大和寝倒れ随想録

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教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)4

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女性への暴力について

 1000年以上の歴史を持つ伝統的な団体から19世紀のアメリカで生まれた新興勢力まで、様々なキリスト教系団体において、女性への性加害が深刻な問題となっている。多くの場合、加害者は聖職者、教職者など指導的な立場にある男性である。本来、組織内で犯罪が発生した場合、被害者の安全を最優先し、加害者を司法に引き渡さなければならない。しかし、多くの組織では加害者ばかりが守られ、被害者が放置されたり、団体の関係者から二次被害を受けたりするという最悪の事態が繰り返されている。こういった加害行為は、特に権威主義的な団体が温床となっているが、それは上下関係が明確であるほうが加害者にとって都合が良いからであると思われる。また、男尊女卑的な文化によって男性と女性の間に暗黙の上下関係が規定されていることも、重大なリスク要因の1つになっていると思われる。

 キリスト教内での男尊女卑については、文化的な影響も考慮に入れて反省する必要がある。旧約聖書は古代中近東の文化的土壌の元で生まれ、新約聖書は1世紀のユダヤ文化とギリシア・ローマ文化の影響で書かれた。元々これらの文化に男尊女卑的な要素が含まれているため、聖書を解釈する際には、文化的な制約や社会状況にも留意する必要がある。これを怠ると、聖書の宗教的な教えでなく、聖書が書かれた時代の世俗的な文化を神格化することになりかねない。そして、こういった聖書解釈の仕方が、男尊女卑的な教会形成を助長することに繋がる。

 キリスト教内における男尊女卑的な文化を形成する原因としては、パウロ書簡の解釈が上げられる。パウロ書簡は、パウロから各地の教会に向けて発出された文書と言われているが、エフェソの信徒への手紙以外は、特定の教会の特定の状況に当てて書かれたものとされている。エフェソの信徒への手紙のみについては、同じ内容の手紙が複数の教会で回覧されていた可能性が指摘されており、他の書簡とは異なる。以上のことから、パウロ書簡を解釈する上では、当時の文化的背景に注意を払う必要が生じるのに加え、エフェソの信徒への手紙以外については、その教会が置かれた状況にも注意を払う必要が生じる。さらに、古代地中海世界の文化自体が男尊女卑的であり、キリスト教以前のギリシア思想家も女性を男性より劣った存在であると見なしていたことに注意を払う必要がある。加えて、ローマ帝国の家父長制により、父親が家を支配するという社会体制が成立していたことも考慮に入れねばならない。家父長制においては、家長が夫として妻を支配し、父親として子どもを支配し、主人として家の奴隷を支配するという体制が取られていたとされている。パウロ書簡は、これらを考慮に入れて慎重に解釈する必要がある。

 パウロ書簡において、男尊女卑的に解釈される箇所として主に挙げられるのは、頭のかぶりものに関する議論、女性が教えることを禁じることに関する議論、そして夫婦関係に関する議論である。

 まず、頭のかぶりものに関する議論では、コリントの信徒への手紙一11章2節から16節には以下の記述が見られる。

「そして私はあなた方を誉めます、同胞たちよ。すなわち、私のすべてのことをあなた方が覚えており、私があなた方に伝えたように言い伝えをあなた方が守っていることを。しかし、私はあなた方に知ってほしいのです。すなわち、すべての男の頭はキリストであって、女の頭は男であり、キリストの頭は神であるということを。祈ったり預言したりして頭に(被り物を?)持っているすべての男は、自身の頭を辱めています。しかし、祈ったり預言したりして頭に被り物をしていないすべての女は、自身の頭を辱めています。頭を剃っているのと同じだからです。女が被り物をしないなら、髪を切ってしまいなさい。しかし、切ったり剃ったりすることが女にとって恥ずかしいのであれば、被り物をしなさい。男は実に神の像であり栄光であるため、男は頭を覆うべきではありません。しかし女は男の栄光なのです。なぜなら、男が女から(出たの)ではなく、女が男から(出たの)だからです。そして、女のゆえに(または「女を介して」?)男が造られたのではなく、男のゆえに(または「男を介して」?)女が造られたからです。このため、女は天使のゆえに頭に権威を持つべきです。とは言っても、主にあって、女なしでの男でもなく、男なしの女でもありません。女が男から(出たの)であるように、男も女から(出たの)だからです。しかし、全ては神から(出たの)です。あなた方自身で判断しなさい。被り物をしていない女が神に祈るのは相応しい(または「魅力的」?)でしょうか。自然自身があなた方に教えていないでしょうか。すなわち、もし男が長い髪を持っていたら、それは彼に恥となるが、女が長い髪を持っていたら、それは彼女に栄光となることを。すなわち、長い髪は被り物の代わりに彼女に与えられているからです。しかし、もしある人が論争的であるように見えても、私達はそのような習慣を持っていませんし、神の諸教会も(そのような習慣を持っていないの)です」

