大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年12月31日 礼拝説教 『命をねらっていた人々』

 1月6日はエピファニーという日で、東方の博士たちがイエスさまの元を訪れたことを記念する日とされています。そのエピファニーまで1週間ありますので、今回までクリスマスを思い起こす聖句からお話ししたいと思います。

 それでは、マタイによる福音書2章19節から23節をお読みいたします。

 さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『命をねらっていた人々』と題してお話させていただきます。

 ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺したヘロデが死にました。すると、天使がエジプトに避難していたヨセフの夢に現れます。マタイによる福音書では、星による導きや夢のお告げといった出来事が登場します。どちらも古代の世界では重要視されており、日本にも星を観測して吉凶を占う公務員がいたり、夢で見た内容が政治に影響を及ぼしたりということもあったようです。古代人にとって、星は神が住まう天の領域でしたし、夢は神が人に語り掛ける回路でした。星の導きや夢のお告げといった描写は、イエスさまの誕生が、まさに神さまのご計画であり、神さまがこの世界に介入した出来事だったのだと強調する意図があったのかもしれません。

 夢に現れた天使は言います。

「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」

 この天使の台詞、実は旧約聖書出エジプト記という部分で、神さまがモーセに語られた言葉ととても似ています。そのため、この箇所は預言者モーセを思い起こさせる意図があったのではないかと言われています。つまり、イエスさまこそが旧約聖書を成就する方であると、強調されているわけです。

 そして、最終的にガリラヤ地方のナザレという町に住むことになります。そこで「これは預言者たちによって、『彼はナザレ人と呼ばれるであろう』と言われたことが、成就するためである」と書かれていますが、旧約聖書でそのような箇所は見つかっていません。ともあれ、預言者たちの言葉がイエスさまによって成就されたのだということが、ここでも強調されているわけです。

 今回の箇所は権力者の死によって、大きく物語が展開しています。

 ヘロデの死を受けて、天使がヨセフに「幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」というわけですが、「人々」と複数形になっています。これはヘロデという悪しき王1人だけがイエスさまの命を狙っていたわけではないということを示しています。それに、ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺するよう命令を出したのはヘロデ1人ですが、その命令を実行したのは、おそらく兵士たちだったと思われます。

 ヘロデの下についていた「命をねらっていた人々」は、どんな人たちだったのでしょうか。絵に描いたような悪人だったかもしれません。しかし、そうでもなかったかもしれません。もしかしたら、日常生活では家族や友人を大切にし、上から命令されたことを淡々とこなす、ある意味では「普通の人々」だったのかもしれません。そして、そんな「普通の人々」がイエスさまの命を狙っていたのかもしれません。

 音楽ジャンルのレゲエでは、「バビロンシステム」という言葉が度々出てきます。権力を悪用して人々から搾取する社会体制を指す言葉だそうです。レゲエはジャマイカで生まれましたが、日本のレゲエミュージシャンの曲にも、理不尽な社会体制に立ち向かうことをテーマに歌ったものがあり、そこでは「バビロン」という言葉が登場します。レゲエでは、特定の悪人ではなく、バビロンシステムという、権力を持った人々の作り上げた社会体制が問題として取り上げられているわけです。

 もしかしたら、バビロンシステム、つまり人々を抑圧する社会体制というのは、日常生活を普通に生きる「普通の人々」によって維持されているのかもしれません。権力の暴走に対する、「まあいいか」とか「これが現実だ」といった諦めや無関心が、ヘロデのような王をつくってしまったのかもしれません。

 ということは、悪人らしい悪人を倒せば世界が良くなるというわけではないのでしょう。

 ヒトラー1人が倒され、ナチズムがドイツで禁止されても、アジア人差別やスラブ蔑視はドイツ社会に根強く残っています。プーチンやネタニヤフ1人を倒したところで、ロシアやイスラエルが無差別殺戮を止めて健全な国家になるわけではないでしょう。同じように、日本の政治家を数人倒したからといって、日本が突然理想国家になるなどということはありません。社会のシステムそのものが癒されなければ、「普通の人々」が第2第3のヘロデを育てあげてしまうでしょう。

 人類を罪から救ってくださるイエスさまもまた、ヘロデが死んだにも関わらず、最後は「命をねらう人々」によって十字架刑に追いやられました。イエスさまを十字架につけるように叫んだ人々は、北斗の拳に出て来るような悪人面をしていたでしょうか。きっと、普通の顔をした「普通の人々」だったと思います。そして、その「普通の人々」の暴力性が神さまの命を狙うというところに、聖書の真実はあるように思います。イエスさまの命を狙う暴力性は、私たち全員の心の闇に潜んでいるのかもしれません。

 しかしそれでも、イエスさまはそんな、いつ「命を狙う人々」になるかもしれない私たちを罪から救い出すために、この世界に生まれてくださいました。そしてイエスさまは、第2のモーセとして、ユダヤ人も異邦人も関係なく、すべての人を神の民として受け入れ、罪による支配から救い出してくださいます。そのことに希望を置いて、日常を生きていきたいと思います。