大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年11月5日 礼拝説教 『一匹を捜し歩いて』

 ルカによる福音書15章1節から7節をお読みいたします。

 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

(口語訳聖書)

 それでは、『一匹を捜し歩いて』と題してお話させていただきます。

 取税人や罪人たちが、イエスさまの話を聞くために集まっていました。取税人というのは、ローマ帝国のために税金を集める人のことです。当時ユダヤの人々はローマ帝国に支配されており、ローマ帝国ユダヤ人の中から取税人を選んで、その取税人に税金を集めさせるという形で、属国を統治していました。なので、取税人は民族の裏切り者として嫌われることになりますし、当時のユダヤ教では異邦人と接すると穢れると信じられていたようで、ユダヤ社会の中では二重の意味で嫌われ者となっていました。罪人というのは、当時のユダヤ社会の中で宗教的な戒律を守れなかった人で、そういった人も忌み嫌われていたようです。現代のキリスト教系団体でも、組織が決めた戒律を守れなければ仲間外れにするなんてことをしている所もあります。

 しかし、イエスさまは、そういった社会から疎外された人々を受け入れていました。そして、取税人や罪人たちは、イエスさまの話を聞くために集まっていました。裏切り者や罪人のレッテルを貼られた人々が、イエスさまの教えに耳を傾けるために集まっていたのでした。

 ですが、ファリサイ人や律法学者たちが不満を言います。ファリサイ人は、宗教的な戒律を守ろうと呼びかけ、民衆の中で活動していた人々で、後のユダヤ教の基礎を築いた人々です。律法学者は聖書の研究をしている専門家です。つまり、彼ら宗教的なエリートです。そんな彼らが、イエスさまに、罪人たちと一緒に食事をしているなんて、不満を言うわけです。当時のユダヤ教では、罪人を関わってはいけないとされていたようで、彼らとしては宗教的な教えを忠実に守っているつもりなのでしょう。当時の文化で共に食事をするというのは、現代の日本以上に親密な関わりとされていたので、イエスさまがいかに罪人とされた人々と親しく接していたかが分かります。

 イエスさまは、宗教エリートへのアンサーとして、たとえ話をされます。

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」

 失われた1人を探し求めて、どこまでも、どこまでも、歩いて行く。そんな神の姿が語られます。

 そして失われた1人を見つけた時の様子を、イエスさまは語られます。

「そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」

 見つけた羊を肩に載せて大事に連れて帰り、人々を集め、「一緒に喜んでください」と言う。

 そして、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある。たった1人の人を見つけ出して、「一緒に喜んでください」と言う、神さまはそんな方なのだと、神の国はそんな所なのだと、イエスさまは言われます。

 この例え話、キリスト教では「百匹の羊の喩え」と呼ばれる有名なお話です。神の愛の深さを表現したお話として、キリスト教では大変好まれています。私もこの例え話が大好きです。人間が神に背いても、どこまでも追いかけていく神の姿が心に響きます。

 しかし視点を変えると、この例え話の美しさが、人間の心の闇を、その醜さを暴いているとも言えるかもしれません。

 この例え話がなされた文脈は、宗教的エリートに対するアンサーです。

 ご自分から離れた人間をどこまでも追いかけて探し回る神。たとえ離れても、その1人を愛して探し歩かれる神。それに対して、宗教の掟に従うかどうか、自分たちの神を信じているかどうかで人を差別し、自分と異なる人々を穢れとして扱う人間。

「一緒に喜んでください」と仲間に呼びかける神の慈悲深さが、神を利用して人を差別する人間こそ、神の仲間でないのだと告発しているのかもしれません。

 人間は弱いもので、何かと自分達の価値観から外れた者を仲間外れにしてしまいます。

 人間は仲間とそうでない者の線引きをして、自分と異質と見做した他の人間を切り捨ててしまうことすらあります。自分達の価値観にそぐわない者に対しては、特に冷淡です。

 しかし、神さまにそんな線引きはありません。神さまはご自分から離れた人すら愛し、どこまでは捜し求めて歩きます。いなくなった1人をどこまでも捜し歩かれる方です。

 そして、いなくなった1人を見つけたとき、神さまは言われます。

「一緒に喜んでください」

 百匹の羊のうちの一匹を捜し歩いていく、羊飼いのような神さまに、私たちもついていきたいと思います。

2023年10月29日 礼拝説教 『自分を低くする者』

ルカによる福音書14章7節から11節をお読みいたします。

 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

(口語訳聖書)

 それでは、『自分を低くする者』と題してお話させていただきます。

 イエスさまは、お客さんが上座を選んでいる様子を見て喩え話を語られます。古代のユダヤ教の教師は、食事の場で講話をすることがしばしばあったそうです。

 イエスさまは語られます。

「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう」

 日本で長年生活している人であれば、上座下座の話は感覚的に分かりやすいかもしれません。宴会の席で、自分で上座を選んだのに下座に誘導されるのは、現代の日本人にとっても、めちゃくちゃ恥ずかしいことです。

 そこでイエスさまは言われます。

「むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう」

 たしかに下座に座っておくのが無難です。上座に座って下座に誘導されるよりは、下座に座って上座に誘導してもらえる方がずっと良いです。

 締めくくりにイエスさまは言われます。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 旧約聖書の中で繰り返されてきたパターンを引用されます。

 聖書の中では、高ぶる者が引きずり降ろされ、低められていた者が高められる場面が、繰り返し描かれ続けています。イエスさまは、宴会の席という生活の場面から、高ぶる者が引きずり降ろされ、低められていた者が高められるという聖書の普遍的なテーマへ話を繋げられたのでした。

