大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年11月19日 礼拝説教 『あなたがたのただ中に』

 ルカによる福音書17章20節と21節をお読みいたします。

 

 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

(口語訳聖書)

 

 それでは、『あなたがたのただ中に』と題してお話させていただきます。
 

 この箇所では、「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人が尋ねて来ます。

 ファリサイ派の人は、新約聖書の中では悪役として描かれることが多いのですが、実際にファリサイ派の人々が残した文書には、イエスさまの考えと似たことが書いてあるそうです。なので、新約聖書に登場するファリサイ派への攻撃は、キリスト教が成立した後のユダヤ教キリスト教の衝突を反映したものか、もしくはファリサイ派の中にいる過激な人たちへの批判なのではないかとも言われています。さらには、ファリサイ派の人々がイエスさまに議論を仕掛けていたのも、イエスさまのことを自分達の仲間だと思っていたからなのではないかと考える人もいます。

 そんなファリサイ派の人から投げかけられた問い、「神の国はいつ来るのか」という問いですが、これは当時からよく議論していた話題だそうです。現代のキリスト教にも、「神の国はいつ来るのか」ということに関心を持つ人はいますし、自己流で「もうすぐ神の国が来る」とか「この地域で戦争が起きたら、神の国が来る前兆だ」とか、いろいろなことを言う人がいます。それにしても、神の国とは一体何なのでしょうか。ファリサイ派の問いに、イエスさまは答えられます。

神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」

 どうも神の国というのは、目に見える形で来るものではないようです。さらに、どこにあると言えるものでもないようです。神の国というと、雲の上のような世界や、光り輝く世界みたいなものを思い浮かべたくなりますが、そういうものでもないようです。そしてイエスさまは続けられます。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」

 そのようにイエスさまはファリサイ派の人々に答えられたのでした。

神の国はいつ来るのか」と尋ねるファリサイ派の人々に対して、イエスさまは「あなたがたのただ中にあるのだ」と答えられたのです。

 神の国というと、「いつか来るもの」というイメージが持たれがちなように思います。当時でも現代でも「神の国がいつ来るのか」あるいは「終末がいつ来るのか」といった議論をする人はたくさんいます。まるで遠い将来に来る、自分とは全く関係ないものであるかのようなイメージが持たれがちなように思います。または、神の国さえ来れば、あらゆる問題が解決されるような万能薬のようなものだと考える人もいるかもしれません。しかし、神の国は私たちのただ中にあるものだそうです。

 もしも、神の国が遠い未来に来る、私たちと全く関係ないものなのであれば、それは虚しい希望となってしまいます。今をどれだけ必死に生きても、神の国を見ることはありません。すると、神の国は単なる伝説上の存在として終わってしまいます。一方、神の国が来さえすればあらゆる問題が解決されるという考え方もあります。もちろんそういった希望は大切です。人間の力ではどうにもならない苦しみに直面した時、人知を超えた力が自分を救ってくれると信じられることは、大きな慰めになります。ですが、神の国を期待するあまり、今を生きることを完全に放棄してしまうのは、とてももったいないことだと思います。実際に、楽園の希望があるから、天国の望みがあるからと言って、今ある命や生活を粗末に扱うよう教える宗教団体もあります。しかしそれは、生きていると言えるのでしょうか。私にはそうは思えません。

 もちろん死後の希望も大切ですし、キリスト教は死者の復活を信じる宗教ですが、「今、ここ」における命と生活を忘れてはいけないと思います。

 神の国とは何でしょうか。ただ死んだ後に行くだけの世界なのでしょうか。そんなことはないと思います。イエスさまは、神の国は私たちのただ中にあるのだと言われます。神の国は、「今、ここ」にある生きたものなのです。それは生ける者の営みです。「今、ここ」における神の国は、神は目指した理想の片鱗です。神が目指した理想とは、人が神の像として世界の調和を守るという在り方です。ですから、人が愛し合い、尊重し合う、そういった関係性の内に、神の国の命、神の息吹が宿ります。神の息吹がそこに宿る時、「今、ここ」において、世界を生きやすい場に変えていく働きが起こります。傷んだ世界を修復しようとする神の働きに呼応して、人間の働きが合わさるのです。そこにこそ、神の国があるのだと思います。

 聖書は世の終わりにおける希望も語ります。それは、神さまが世界を完全に修復された時です。その時、今までに亡くなった人も復活するのだと、キリスト教の伝統では信じられています。

 しかし、それまでの間、今生きている私たちが、神さまからの働きかけにどのように応えるかが、問われているのだと思います。

 もしかしたら、「目に見える神の国」にこだわっている内は、「神の国」は来ないのかもしれません。私たちは、神さまが超自然的な力で世界をひっくり返すことを期待する前に、日々の生き方の中に神の国を招くことを期待されているのかもしれません。

 今のこの世界は大変傷んでおり、まだ神の国は完成からほど遠い状態にあると言えるでしょう。しかし、そこに向かって進み続けることこそが、今を生きる私たちの使命なのだと思います。

「今、ここ」に、私たちのただ中にある神の国を信じて、歩んでいきたいと思います。

 イエスさまは言われます。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」