大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2024年1月21日 礼拝説教 『Unity』

創世記2章21節から24節をお読みいたします。

 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、

 わたしの肉の肉。

 男から取ったものだから、

 これを女と名づけよう」。

 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

(口語訳聖書)

 それでは、『Unity』と題してお話させていただきます。

 まずは前回のおさらいをしますが、神さまは人間をつくって園に配置し、園を守らせました。しかし人間は1人だけでした。そこで神さまは「人がひとりでいるのは良くない」とおっしゃって、その人間にふさわしいパートナーを見つけようと、いろいろな動物を造られました。しかしそれでも、パートナーは見つかりませんでした。

 今回は、そのお話の続きです。

 神さまは人、つまり後のアダムを眠らせました。そして、あばら骨の一つを取って1人の女性をつくったと言われています。この箇所を読んで、「は? なんで女があばら一本から造られとんねん。男尊女卑かコラ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、この「あばら骨」という言葉ですが、古代イスラエル人の神話を編纂する際に、異民族の神話を翻訳して転用して、「あばら骨」になったという説もあります。そして翻訳される元になった言葉は「生命」を意味すると言われています。するとこれは、単に骨一本を取ったのではなく、人の命を分けて2人の人間をつくった、という意味合いにも取れます。「あばら骨」という言葉について、もう1つ解釈があるんですけれども、こっちが私の好きな解釈です。それは、あばら一本ではなく、「側面」あるいは「片側」という解釈です。「あばら骨」と訳されている言葉は他の聖書箇所では専ら「片側」とか「側面」といった意味で翻訳されており、「あばら骨」と訳されているのはこの箇所だけなんです。つまり、一人の人間を真っ二つにして、二人の人間に分けた。対等なパートナーという感じで素敵じゃないでしょうか。

 元の人から生命の一部を取ったにせよ、片側を取ったにせよ、どちらの解釈であっても、新しく造られたもう1人の人間が、とても大切な存在だったと感じられるのではないでしょうか。

 そしてアダムは言います。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」

 この台詞から、アダムは新しく造られたもう1人の人間をただのあばら一本の人間とは見なしていないことが分かります。わたし骨の骨、わたしの肉の肉、まさに瓜二つ、向かい合うパートナーという感じでしょうか。

 こうして、人間は親元を離れて結婚するようになったのだと語られます。

 この場面は「結婚の制定」と呼ばれることもあります。たしかに、神話には起源譚というものがあり、「こういうわけで、人々はこうするようになったのです」といった起源が語られることがあります。しかし、私にとっては、この箇所は単に結婚の話をしているだけではないように思われるんです。

「人間がたくさんいるのは、助け合うため」と、この物語は伝えてくれているのではないでしょうか。

 人間はたくさんいるし、それぞれクセや個性はあります。それでも一つになって助け合う。神さまは、そんなメッセージを、この神話を通して伝えてくださっているのではないでしょうか。
 
 しかし、今の現実に目を向けてみると、神さまの理想とは逆のことが起こっています。

 神さまが望んだ世界は悪しき思いで塗りつぶされています。

 神さまは人々が1つになって助け合うことを望んだのに、人が人を抑圧し支配する社会体制、レゲエ用語で言う「Babylon system」が出来上がってしまいました。こうして今この時も、強き者が私服を肥やし、弱き者を踏みつけています。

 しかし、そんな中私たちを助けに来てくださったのが、イエスさまでした。

 パウロは、キリストの血がユダヤ人とそうでない者を一つにしたと語りました。そして、キリスト教の教会がキリストのからだであると言いました。新約聖書におけるこのパウロの表現も、この物語を念頭に置いたものなのだと、私は思います。

 現実の世界は奪い合い潰し合う地獄みたいな世界です。そんな世界より、互いに尽くし合い庇い合う、そんな極楽みたいな世界の方が良いのではないでしょうか。

 レゲエにはUnityという言葉があります。これは、みんなが1つになるという意味です。支え合い補い合い助け合う、その働きの内にUnityというものがあるのではないでしょうか。

 キリストの元でのUnityが地を覆った時、Babylon systemは音を立てて崩れます。

 私たちは聖書を単にお勉強の書物として読んでいるのではありません。知的好奇心も大事ですが、知的好奇心だけで聖書を読んでいる内は、聖書の言葉は身にはつきません。聖書の言葉に魂の深い所で触れ、その振動が魂全体に響く時に、その人の生き方が変化します。そして、実際の生活の中で人と助け合い愛し合う。そういった営みの中でキリストのUnityが育っていく。そういうものなのではないでしょうか。

 そうしてキリストの下でのUnityが大きくなった時、理不尽な社会体制つまりBabylon systemに立ち向かう力、Babylon systemの城壁を穿つような力が生まれるのだと、私は信じています。

 だからこそ、神さまはこの物語を聖書の最初に書かせたのだと思います。

 1人の人間からもう1人の人間がつくられ、そして2人は愛し合い補い合い、まるで1つの身体のように力を合わせる。神さまが描いたこのイメージこそが、キリストの下でのUnityの元型であり理想像なのだと思います。

 ですから、私たちもこの聖書箇所を単なる文字で終わらせるのではなく、日常生活の中でお互い支え合い補い合い助け合い、父と子と聖霊の下でのUnityを目指していきたいと思います。