大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年12月3日 礼拝説教 『その名はインマヌエル』

 今週からアドベントという、クリスマスを待ち望む時期に入りました。

 なので、キリストの降誕を思い起こす聖句でお話をしていきたいと思います。

 それではマタイによる福音書1章18節~23節をお読みいたします。

 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。

(口語訳聖書)

 『その名はインマヌエル』と題してお話しさせていただきます。

 今回の聖句は、イエスさまの誕生前のお話で、イエスさまの母親であるマリアが聖霊さまによって身ごもるという不思議な物語です。

 古代の世界では、偉人の誕生に関して神秘的な伝承が語られるというのはよくある話で、たとえば、インドで仏教を開いた釈迦ですと、白い像が胎内に入る夢を母親が見たという言い伝えもあれば、母親の右脇から生まれて来たという言い伝えもあります。さらには聖徳太子も、母親が観音を飲む夢を見たという言い伝えがあります。

 このように、世界各地に不思議な伝承があるわけですが、イエスさまの場合は、聖霊によって身ごもったと聖書に記されています。聖霊さまというのは、神さまの霊です。キリスト教では伝統的に三位一体という考えがあり、天地を造られた神さまとイエスさまと聖霊さまを、それぞれ人格を持った存在と信じつつ、1つの神として崇拝しています。

 ですが、このことがある問題を引き起こします。マリアとヨセフは婚約していましたが、まだ一緒に住む前に、マリアが身重になってしまいました。

 ヨセフはマリアが浮気したと思ったのかもしれません。自体を公にしてマリアを告発するようなことはせず、マリアから離れようと考えます。

 しかし、天使がヨセフの夢に現れます。古代の日本においても、夢は神や仏が見せるものと信じられていましたが、聖書でも同じように、神さまが夢を通して人に語られることがあります。夢に出て来た天使はヨセフに言います。
ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」

 聖霊さまによって人が生まれるということ自体がすでに大事なのですが、さらに壮大な話になっています。生まれて来た子が、自分の民をもろもろの罪から救う者となるというのです。

 ここで罪という言葉が登場します。聖書における「罪」というのは、神道における「罪」と共通している部分もあるのですが、それに加えて、人間を騙し善悪の判断を狂わせて、人間を悪い行動へ駆り立てるキャラクターのような存在としても描かれています。ですので、キリスト教といえば「人間は皆罪人」と教えているというイメージが強いかもしれませんが、聖書のおける「罪」というのは、人間に備わっている性質というよりは、人間に災いをもたらす存在として描かれています。つまり聖書では、イエスさまは人々に災いをもたらす「罪」という存在から人々を救うために、聖霊さまによって生まれた、神さまの子と伝えられているということになります。

 そして、これらの出来事はイザヤ書を通して神さまが語られた「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」という言葉の成就だったのだと締めくくられています。

 これに対して天使の言葉は、少し直訳寄りの訳をすると「しかし、彼女は男の子を生むであろう。そして、その名をイエスとあなたは呼ぶであろう」となります。イザヤ書の言葉とすごく似ています。

 物語の展開も天使の言葉も、旧約の預言を意識した構成になっています。

 この箇所を書いた人は、イエスさまこそが旧約聖書で予告された救い主であり、人々を苦しめる罪の力から人々を救う存在なのだとたくさんの人々に伝えたかったのだと思います。だからこそ、旧約聖書を引用しながら、一つ一つの言葉を慎重に紡いで、この箇所を書いたのだと思います。

 イエスさまは神の子ですが、人間の世界を天から見下ろすのではなく、人々の間で、人としてお生まれになりました。三位一体の伝統では、父なる神さまとイエスさまと聖霊さまで1つの神となりますから、聖書の神さまは、人々の間に坐す(います)神さま、人と人との間に神留る(かむづまる)方だということになります。

 そして、その神さまが、人々を諸々の罪から救い出すために、人として世にお生まれになったのでした。

 神さまは人々の間で生きられ、人々と共に悲しまれ、人々とともに傷つかれました。そして、人々を罪から救うために人として生まれた神の子を、人々は罪人として裁いて殺してしまいました。それでも、そうなることを知っていても、イエスさまは人々を救うためにお生まれになったのです。

 私たちが悲しみに暮れる時も、私たちが絶望に打ちひしがれる時も、そして私たちが怒りに打ち震える時も、神さまは共に苦しんでくださいます。

 今回の聖書箇所で引用されている旧約の預言では、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」というフレーズがあります。インマヌエルという言葉はヘブライ語で、その意味は「神は我等と共に」という意味です。その言葉に、神がどのようなお方であるかが既に示されているのです。

 神が私たちと共にいてくださる方であるということを思い巡らせ、アドベントの時を過ごしていきたいと思います。