 この箇所を根拠に、一部の教会では「女の頭は男であるから、男が主導し女は男に従うべきだ」と捉えられてきた。この箇所については、「女の頭は男」という側面が強調されがちであるが、本来の文脈は、教会で女性が被り物をするべきかどうかについての議論である。この箇所における「男の頭はキリストであり、女の頭は男である」という説明も、女性に対して被り物をするよう説得するために用いられているのか、パウロ自身が普段からそのように考えているのか慎重に考えねばならない。さらに、「女の頭は男である」というフレーズがパウロ自身の価値観を反映していたとしても、頭をどのような意味で解釈するかによって、教会文化の形成も異なったものとなる。

 頭の意味については、専門家の間で議論があり、頭が権威を意味しているとする解釈のみならず、ギリシア語では頭という単語は権威を指さず、字義通りの頭か、高い場所か、あるいは源を指すとの指摘もある。そこから、ここでの「頭」はエデンの園の物語を意識し、人(アダム)から女(イッシャー、後のエバ)が造られたことを引き合いに出し、「女の源は男である」と述べているという解釈もある。そのように解釈すると、「そして、女のゆえに(または「女を介して」?)男が造られたのではなく、男のゆえに(または「男を介して」?)女が造られたからです」についても、人(アダム)の一部から女(イッシャー、後のエバ)が造られたというエデンの園の物語とリンクさせて書かれたものと考えることができる。この箇所については、女は男の利益のために造られたというニュアンスで理解されることもあるが、エデンの園の物語とリンクさせていると考えると、異なるニュアンスでの解釈も可能となる。

 その後に続く箇所でパウロは、女なしに男は存在し得ず、男なしにも女は存在し得ないと述べ、その上で、すべては神から出たのだと結論付け、男女の関係性について均衡を保とうとしているように見える。このような表現を敢えて加えていることから、パウロはこの議論が男女の上下関係を規定するものとして用いられることを防ごうとしていた可能性があると考えられる。

 この箇所は女性の頭の被り物について論じているが、パウロはコリントの文化に寄せて論を展開していると考えられる。なぜなら、男性が祈ったり預言したりする時に被り物をしているのは恥であるとしているが、ユダヤ人の男性は礼拝の際に被り物をしているからである。この箇所があらゆる時代のあらゆる文化に向けて書かれたものであれば、ユダヤ人男性は礼拝の度に恥をかいていることになってしまう。女性については、当時のギリシアにおいても被り物をするのが一般的であったと言われている。さらに、当時の文化では、女性の髪が性的な関心の対象とされていたとの指摘もある。その中で、ローマ帝国の上流階級の女性の間では、髪を露わにしたファッションを好む者もいたと言われている。  

 よって、パウロが述べた被り物に関する議論は、当時のコリントの文化から考えて望ましい服装で礼拝に出席するよう促すものであったと考えられる。男性にとっては長い髪が恥であり、女性にとっては長い髪が誉れであることを自然が教えているという箇所についても、当時の文化の影響が伺える。なぜなら、古代地中海世界においては、社会通念上一般的とされた物事を「自然の摂理」として語る論法が普及していたと言われているからである。したがって、パウロが「自然」と述べているのは、パウロが語り掛けた当時のコリントの社会通念を念頭に置いた話であると考えられる。

