、「神(へ)の畏れにおいて、互いに従い合いなさい」と記されている。よって、パウロは表面的には当時の家父長制に迎合して、キリスト教徒同士の人間関係について語っているように見えるが、パウロの目指す対人関係は互いに従い合い尊重し合う関係性にあり、本質においては当時の家父長制と異なっていると思われる。

 以上のことから、コリントの信徒への手紙第一14章34~35節は、互いに従い合い尊重することが主題であり、当時の家父長制的な文化の下で書かれているものの、家父長制における男性支配を覆し、より対等な対人関係の在り方を提示していたと考えられる。

 聖書において男尊女卑に悪用される聖書箇所を考察したところ、これらの箇所が男尊女卑的な文化の制約下にあったことは否めない。初期のキリスト教会が目指していたのは、文化的な制約の一歩先を行く、より対等な関係性であったと考えられる。よって、これらの聖書箇所は、現代のキリスト教徒もまた文化的な制約の一歩先を目指すべきことを示唆しているとも考えられる。少なくとも、これらの箇所を女性支配のために悪用したり、家父長制や亭主関白などの「保守的な価値観」を神格化するために利用したりするのは不適切である。

2023年11月19日 礼拝説教 『あなたがたのただ中に』

 ルカによる福音書17章20節と21節をお読みいたします。

 

 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『あなたがたのただ中に』と題してお話させていただきます。
 

 この箇所では、「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人が尋ねて来ます。

 ファリサイ派の人は、新約聖書の中では悪役として描かれることが多いのですが、実際にファリサイ派の人々が残した文書には、イエスさまの考えと似たことが書いてあるそうです。なので、新約聖書に登場するファリサイ派への攻撃は、キリスト教が成立した後のユダヤ教キリスト教の衝突を反映したものか、もしくはファリサイ派の中にいる過激な人たちへの批判なのではないかとも言われています。さらには、ファリサイ派の人々がイエスさまに議論を仕掛けていたのも、イエスさまのことを自分達の仲間だと思っていたからなのではないかと考える人もいます。

 そんなファリサイ派の人から投げかけられた問い、「神の国はいつ来るのか」という問いですが、これは当時からよく議論していた話題だそうです。現代のキリスト教にも、「神の国はいつ来るのか」ということに関心を持つ人はいますし、自己流で「もうすぐ神の国が来る」とか「この地域で戦争が起きたら、神の国が来る前兆だ」とか、いろいろなことを言う人がいます。それにしても、神の国とは一体何なのでしょうか。ファリサイ派の問いに、イエスさまは答えられます。

神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」

 どうも神の国というのは、目に見える形で来るものではないようです。さらに、どこにあると言えるものでもないようです。神の国というと、雲の上のような世界や、光り輝く世界みたいなものを思い浮かべたくなりますが、そういうものでもないようです。そしてイエスさまは続けられます。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」

 そのようにイエスさまはファリサイ派の人々に答えられたのでした。

神の国はいつ来るのか」と尋ねるファリサイ派の人々に対して、イエスさまは「あなたがたのただ中にあるのだ」と答えられたのです。

 神の国というと、「いつか来るもの」というイメージが持たれがちなように思います。当時でも現代でも「神の国がいつ来るのか」あるいは「終末がいつ来るのか」といった議論をする人はたくさんいます。まるで遠い将来に来る、自分とは全く関係ないものであるかのようなイメージが持たれがちなように思います。または、神の国さえ来れば、あらゆる問題が解決されるような万能薬のようなものだと考える人もいるかもしれません。しかし、神の国は私たちのただ中にあるものだそうです。

 もしも、神の国が遠い未来に来る、私たちと全く関係ないものなのであれば、それは虚しい希望となってしまいます。今をどれだけ必死に生きても、神の国を見ることはありません。すると、神の国は単なる伝説上の存在として終わってしまいます。一方、神の国が来さえすればあらゆる問題が解決されるという考え方もあります。もちろんそういった希望は大切です。人間の力ではどうにもならない苦しみに直面した時、人知を超えた力が自分を救ってくれると信じられることは、大きな慰めになります。ですが、神の国を期待するあまり、今を生きることを完全に放棄してしまうのは、とてももったいないことだと思います。実際に、楽園の希望があるから、天国の望みがあるからと言って、今ある命や生活を粗末に扱うよう教える宗教団体もあります。しかしそれは、生きていると言えるのでしょうか。私にはそうは思えません。

 もちろん死後の希望も大切ですし、キリスト教は死者の復活を信じる宗教ですが、「今、ここ」における命と生活を忘れてはいけないと思います。

 神の国とは何でしょうか。ただ死んだ後に行くだけの世界なのでしょうか。そんなことはないと思います。イエスさまは、神の国は私たちのただ中にあるのだと言われます。神の国は、「今、ここ」にある生きたものなのです。それは生ける者の営みです。「今、ここ」における神の国は、神は目指した理想の片鱗です。神が目指した理想とは、人が神の像として世界の調和を守るという在り方です。ですから、人が愛し合い、尊重し合う、そういった関係性の内に、神の国の命、神の息吹が宿ります。神の息吹がそこに宿る時、「今、ここ」において、世界を生きやすい場に変えていく働きが起こります。傷んだ世界を修復しようとする神の働きに呼応して、人間の働きが合わさるのです。そこにこそ、神の国があるのだと思います。

 聖書は世の終わりにおける希望も語ります。それは、神さまが世界を完全に修復された時です。その時、今までに亡くなった人も復活するのだと、キリスト教の伝統では信じられています。

