マタイによる福音書2章5節から8節をお読みいたします。
彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
(口語訳聖書)
それでは、『小さいもの』と題してお話させていただきます。
これまでの流れとしては、まず東方の天文学の博士が、ユダヤで偉大な王が生まれることを示す星を観測して、エルサレムまでやってきました。ユダヤ人たちを統治していたヘロデは、そのことを聞いて不安になります。そこで、ヘロデは祭司や律法学者など、聖書の専門家を呼び集め、救世主つまりキリストがどこで生まれると書かれているのか尋ねました。
そこで、専門家たちは答えます。
さらに預言者が残した書物を引用します。
「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」
救世主はベツレヘムで生まれると言われているわけですが、これはキリストがダビデの子孫とされており、ダビデの故郷がベツレヘムだからだそうです。これはヘロデが支配していたエルサレムの南にある町です。そして、「決して最も小さいものではない」と書いてあるということは、当時の感覚でベツレヘムは小さな町だったようです。
中央とされていたエルサレムではなく、人々から小さいと思われていたベツレヘムから、キリストは生まれたのでした。
ヘロデはこっそりと博士を呼んで、いつ星が生まれたのかを聞きます。そして、自分も新しい王を拝みたいので、見つけたら詳しく教えてほしいと言って送り出します。後の展開から分かることですが、ヘロデは自分もキリストを拝みたいと思っていたわけではありません。嘘をついています。ですが、今の時点ではヘロデの意図は明かされてはいません。
これまでの物語の流れの中で、旧約聖書が繰り返し引用され、イエスさまが旧約聖書で予告された救世主なのだということが強調されています。その中で、印象的な対比があります。それは、ユダヤ人と異邦人、エルサレムとベツレヘム、そしてヘロデとイエスさまです。
ユダヤ人は、旧約聖書の中で「神の民」とされ、神から特別な使命を与えられた民族だとされてきました。しかしこの物語では、神から選ばれたとされたユダヤ人でなく、東方の異邦人が誕生したキリストを拝むためにやってきました。
エルサレムは、聖書の中では都とされています。それに対して、ベツレヘムはエルサレムの南にある小さな町です。
ヘロデはユダヤ人を統治していた権力者です。それに対し、イエスさまは生まれたての無力な赤ちゃんです。
ここで、聖書の中で繰り返されているパターンが、ここにも表れています。
それは、逆転の物語です。
聖書の中では、一般的な感覚で優れているとされるものが低められ、小さいと見なされるものが高められます。そして、小さいと見なされたものの中から、神さまの働きが始まります。
さらに今回の物語では、神さま自身が小さく無力な赤ちゃんとして生まれ、世界を救うための働きを始められます。しかし、前回の物語ではヘロデ王もエルサレムの住民も不安になったと語られていました。当時のユダヤ社会の中央とされた人々から、人として生まれた神さまは歓迎されなかったのだと、聖書は語っているのです。
マタイの福音書は、神さまご自身がとても小さなものとなることから始まるのです。
そのような神さまの働きが、私たちの現実を揺さぶります。この世界にはいろいろなヒエラルキーがあります。どんな所に住んでいるか、どんな物を身につけているか、どれだけお金を持っているか、いろいろな属性で人間は上下を決めようとします。
それでも、神さまご自身が小さなものになって、小さいと見なされた場所から働きを始められるのです。そうして、神さまはこの世界の支配を覆されるのです。
ベツレヘムからキリストが生まれることについてですが、旧約聖書の中ではミカ書という預言書で予告されています。しかし、ミカ書とマタイの福音書では、ベツレヘムについての説明が真逆です。今回の聖書箇所では、「最も小さいものではない」と書かれていますが、ミカ書では「小さいもの」と書かれているのです。
この違いは不思議ですが、とても大事な違いなのかもしれません。
小さいとみなされたものの中から神さまが働きを始められるとき、それはもはや小さいものではないということなのかもしれません。
この世界では、力を持った者が好き放題に暴れ回ります。力を持った者が力を持たぬ者を虐げます。
現代でも、自分達が特別な存在なのだと考える人々が、他の人々を虐げます。
絶望的な状況の中で、神の働きがどこにあるのかと思ってしまいます。
時に私たちの力は大変小さく、私たちは無力な存在です。またある時には、私たちは自分を優れたものと勘違いし、他の誰かを虐げるものになってしまっているかもしれません。
しかしそれでも、小さな赤ちゃんとしてお生まれになった神さまが一人の君として立ち、指導者として私たちを導いてくださるという希望を持ちたいと思います。