大和寝倒れ随想録

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2024年1月7日 礼拝説教 『神の像』

 創世記1章26節から28節をお読みいたします。

 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(口語訳聖書)

 それでは、『神の像』と題してお話させていただきます。

 これは聖書の初めの創世神話ですが、神さまは、神さまのかたちとして、人間を造られています。

 神のかたちというのは、神の像ということです。ヘブライ語のツェレムが「かたち」と翻訳されていますが、このツェレムという言葉は、像を指す言葉としても使われています。

 旧約聖書が書かれた古代中近東の世界では、像はそれが象徴するものの本質を運ぶものとされていたそうです。そして、神の像は神そのものではないけれど、その像を通して神が働くと信じられていたそうです。ですから、そういった文化的な背景の元で、聖書は人間が神の像だと言っているのです。

 奈良時代の日本では、鎮護国家といって、仏教の力で国を守ろうと、平城京の東に大仏を建立しました。像を通して現れる仏の働きで、国を守ろうとしたわけです。

 それと似たように、聖書の創世神話では、神さまご自身が、人間そのものをご自身の像としてつくり、ご自身が造られた地上に配置されました。そして、人間が神さまの性質を表現し、地上の平和を守るために、人間に地上の管理を委託されたのでした。

 さらに、「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と聖書にあります。現代の日本にもまだまだ性差別はありますが、古代の世界は現代以上に男尊女卑が酷い世界でした。まるで女性が男性の所有物のような扱いであったり、人数を数えるときには男性しか数えていなかったり、そういった描写が聖書の中にも度々登場します。しかし、この箇所では、男も女も性別に関係なく人間そのものが神の像として造られたのだと書かれています。

 そして、神さまは人間を祝福されます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」

 少子高齢化の時代に「生めよ、ふえよ」と言われると圧迫感を覚えますが、古代の世界における「生めよ、ふえよ」はおそらく意味合いが現代と異なると思います。当時は現代と比べ、出産の成功率も子どもが成人するまでの生存率も圧倒的に低いでしょうし、子沢山であることに繁栄のイメージがあったのかもしれません。それに加えて、近隣の神話では、増えすぎた人間を減らすために神々が洪水を起こすという物語が伝えられていました。その伝承では、人間が増えることは神々にとって好ましいことではなかったのです。ですから、聖書での「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という祝福の言葉は、単に増えなさいという意味ではなく、増えていいんだ、人間はその存在を肯定されているんだ、そこにいていいんだ、といった意味だったのかもしれません。ともあれ、生産性がどうとか、社会的地位がどうとか言うわけでなく、人間そのものが神の像として造られたのでした。

 この箇所は、聖書の人間観が描写された初めての箇所です。

 キリスト教や聖書というと、人間は皆罪人なのだとか、エデンの園で罪を犯して堕落してしまったのだとか、そういったことを言っているイメージが強いかもしれません。それでも、聖書で最初に人間が登場する物語では、人間は神の像であり、祝福された存在なのです。そして、これが本来の聖書の人間観なのです。人間という存在は、罰されなければならない存在でもなく、滅ぼされるべき存在でもなく、神の性質を表現し、地上を治める、つまり地上の平和を守るための神の像として創造されたのでした。

 罪や堕落といった言葉も、確かに後から出てきます。人間は自分勝手に善悪を決めてしまい、悪を善としてしまい、善を悪としてしまう弱さを持っています。そして、神の性質を表現して周りの人々を大切にするという生き方を選ぶ自由もありますし、逆に自分の欲望のために暴力的な生き方に走るという自由もあります。地上の平和を守るという仕事を神さまから委託された人間には、どのように生き方を目指すかを自分で選ぶ自由がありますから、自由には危険も伴います。それゆえ、人間は失敗することもありますし、逆に失敗を乗り越えて成長することもできます。

 少なくとも、人間は運命の奴隷ではありません。意思を持たない操り人形として生まれて来たわけでもありません。神から地上の平和を守るという業務を委託された存在、つまり神の代理人なのです。人間自身が神を表現する存在として生まれて来たのです。

 神の像として生きるということは、宗教っぽいことをすれば良いというわけではありません。

 正義と慈悲を重んじて生きる、周りの人々を大切にして生きる、そういった生き方の積み重ねが、神の像として生きることにつながり、神を表現することにつながるのです。そして、そんな生き方を目指すとき、人間に仕事を委託する神の働きと、それに応える人間の働きが連動し、人間を通して神の働きが現れます。その積み重ねの中で、神の国というものが広がって行くのだと思います。

 現実の世界では、人間は強き者がさらに強くなり、弱き者が虐げられる歪な世界を造ってしまいました。無力感の中で、社会の歪さから目を背け、自分1人の幸せの中に引き籠りたくなることもあります。しかしそれでも、神さまは全人類を大切な大切な神の像としてつくってくださいました。そして、人間が神の性質を表現して、人間同士が尊重し合い大切にし合う世界を造って行くことを期待してくださっています。

 すべての人が大切な存在として造られたことを心に留めて、一週間を過ごしたいと思います。