大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年11月26日 礼拝説教 『義とされて帰ったのは』

 ルカによる福音書18章9節から14節をお読みいたします。

 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

(口語訳聖書)

 それでは『義とされて帰ったのは』と題してお話させていただきます。

 今回は、自分たちを義人、つまり正しい人間だと思って他の人を見下している人たちに対して、イエスさまがたとえ話をされています。自分を正しいと思って他の人を見下すというのは、残念ながら宗教の世界では割と頻繁に見られる光景です。宗教の他にも、民族や国家、組織への所属や政治的な信条などの属性を巡って、自分と違った属性を持つ人を見下す人はたくさんいます。どうも今回は、他の人を見下すというのがキーになってくるようです。

 今回のたとえ話には、人物が2人登場します。ファリサイ派の人、つまり宗教界の優等生と、取税人、すなわち古代ユダヤ社会における嫌われ者です。

 ファリサイ派の人は、感謝の祈りを捧げます。

「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」

 傍から見るとなかなかすごい祈りです。

 一週間に二度断食して、全収入の十分の一を捧げるという行いは素晴らしいかもしれませんが、その前後がなかなか攻撃的です。他の人たちのような者でないことを感謝するという祈り方には驚いてしまいますが、さらには、近くにいる人間を指して「この取税人のような人間でもないこと感謝します」というのは、なかなか失礼です。ただ、当時のユダヤの人々がローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国のために税金を集める取税人が、民族の裏切り者とされていたということを考慮に入れると、取税人に憎しみの感情を抱いてしまうのも、致し方ないかもしれません。さらには、他の人たちを見下す祈りについても、真面目に生きる人程、不真面目そうな人や努力してなさそうに見える人に腹が立ってしまうのかもしれません。

 そのように考えると、このたとえ話に登場するファリサイ派の人は、単に他の人を見下して喜んでいる人とは限りません。もしかしたら、歪んだ世界で必死に真面目に生きようとしながら、不真面目そうな人に対して腹が立ってしまう人なのかもしれません。

 しかしそれでも、他の人を見下した祈りをしてしまうという所に、その人の自己愛が潜んでいるようにも思われます。すると、日々の生活の中で、自分より不真面目そうな人や、自分より努力してなさそうに見える誰かを軽蔑してしまう私たちの心にも、そういった自己愛の怪物が潜んでいるのかもしれません。

 露骨に誰かを見下した言動を取るのは論外ですが、誰かを見下してしまう心というのは、誰もが持っているのではないでしょうか。

 一方、取税人は遠く離れて立っています。天を見上げることすらしません。古代の人々は、世界を天と地と黄泉の三層構造と考え、天に神さまがいると考えていました。天に目を向けようとしないと敢えて書かれているのは、神さまがいるとされていた天に目を向けられない、そんな後ろめたさを表現しているのかもしれません。

 取税人は胸を叩きながら祈ります。

「神様、罪人のわたしをおゆるしください」

 たった一言の祈りです。

 自分を罪人と表現し、神に慈悲を求める祈り。単純で短い祈りです。

 この取税人が、ファリサイ派の人よりも義とされて帰ったのだと、イエスさまは語られます。

 そして、このように締めくくられます。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 聖書でいつも出て来る、上下逆転の法則です。

 自分で自分を正しい人間と思い、他を見下す人が、神さまの前に正しい人間と認められることはなく、むしろ自分の弱さを認め慈悲を求める人こそが、高められるのだと、イエスさまは語られます。

 キリスト教は本来、宗教的な儀式さえこなせば善人と認められる宗教というわけではありません。自分の弱さを認め、祈りの内に心の闇と向き合う時にこそ、人は前に進むことができます。

 自分の弱さを認め、神さまに助けを求める働きが、人間を癒そうとする神さまの働きと合わさり、癒しが起こります。

 ですから、この例え話を読んで、「自分はファリサイ派の人みたいじゃなくて良かった」と思ってしまうと、自分を正しいと思って他を見下す人になってしまいます。聖書の中ではファリサイ派は悪役のように登場しますが、聖書は古代ユダヤ人と聖霊さまによって紡がれたものです。ですから、聖書の登場するユダヤ人批判は身内批判であって、つまり自己批判のようなものです。ということは、私たちは聖書を読む時、ファリサイ派への批判を他人事として捉えるのではなく、むしろ人間が持つ普遍的な弱さが例え話を通して暴かれているのだと考え、我が事として受け取らなければなりません。

 聖書の言葉を向き合うというのは、単なるお勉強ではなく、人間が持つ弱さ、自分の心の闇と向き合うことが求められます。

 この例え話を通して、イエスさまは私たちに2つの選択肢を突き付けます。

 1つ目は自分を正しい人間と信じ、自分を高める生き方。2つ目は自分の弱さを認め、謙虚に心の闇と向き合う生き方。

 義とされて帰ったのは、取税人でした。