 しかし、それまでの間、今生きている私たちが、神さまからの働きかけにどのように応えるかが、問われているのだと思います。

 もしかしたら、「目に見える神の国」にこだわっている内は、「神の国」は来ないのかもしれません。私たちは、神さまが超自然的な力で世界をひっくり返すことを期待する前に、日々の生き方の中に神の国を招くことを期待されているのかもしれません。

 今のこの世界は大変傷んでおり、まだ神の国は完成からほど遠い状態にあると言えるでしょう。しかし、そこに向かって進み続けることこそが、今を生きる私たちの使命なのだと思います。

「今、ここ」に、私たちのただ中にある神の国を信じて、歩んでいきたいと思います。

 イエスさまは言われます。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」

2023年11月12日 礼拝説教 『玄関のラザロ』

 ルカによる福音書16章19節から31節をお読みいたします。

 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセ預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセ預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

(口語訳聖書)

 それでは、『玄関のラザロ』と題してお話させていただきます。

 このお話、「金持ちとラザロ」と呼ばれる、キリスト教の中では有名な例え話です。

「地獄の話?」とドキッとされる方もおられるかもしれません。

 元々旧約聖書は死後の世界への関心が薄かったのですが、イエスさまが活動された1世紀頃になると、生前の行いによって死後行く世界が変わるという考えが普及していたようです。イエスさまはその文化に合わせて語られているようです。そしてこの例え話は、お金に執着する人々に対して語られたお話です。ですから、死後の世界のお話をしたいわけではなく、死後の世界という題材を使って、お金に執着する人を戒めたという点が重要です。

 この例え話の主な登場人物は、金持ちとラザロとアブラハムです。ラザロはエルアザルというヘブライ語の名前をギリシア語に変形させたものだそうですが、「神は救い」という意味だそうです。しかし、金持ちには名前がありません。金持ちは贅沢に暮らしますが、ラザロは金持ちの玄関の前で飢えています。時が経ち、2人とも亡くなりますが、ラザロは天使に連れられアブラハムの元へ、金持ちは黄泉で苦しめられることになります。

 キリスト教の中には「この例え話は、死んでしまった後に悔い改めても手遅れだということを表現している」と言う人もいますが、私にはそうは思えません。

 果たして、金持ちは悔い改めているのでしょうか。

 金持ちは言います。

「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」

 アブラハムから、大きな淵があって行き来できないと聞かされると、金持ちは言います。

「父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください」

 金持ちは生前の行いを後悔し、自分が助からないと知ると、兄弟を助けようとします。

 しかし、金持ちは悔い改めていると言えるでしょうか。

 2度の発言で、金持ちはラザロを使おうとしています。アブラハムに語り掛けていますが、2つの要求はラザロに対する者です。「ラザロを遣わしてください」

 この金持ち、火炎の中で苦しんでいる間も、ラザロを下に見ていたのではないでしょうか。

 ラザロが顔なじみで頼みやすいからといった理由で、ラザロを遣わしてくれと頼んだわけではないと思います。金持ちは生前贅沢に暮らし、玄関の前でおこぼれに与ろうとするラザロには目もくれませんでした。そのラザロがアブラハムと一緒にいたのを見ても、心のどこかでラザロを見下していたのではないでしょうか。そしてその傲慢さの故に、金持ちは黄泉に降ることになったのかもしれません。

 金持ちは贅沢に暮らしていました。それでいて、ラザロの存在を認識していました。ラザロを自分と対等な人間だと思っていたなら、玄関にいたラザロにもっと関心を示したのではないでしょうか。ラザロの苦しみを我が事のように感じていたなら、何とか力になれないかと考えてのではないでしょうか。金持ちにとってラザロは、遠くの町の顔も知れない人ではありませんでした。自分の家の玄関にいた、顔も名前も知っている人でした。日々贅沢に暮らしつつラザロを放置していたのであれば、金持ちはラザロを非人間化していたのかもしれません。

 金持ちは一見大きな悪事を働いてはいません。人を殺したという話も出てきませんし、誰かを搾取して富を築いたという話も出てきません。ですが金持ちは、贅沢な暮らしを享受しながらも、ラザロの苦しみを放置していました。目の前で苦しむ人を非人間化していたのでした。一見悪いことはしていないように見えても、「我がさえ良ければ」という考えが、金持ちの魂を蝕んでいたのかもしれません。そして「我がさえ良ければ」という思いが、金持ちを黄泉に降らせたのかもしれません。

 金持ちとラザロの物語の前半部分と似たようなことは、現代の社会でも起きているかもしれません。

「我がさえ良ければ」という思いが、自分さえ幸せに過ごせたら、他人はどうなっても良いという空気感をつくります。そしてその空気感が、自分の幸せだけを追い求め、他者の苦しみには冷淡な社会をつくります。そのような社会になった結果、ラザロが玄関で苦しむのを横目に、金持ちが贅沢な暮らしを享受する世界が出来上がってしまったのかもしれません。そういった世界の中で、しわ寄せがラザロのような弱い立場の人々に向かいます。この世界では、私たちの誰もが金持ちのようになることがあるかもしれませんし、逆にラザロのようになることもあるかもしれません。この例え話は、そういった世界の縮図なのかもしれません。

 しかし、神は弱き者の側に立たれます。この世界での構図を、いつか神は真っ逆さまにひっくり返されます。その時、金持ちがラザロに与えた苦しみは、何らかの形で、火炎のような苦しみとなり金持ちに跳ね返ります。そこに宗教を信じたかどうかは関係ありません。

 ですが神さまの理想は、全ての人が癒されることです。ですから、私たちキリスト教徒は、玄関のラザロが助かるような共同体をつくっていく者になりたいと思います。