大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)3

※個人的な立場を表明したものであり、私が宗教活動をしていく上での指針です。内容を修正しながら、教会の指針として運用できるようにしていきたいと思っています。作成したものを、少しずつ公開していきます。

冒頭 ↓

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前回 ↓

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子どもへの暴力について

 特にプロテスタントから派生した宗教団体において、児童に対する身体的虐待が深刻な問題となっている。アメリカ合衆国プロテスタントから派生した団体では、鞭を使った尻叩きによる身体的虐待が推奨されており、日本では深刻な被害をもたらした。プロテスタントにおいても児童への身体的虐待を教唆する宗教関係者が後を絶たない。アメリカ合衆国では、福音派の保守勢力も「スパンキング(尻叩き)」と称して身体的虐待を推奨しており、その影響を受けた国内の宗教家も身体的虐待をするよう信徒に教唆している。

 身体的虐待をするよう教唆する勢力は、聖書の箴言体罰を奨励していると主張している。該当する箇所は、箴言に複数見られる。それらの中でも代表的なのは、箴言23章13~14節であり、「子どもから懲戒(指導)を差し控えてはならない。杖で打っても死にはしない。あなたが彼を杖で打つと、あなたは彼の魂を黄泉から救い出すであろう」とある。

 これらの箇所の解釈は、ユダヤ教徒の間でも関心の対象となり、古代よりいろいろな角度からの議論がなされてきたようである。一方、キリスト教プロテスタントプロテスタントから派生した団体においては、「聖書に書いてあるから」の一点張りで、安易に体罰が奨励されているように思われる。

 この箇所に限らず、聖書の記述は字義通りに解釈されるものとして書かれたのか、詩文のような形での比喩表現が用いられているのか、慎重に解釈する必要がある。一見体罰が奨励されているように見える箇所が、子どもへの体罰を直接的に表現しているのか、それとも犯罪者へのむち打ち刑や羊飼いによる羊の誘導などの比喩を用いて、適切な指導の大切さを表現しようとしていたのか、文化的な制約も考慮に入れて慎重に解釈する必要がある。特に文化的制約として、聖書が編纂された時代には、子どもの権利擁護という意識も乏しかったことにも留意しなければならない。

 近年の医学的研究からは、身体的虐待が繰り返された場合、子どもの心身へのダメージが大きく、脳を委縮させるリスクもあることから、損失の方が遥かに大きいことが示唆されている。さらに、学習心理学の観点からも、望ましくない行動に嫌悪刺激を与えるだけでは、望ましい行動の学習につながらず、体罰に依存した子育ては効果の低さの割に損失が大きい。加えて考慮する必要があるのは、体罰が親自身に与える影響である。暴力を受けると、子どもは一時的に静止するため、親は体罰が効果的だと錯覚する。その結果、親は暴力で子どもをコントロールできる学習し、子どもを自分の意のままに操るために暴力に依存するようになる。その結果子ども自身も、人間は他者を暴力で支配する生き物である学習してしまう危険もある。このように、暴力を「しつけ」と称して継続的に用いることは明らかに不適切である。

 聖書に忠実であると自称する団体においては、「世の学問が何と言おうと、私たちは聖書を字義通りに解釈し従う」といって体罰が奨励されることもあるかもしれないが、聖書を字義通り実行するのであれば、例えば団体内で性加害事件を起こした者は殺害されなければならないし、不倫した者についても、不倫相手と共に殺害されなければならない。こういった聖句については実行に移さず、子どもに暴力を振るうことにばかり力を入れているのは、初めから聖書を字義通りになど解釈しておらず、団体内の強者に有利な解釈をしているにすぎないと言える。

 以上のことから、聖書が身体的虐待を奨励していると解釈するのは、児童を虐待したいと考える大人の恣意が働いたものであり、これらの箇所は比喩的表現として解釈するのが妥当と考えられる。

 次に、身体的虐待を伴わなくとも、他の伝統的な団体を含め、キリスト教内では親が子を支配下におき、信仰を強要したり子の生活に過度に干渉したりする問題が見られる。これに関しては、権威主義的な組織構造を持つ団体に多く見られるが、聖書の恣意的な運用が関連していると考えられる。その時に頻繁に持ち出されるのは、出エジプト記20章12節における「あなたの父とあなたの母を敬いなさい。あなたの神である主があなたに与えたあなたの日々が長くなるためである」という記述である。この聖句から「尊敬できないような親も敬いなさい」と語りながらも、子を虐待から護ろうとせず、被害者にばかり赦しを要求する教職者も見られる。このような、教職者による不適切な教説の仕方は、親による暴力や支配を正当化し、時には強化してしまう。この聖句においても、解釈には慎重さが求められる。この箇所で虐待的な親が想定に含められていたかどうかは定かではない。

 さらに、子育てを語るならば、エフェソの信徒への手紙6章4節の「そして父親たちよ、あなた方の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって彼らを育てなさい」にも注意を払わねばならない。パウロは、親たちに子どもへの配慮の必要性を説いている。さらにこの箇所の文脈としては、5章後半から6章にかけては、妻に語りかけ、夫に語り掛け、子に語りかけ、親に語り掛け、奴隷に語り掛け、奴隷の主人に語り掛けるという文章構成になっている。当時のギリシア・ローマ世界においては、男性が夫として妻を支配し、父として子を支配し、主人として奴隷を支配するという、男性による支配構造が普及していた。つまりパウロは、当時支配される立場にあった人々に先に語り掛けている。これは、支配される立場にあった人々に、先に直接語り掛けることで、支配されていた人々を、より対等な立場に引き上げているとも考えられる。よって、これらの箇所は、属性や身分を越えて尊重し合うことの大切さを語った箇所であるとも解釈できる。ゆえに、聖書は親が子どもを一方的に支配することを説いているのではなく、むしろ尊重し合う関係性を理想としていると考えられる。もしも、互いに尊重し合うことを語らず、子どもにばかり暴力的な親も敬えと教える者がいれば、その者は強者に偏った聖書解釈を教えていることになると言えよう。

 以上のことから、教職者が一部の聖句を持ち出して、子どもにばかり親を敬えと教えるのは不適切である。むしろ、教職者は親に対し子どもを尊重するよう呼び掛けるべきであり、子どもは尊厳を持って扱われなければならない。
大人は子どもに対して一方的に自分の考えを押し付けたり、自分の考える愛情を一方通行で押し付けたりするのではなく、何が子を尊重することになるか、子と向き合いながら考えなければならない。