 以上のことから、コリントの信徒への手紙第一における「女の頭は男である」とする記述は、コリントの教会における服装の風紀に関して、エデンの園の物語を引用しながら女性を説得するためのものであり、男女間の上下関係や役割分担を規定したものではないと考えられる。そして、この箇所を男女間の上下関係や役割分担を規定するものと解釈した場合、男性が主導し女性が補助するという意識に囚われてしまいやすく、組織内の男尊女卑的な文化の形成に繋がるリスクがあると考えられる。また、この聖句は男尊女卑的な文化の影響下で書かれたものであると考えられるが、「女なしに男は存在し得ず、男なしにも女は存在し得ない」という記述から、文化的な制約を受けつつもパウロは男尊女卑的な価値観を克服しようとしていると考えられる。

 次に、女性が教えることを禁じることに関する議論では、テモテへの手紙第一2章8~15節とコリントの信徒への手紙第一14章34~35節が引用される。

 まず、テモテへの手紙第一2章8~15節においては、以下の通り述べられている。

「それゆえ私は望みます。男たちがどこでも聖なる手を挙げて、怒りと争いなしに祈ることを。同様に女たちもまた、落ち着いた服を着て、敬意(つつましさ?)と自制(正気さ?)で自身を飾りなさい。編んだ髪や、金や、真珠や、高価な服(を着るの)でなく。むしろ、良い行いを通して(身を飾ること)が、神への崇拝を公言する女にふさわしいのです。女性は静かにあらゆる従順さにあって学ぶべきです。しかし教えることを私は女に許しません。男を支配することも(許しません)。むしろ静けさにあることを(許します)。なぜなら、アダムが最初に形づくられ、その次にエバだからです。そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました。しかし、自制して(正気であって?)信仰と愛と聖性に留まるならば、子の誕生(出産?)によって救われます」

 この書簡は教会の指導に当たっているテモテに向けて書かれたものであり、パウロとテモテが共有していた文脈、つまり当時の社会通念やテモテが指導していた教会の状況が前提となっていたことに留意する必要がある。

 古代の地中海世界において、女性は男性より劣った存在と見なされており、ギリシア思想家もギリシア語で著作を遺したユダヤ人も、男尊女卑的な価値観を持っていた。さらに、女性は教育を受ける機会が男性よりも少なく、教育水準についても大きな格差があったと言われている。その一方で、稀に教師として活躍する女性が、ギリシアにもユダヤにもいたと言われている。よって、パウロはここで男尊女卑的な当時の社会通念に迎合する形で女性が教えていることを禁じている可能性もあるが、ここでの問題は性別でなく教育水準であった可能性もある。その後パウロはアダムとエバの物語を引用して女性が男性に教えることは相応しくないと語っているが、この引用がad hocな引用(特定の目的のための引用)である可能性がある。ここでパウロは「そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました」と語っているが、これが普遍的な女性に向けられたものなのであれば、パウロは「女性は男性よりも悪しき存在に騙されやすいため、女性が教えるのは相応しくない」と考えていることになり、パウロの書簡を聖典に含めるキリスト教会も「女性は判断力において男性よりも劣っている」と見做していることになる。その場合、全てのキリスト者は「女性蔑視論者」の誹りを免れない。しかし、この箇所を当時の社会状況を考慮に入れて解釈するなら、異なる解釈が可能となる。当時ほとんどの女性は男性と同等な教育を受けられない状況にあった。さらに、テモテに宛てられたもう1つの手紙では、パウロたちと敵対する宗教家が女性を標的にしていたことが語られている。テモテへの手紙第二3章6節では「なぜなら、彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女性を虜にしているからです。彼女らは罪を重ねてしまい、様々な欲情に駆られ」と述べられている。男尊女卑的な社会の中で男女の教育格差があったことを考えると、ここでパウロが批判していた宗教家は、女性が十分な教育を受けられていないことにつけ込み、女性を標的にしていた可能性もある。教育格差という点から解釈し直すと、アダムとエバの物語の引用についても、単に生まれ持った性別の話をしているのではなく、男性は教育を受けられている一方で、女性は十分な教育を与えられていないことを念頭に「そしてアダムは欺かれませんでした。しかし女は欺かれ、逸脱してしまいました」と語っていたと考えることができる。そして、悪しき存在に騙された人が他の人を悪へ誘ってしまうという意味合いでアダムとエバの物語が引用されているのであれば、ここでのパウロが語ることを現代社会の状況で解釈し直すと、女性が教えることを禁じているというよりは、十分な訓練を受けた者にのみ教えることを許すということになる。また、女性について「学ぶべき」とパウロが述べているということは、女性にほとんど教育が与えられなかった社会の中では異例のことであったかもしれないし、女性が十分な教育を受けられた後には、女性が教職者になることも承認するつもりだったのかもしれない。

