大和寝倒れ随想録

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教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)5

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教会の存在意義

 一部プロテスタント系団体においては、「什一献金」と称して、収入の十分の一を献金することが信徒に義務づけられている。中には、義務としては明文化されていなくとも、什一献金を実行するよう、教職者等が圧力をかける場合もある。什一献金を要求する団体やその教職員はいくつかの聖句を根拠に、什一献金キリスト教徒の義務であると主張する。

 旧約聖書においては、主にマラキ書3章から引用されることが多い。マラキ書3章8節から10節には以下のように記されている。

「人が神から奪うだろうか。しかし、あなたがたは私から奪ったのだ。しかし、あなた方は言う。私たちがあなたから奪いましたかと。十分の一の捧げものと奉納物においてだ。呪いによってあなた方は呪われている(もしくは「あなた方は確かに呪われている」)。あなた方は国全体で私から奪っている。すべての十分の一を倉に持って来て、私の家に食べ物があるようにしなさい。そして今、これによって私を試しなさい――万軍の主は言われる――私があなた方に天の窓を開いてあなた方に限りない祝福を注がないかどうか」

 しかし、この箇所における神の言葉は3章5節から始まっており、そこには「裁きのために私はあなた方に傍に来る。そして、魔術を行う者たちや、姦淫する者たちや、偽って誓う者たちや、賃金を巻き上げて雇い人や寡婦や孤児を抑圧する者たちや、寄留者を退ける者たちや、私を畏れない者たちに対して、急いで証人となる。万軍の主は言われる」と記されている。よって、箇所の主題は十分の一の捧げものではなく、社会正義の回復であり、その例として十分の一の捧げものが引き合いに出されていると考えられる。

 十分の一の捧げものについては、レビ記民数記などに記述が見られる。ただし、捧げものは単に「月々の収入の十分の一」という形ではなく、複数の捧げものが存在し、それらは祭司として使えるレビ族への給与、祭りの資金、困窮者への支援等に用いられていた。つまり、古代イスラエルにおいて十分の一の捧げものは、共同体を維持するための税金や社会保障費として機能していたと言える。よって、マラキ書における「神から盗んだ」という告発についても、現代で言う脱税のような状態として捉えることができる。ゆえに、旧約聖書に十分の一の捧げものが記されているからといって、全キリスト教徒が収入の十分の一を所属する団体に支払わなければならないということにはならない。

 しかし、「什一献金」を信徒に義務付ける教職者は、新約聖書におけるイエス・キリストの発言も引用することで、自らの主張を補強しようとしている。

 マタイによる福音書23章23節には、以下のような記述が見られる。

「あなた方に災いあれ。律法学者とファリサイ派の偽善者たちよ。すなわちあなた方はミントとアニスとクミンの十分の一は捧げるが、律法でより重い公正と慈悲と誠実をないがしろにしている。これらは行われるべきであり、そしてそれらはないがしろにされてはならない(または「それらもまたないがしろにされてはならない」)」

 この箇所における「そしてそれらはないがしろにされてはならない」の部分が、一般的に「十分の一の捧げものもないがしろにしてはならない」と解釈されている。しかし、この箇所は十分の一の捧げものが主題ではない。十分の一を捧げているにも関わらず、より重要な公正さや慈悲や誠実を怠っていた人々に対する批判が主題である。さらに、これは当時のユダヤ教の文脈の中で語られた言葉であり、初期キリスト教における信仰実践をこの箇所から導き出すことはできない。聖書の中で初期キリスト教の実践を検討するには、使徒言行録も参照する必要がある。

 初期教会においては、土地や家を売り払って共同生活をしていた時期もあったようではあるが、牧会書簡においては献金額の目安は定められてはおらず、パウロも「悲しみ(痛み)からでなく、強いられてでもなく、全ての人が心に前もって決めた通りに(捧げものをしなさい)」(コリントの信徒への手紙第二9:7a)としか述べていない。よって、捧げものという概念自体は古代イスラエルからキリスト教へ引き継がれてはいるものの、キリスト教徒に対してノルマが課されているわけではないと言える。

 以上のことから、聖書は献金の額についてキリスト教徒に具体的な義務を課しておらず、団体や教職者が献金のノルマを決めることは不当であり、さらに信徒を脅して資金を調達するのは反社会行為であると言える。献金は信徒の自由意志に基づくべきであり、聖書を利用した強要は不適切である。

 信徒個人が十分の一を目安とするのは個人の自由だが、組織や教職者が献金の額について圧力をかけることがあってはならない。さらに、日本弁護士連合会によると、献金の勧誘において宗教的恐怖心を煽ることは是認されず、悪質な場合には恐喝罪に当たり得る。一方、信徒個人の自由意志に基づく献金であったとしても、多額の献金によりその信徒の子が生活を脅かされることがあってはならない。そういった場合には、団体側が強制的に献金を返金するべきであろう。