大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年11月12日 礼拝説教 『玄関のラザロ』

 ルカによる福音書16章19節から31節をお読みいたします。

 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセ預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセ預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

(口語訳聖書)

 それでは、『玄関のラザロ』と題してお話させていただきます。

 このお話、「金持ちとラザロ」と呼ばれる、キリスト教の中では有名な例え話です。

「地獄の話?」とドキッとされる方もおられるかもしれません。

 元々旧約聖書は死後の世界への関心が薄かったのですが、イエスさまが活動された1世紀頃になると、生前の行いによって死後行く世界が変わるという考えが普及していたようです。イエスさまはその文化に合わせて語られているようです。そしてこの例え話は、お金に執着する人々に対して語られたお話です。ですから、死後の世界のお話をしたいわけではなく、死後の世界という題材を使って、お金に執着する人を戒めたという点が重要です。

 この例え話の主な登場人物は、金持ちとラザロとアブラハムです。ラザロはエルアザルというヘブライ語の名前をギリシア語に変形させたものだそうですが、「神は救い」という意味だそうです。しかし、金持ちには名前がありません。金持ちは贅沢に暮らしますが、ラザロは金持ちの玄関の前で飢えています。時が経ち、2人とも亡くなりますが、ラザロは天使に連れられアブラハムの元へ、金持ちは黄泉で苦しめられることになります。

 キリスト教の中には「この例え話は、死んでしまった後に悔い改めても手遅れだということを表現している」と言う人もいますが、私にはそうは思えません。

 果たして、金持ちは悔い改めているのでしょうか。

 金持ちは言います。

「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」

 アブラハムから、大きな淵があって行き来できないと聞かされると、金持ちは言います。

「父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください」

 金持ちは生前の行いを後悔し、自分が助からないと知ると、兄弟を助けようとします。

 しかし、金持ちは悔い改めていると言えるでしょうか。

 2度の発言で、金持ちはラザロを使おうとしています。アブラハムに語り掛けていますが、2つの要求はラザロに対する者です。「ラザロを遣わしてください」

 この金持ち、火炎の中で苦しんでいる間も、ラザロを下に見ていたのではないでしょうか。

 ラザロが顔なじみで頼みやすいからといった理由で、ラザロを遣わしてくれと頼んだわけではないと思います。金持ちは生前贅沢に暮らし、玄関の前でおこぼれに与ろうとするラザロには目もくれませんでした。そのラザロがアブラハムと一緒にいたのを見ても、心のどこかでラザロを見下していたのではないでしょうか。そしてその傲慢さの故に、金持ちは黄泉に降ることになったのかもしれません。

 金持ちは贅沢に暮らしていました。それでいて、ラザロの存在を認識していました。ラザロを自分と対等な人間だと思っていたなら、玄関にいたラザロにもっと関心を示したのではないでしょうか。ラザロの苦しみを我が事のように感じていたなら、何とか力になれないかと考えてのではないでしょうか。金持ちにとってラザロは、遠くの町の顔も知れない人ではありませんでした。自分の家の玄関にいた、顔も名前も知っている人でした。日々贅沢に暮らしつつラザロを放置していたのであれば、金持ちはラザロを非人間化していたのかもしれません。

 金持ちは一見大きな悪事を働いてはいません。人を殺したという話も出てきませんし、誰かを搾取して富を築いたという話も出てきません。ですが金持ちは、贅沢な暮らしを享受しながらも、ラザロの苦しみを放置していました。目の前で苦しむ人を非人間化していたのでした。一見悪いことはしていないように見えても、「我がさえ良ければ」という考えが、金持ちの魂を蝕んでいたのかもしれません。そして「我がさえ良ければ」という思いが、金持ちを黄泉に降らせたのかもしれません。

 金持ちとラザロの物語の前半部分と似たようなことは、現代の社会でも起きているかもしれません。

「我がさえ良ければ」という思いが、自分さえ幸せに過ごせたら、他人はどうなっても良いという空気感をつくります。そしてその空気感が、自分の幸せだけを追い求め、他者の苦しみには冷淡な社会をつくります。そのような社会になった結果、ラザロが玄関で苦しむのを横目に、金持ちが贅沢な暮らしを享受する世界が出来上がってしまったのかもしれません。そういった世界の中で、しわ寄せがラザロのような弱い立場の人々に向かいます。この世界では、私たちの誰もが金持ちのようになることがあるかもしれませんし、逆にラザロのようになることもあるかもしれません。この例え話は、そういった世界の縮図なのかもしれません。

 しかし、神は弱き者の側に立たれます。この世界での構図を、いつか神は真っ逆さまにひっくり返されます。その時、金持ちがラザロに与えた苦しみは、何らかの形で、火炎のような苦しみとなり金持ちに跳ね返ります。そこに宗教を信じたかどうかは関係ありません。

 ですが神さまの理想は、全ての人が癒されることです。ですから、私たちキリスト教徒は、玄関のラザロが助かるような共同体をつくっていく者になりたいと思います。