 そのように考えると、現代のキリスト者がこの箇所から学ぶべきことは、女性が教職者になることを禁じることではなく、生半可な知識に基づいて「聖書が体罰を推奨している」とか、「輸血を禁じている」などと断言したり、科学的なリテラシーを持たず、「精神疾患は信仰のなさの表れ」だとか、「同性愛や性別違和はすべて育った環境が原因だ」などと断言したりするような人々が教えることを禁じることなのかもしれない。なぜなら、「ヘビ」に欺かれて逸脱してしまった人間が他の人間に教えるなら、その人間も欺かれて逸脱してしまうからである。

 パウロがアダムとエバの物語の文脈の中で語った「しかし、自制して(正気であって?)信仰と愛と聖性に留まるならば、子の誕生(出産)によって救われます」は、女性は子を産み育てるというジェンダーロールに専念せよと言っているようにも見えるし、後の箇所では、若いやもめは再婚して子どもを産むのが良いとも述べており、パウロが当時のジェンダーロールに追従して語っていた可能性も考えられる。そして、聖書の中では不妊の女性が神の介入によって懐妊したエピソードが語られており、その文脈に寄せてパウロが語っている可能性も考えられる。しかし、アダムとエバの物語の中で、神はエバの子孫から蛇を倒す者が生まれると予告しており、福音書では救い主が生まれることを告知されたマリアが神に従順であった物語が描かれている。さらに、パウロがローマの信徒への手紙で「~によって救われます(未来形)」というフレーズを用いる時、「彼を通して私たちは怒りから救われます(5章9節)」「…私達は彼の命によって救われます(5章10節)」のように、キリストによる救いを描写している。ゆえに、テモテへの手紙第一における「子の誕生(出産)によって救われます」というフレーズも、エバ(女)の子孫であるマリアから全人類を救うキリストが生まれたことについて言及している可能性もあるのではなかろうか。ただし、現時点では想像の域を脱しない。

 以上のことから、テモテへの手紙第一2章8~15節は本来性別が問題なのではなく、女性が教育を受けられないという差別的な社会構造の中で生じた問題であると考えられる。そして、当時は女性が教育を受けることを期待されていなかったと考えると、女性に「学びなさい」と促したパウロは、文化的な制約を受けつつも、その先を行こうとしていたとも考えられる。

 コリントの信徒への手紙第一14章34~35節においては、以下の記述が見られる。

「あなた方の女(妻?)は、教会では沈黙しなければなりません。なぜなら、彼女らには話すことではなく、むしろ、従うことが許されているからです。律法(法)が語るように。しかし、何か学びたいのであれば、家で自身の夫に尋ねるべきです。なぜなら、女にとって教会で話すことは恥だからです」

