大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2024年1月14日 礼拝説教 『人がひとりでいるのは』

 創世記2章15節から20節をお読みいたします。

 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『人がひとりでいるのは』と題してお話させていただきます。

 旧約聖書創世神話には2つの伝承があり、今回の聖書箇所は、実は前回のお話とは別の伝承です。しかし、人間が地上の平和を守る仕事を神から委託されるという世界観は変わりません。

 今回の伝承では、エデンの園という所に人が配置されています。エデンという言葉は、ヘブライ語で喜びや楽しみを意味する言葉から来ているとも言われていますし、近隣の言葉であるアッカド語で園を意味する言葉から来ているとも言われています。とりあえず、神に護られた領域という感じでしょうか。楽園の元型的なイメージなのかもしれません。

 人間はエデンの園で、園を耕し守るという使命を与えられます。つまり園の管理人として働くことになったわけです。こういった描写に、「人間は本来、地上の調和を守る存在として造られた」という聖書の人間観が反映されているように思います。

 神さまは人間に命じられます。

「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」
善悪の知識の木以外からは自由に食べて良い。しかし、善悪の知識の木だけは食べてはいけない。そういった命令ですが、ここでは善悪の知識の木というものがどういったものなのかは、はっきり分かりません。

 その次に神さまは言われます。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」

 園を守る仕事がワンオペ状態なので、増援を造ることになりました。

 ここで、「ふさわしい助け手」という言葉が出てきます。

「助け手」という言葉、日本語だとなんだか補助役とかお手伝いという印象がしないでしょうか?

 この言葉、原語ではエゼルという言葉です。このエゼルという言葉ですが、旧約聖書の他の箇所で出て来る時には、専ら神からの助けを指しています。つまり、助け手は補助役とかお手伝いとかではなく、相手を助け出してやる存在であり、相手はその助け手に助けていただく存在ということになります。

 そして、「ふさわしい助け手」の「ふさわしい」という言葉ですが、これは原語では「向き合う」とか「平行する」とかいったニュアンスを持つ言葉のようです。すると、この助け手というのは、困難から助け出してくれる存在でありながら、対等な存在という印象がします。もしかしたら、助け合うパートナーということなのかもしれません。

 こうして神さまは、はじめの人間のパートナーを造ろうと、様々な動物を造られます。そして、人間に名前をつけさせます。ここにも、人間に仕事を委託する神さまの在り方が見られます。

 しかし、ふさわしい助け手はここでは見つかりません。そこから後に、もう1人の人間を造ることになります。

「人がひとりでいるのは良くない」

 キリスト教では、ここを引用して結婚しなさいと言う人もいます。宗教関係なく、例えば学校ですと、クラスに友達がいないといけないという雰囲気が教室を支配しています。中には、いつも誰かと群れていないと不安だという人もいるかもしれません。「ぼっち」という言葉もあります。

 では、聖書で語られた「人がひとりでいるのは良くない」というのは、結婚しろとか友達をつくれとか、そういう意味なのでしょうか。

 世間には、結婚はしたけど配偶者を支配しているという状態の人もいます。そういう人は相手にとってふさわしい助け手になっていると言えるでしょうか。実際には、相手をひとりぼっちにしてしまっているのではないでしょうか。あるいは、そんな生き方をする人自身もひとりぼっちなのかもしれません。

 友達はたくさんいるように見えて、自分の利益になりそうな人を利用しているだけという状態の人もいるかもしれません。あるいは、マウントの取り合いで日々消耗している人もいるかもしれません。そんなのは、ふさわしい助け手、つまり対等に助け合える相手がいるとは、とても言えないでしょう。

 それでは、聖書が言う「人がひとりでいるのは良くない」というのは、どんな意味なのでしょうか。

 これは、神さまからの語り掛けではないでしょうか。

「私がたくさんの人間を造ったのだから、お互い対等な立場で助け合いなさい」

 創世神話を通して、神さまはそのように私たちに語りかけているのではないでしょうか。

 神さまは、元々この世界を良い場所として造り、神の像、世界の調和を守る存在として人間を造られました。さらに、対等に助け合う存在として、たくさんの人間を造られました。今この地球には、80億人近くの神の像がいます。私たちはお互い対等に助け合う存在となれているでしょうか。

「ぼっち」という言葉、「社会の分断」という言葉、そして「孤独」「孤立」といった言葉がよく聞かれますが、ひとりぼっちになってしまう人が悪いのでしょうか。むしろ、誰かがひとりぼっちになってしまう世界を造った人類の在り方に問題があるのではないでしょうか。

 単に友人や家族であることが、対等に助け合える存在というわけではありません。目の前にいる人もまた自分と同じように、大切な存在なのだということを心に留め、それと同時に自分もまた目の前にいる人と同じように、神の像として造られた尊厳ある存在なのだということを胸に刻んで相手と接する、そういうことを積み重ねていくことこそが、助け合う仲間をつくっていくということなのではないでしょうか。

「人がひとりでいるのは良くない」

 誰かがひとりぼっちにならなくて良い世の中を目指していきたいと思います。