 この箇所を根拠に、女性に対して徹底的に沈黙するよう教える教会もある。この箇所については、パウロの手によるものではなく、後の時代に挿入されたものと考える専門家も多い。ただし、この箇所がパウロの手によるものだとしても、女性を完全に沈黙させることが目的であったとは考えにくい。なぜなら、この箇所のよりも前の11章5節では「しかし、祈ったり預言したりして頭に被り物をしていないすべての女は、自身の頭を辱めています。頭を剃っているのと同じだからです」と述べているからである。パウロはコリントの教会の女性に対し、祈ったり預言したりすることは認めていたし、それ自体が恥とはしていなかった。それでは、なぜパウロはこの箇所で女性に沈黙を要求したのだろうか。学びたいことがあれば家で夫に尋ねるべきだと述べていることから、話に割り込んで質問をし、礼拝の秩序を乱してしまう女性がいたのではないかとの説もある。真相は不明であるが、パウロ自身は女性が祈ることと預言することを許容していることから、女性を黙らせることが目的ではなく、コリントの教会における礼拝の進行に何らかの混乱があり、それに対する措置であった可能性が高いと考えられる。

 最後に夫婦関係に関する議論でおもに引用されるのは、エフェソの信徒への手紙5章22~24節であり、この箇所では以下の記述が見られる。

「妻たちよ、主へのように、自身の夫に従いなさい。なぜなら、キリストも教会の頭であり、彼が身体の救い主であるように、男(夫)が女(妻)の頭だからです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて自身の夫に(従いなさい)」

 この箇所を根拠に、教会においても家庭においても男性が主導すべきであり、女性は常に男性に従うべきであると主張するキリスト教徒も少なくない。しかし、この箇所についても当時の社会背景を考慮しつつ慎重に解釈するべきである。

 エフェソの信徒への手紙は、パウロ書簡の中で唯一当時の教会へ普遍的に宛てられた文書とされている。よって、パウロの他の書簡に比べて普遍性が高く、教会の運営マニュアルのような側面も持っている。ただし、その場合でもこの書簡が書かれた当時の社会状況を踏まえて考察するならは、異なる解釈が生まれる。

 当時のギリシア・ローマ世界では家父長制が支配的であった。当時の家父長制においては、1人の男性が夫として妻を支配し、父親として子を支配し、主人として奴隷を支配するという秩序の在り方が理想的であるとされていた。エフェソの信徒への手紙における5章22節から24節までのみならず、6章9節までの記述全体が、家父長制を意識して書かれた内容になっている。そこでは、家父長制の文化に合わせ、夫婦関係、親子関係、主人と奴隷の関係について述べられている。しかし、妻への「従いなさい」に対して夫への「愛しなさい」、子への「従いなさい」に対して父への「怒らせてはいけません」、奴隷への「仕えなさい」に対して主人への「同じようにしなさい」のように、支配被支配ではなく、尊重し合う関係性が前提となっている。また、ここでは当時の文化において支配される側であった者に対して先に直接語りかけるという形が取られている。パウロが従来の家父長制と全く同じ考えであったなら、支配者である男性に「支配しなさい」と語り掛けるだけで十分であったはずだが、敢えて当時被支配者であった妻、子ども、奴隷に先に語り掛けたのは、当時の価値観では男性の所有物であった彼らを「人間化」する意図があったのかもしれない。さらに、家父長制の話題が始まる直前の5章21節では、「神(へ)の畏れにおいて、互いに従い合いなさい」と記されている。よって、パウロは表面的には当時の家父長制に迎合して、キリスト教徒同士の人間関係について語っているように見えるが、パウロの目指す対人関係は互いに従い合い尊重し合う関係性にあり、本質においては当時の家父長制と異なっていると思われる。

 以上のことから、コリントの信徒への手紙第一14章34~35節は、互いに従い合い尊重することが主題であり、当時の家父長制的な文化の下で書かれているものの、家父長制における男性支配を覆し、より対等な対人関係の在り方を提示していたと考えられる。

 聖書において男尊女卑に悪用される聖書箇所を考察したところ、これらの箇所が男尊女卑的な文化の制約下にあったことは否めない。初期のキリスト教会が目指していたのは、文化的な制約の一歩先を行く、より対等な関係性であったと考えられる。よって、これらの聖書箇所は、現代のキリスト教徒もまた文化的な制約の一歩先を目指すべきことを示唆しているとも考えられる。少なくとも、これらの箇所を女性支配のために悪用したり、家父長制や亭主関白などの「保守的な価値観」を神格化するために利用したりするのは不適切である。