 これは、単に自分を低めると高めてもらえるという意味ではないのかもしれません。

 自分で自分を高めるあまり、いつも自分が正しいと思い込むようになった人は、自分の間違いに気づくこともなければ、それを修正することもありません。すると、気づかぬ内に間違いを重ねることになります。さらには、自分で自分を高めるあまり、周りの人への態度も横柄な感じになってしまうかもしれません。それが続くと、周囲の人から嫌がられ、人が離れていくかもしれません。ということは、自分で自分を高めることというのは、その時は気分が良くても、最終的には自分を低めることなのだと思います。

 一方、自分で自分を低める人というのは、自分より正しい存在や自分よりすごい存在があるという意識を持つ謙虚さを指しているのかもしれません。すると、自分の間違いに気づいたり、自分の行動を振り返ったりする習慣が自然とつくかもしれません。それに、謙虚な人というのは接していて気分が良いですし、自然と人当たりが良くなるかもしれません。自分を低めるというのは、結局のところ、自分を高めることになるのではないでしょうか。

 自分を高める者は低められ、自分を低める者は高められる。これは、単なる人生の知恵ではないように思います。

 世の中が自分で上座を選ぶ人ばかりになれば、上座の奪い合いになってしまいます。

 私たちは、自分と他人を比べたがり、自分が相手より大きいように見せたがる人や、誰かをやっつけることで自分の強さや正しさを示そうとする誘惑に襲われます。そういった行動は、宴会の席で上座を奪い合うようなものなのかもしれません。そのように考えると途端に、馬鹿馬鹿しいことのように見えてきます。しかし、こういった馬鹿馬鹿しいことをやってしまうのが、人間の弱さなのかもしれません。

 もっと酷いのは、誰かを一方的に虐げて自分を強く見せようとする人です。これは上座の奪い合いでなく、一方的な暴力であり、許されることではありません。

 上座を奪おうとする世界、誰かをやっつけて自分が高い位置を取ろうとする世界は、争いや一方的な暴力を生みます。上座を奪い合うような宴会は全く楽しくありませんし、そんな場にいたいと思う人はいないでしょう。

 ですから、宴会の場もこの世界も、上座を譲り合うくらいで丁度良いのではないでしょうか。

 互いに上座を譲り合い、座る場所を見つけられない人がいれば上座へ招く、そのような宴会の方が楽しいし、そのような世の中の方が生きていきたいと思えるのだと思います。

 神を信じて生きるのであれば、神が一番上にいると信じて自分の弱さを省み、そんな神が自分や周りの人を造られたことを信じ、互いに尊重し合える。そのような世の中の方が、生きやすいと思います。

 上座を選ぼうとするなら、その瞬間だけは気分が良くても、いつかは恥をかいたり自分を貶めたりすることになります。しかし、下座を選ぶなら、最終的には自分を高めることになります。

 イエスさまは私たちに言われます。

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

2023年10月22日 礼拝説教 『神の国は種のように』

 ルカによる福音書13章19節から21節をお読みいたします。

 そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。また言われた、「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

(口語訳聖書)

 それでは、『神の国は種のように』と題してお話させていただきます。

 今回の箇所、「何にたとえようか」というフレーズが2回使われています。これは、ラビ、つまりユダヤ教の教師が何か例え話をするときの、一般的な導入だそうです。

 たとえ話で使われるのは、からし種、そしてパン種つまりイースト菌です。

 一粒のからし種はとても小さく、家の中で落としてしまうとどこに行ったのか分からなくなってしまいます。しかし、そんなに小さな種でも、地に蒔かれて育つと、いつの間にか鳥が住めるような大きさに成長していきます。

 パン種も、パンを焼く前にパン生地に混ぜて寝かせると、いつの間にかパン生地全体が膨らみ、ふかふかしたパンになります。

 からし種もパン種も、土に入り、パン生地に入り、いつの間にか大きく成長するものです。

 神の国というのは、いつの間にか成長して大きくなるものだそうです。

 もしかしたら、当時のユダヤ人にとって、このイエスさまの例え話は意外なものだったかもしれません。

 当時のユダヤ人の間では、救世主待望論というものがあったようです。というのも、当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていましたが、ローマ帝国を悪の帝国と考え、ローマ帝国を倒してユダヤ人の国家を再建してくれる救世主の登場を望んでいた人が多かったそうです。イエスさまの弟子の中にも、イエスさまを、ローマ帝国を倒す軍事や政治の指導者と考えて、イエスさまに従っていた人も多かったのだと言われています。

 当時のユダヤ人は閉塞感に苦しみ、現状を一発で変えてくれる英雄を求めていたのかもしれません。そんな中イエスさまが語られたこの例え話は、多くの人にとって奇妙なものに感じられたかもしれません。

 現代に目を向けると、現代に生きる私たちは同じことを繰り返しているかもしれません。

 社会不安が高まり閉塞感が増すと、人々は閉塞感を打破してくれる英雄を求めるようになります。そして、難解な物事を単純な言葉で両断し、分かりやすい解決策を与えてくれる、そんな英雄的存在を崇拝するようになります。しかし大抵の場合、そういった人は偽りの英雄に過ぎず、かえって世の中を混沌に突き落とす暴君に過ぎない、そういうことが歴史の中で繰り返されてきました。

 現代のキリスト教でも、特にプロテスタントでは、世の中が荒廃した時に終末、つまり世界の終わりが来て、信心深い者だけが天国に行けるのだと教える人もいます。その中には、社会が荒れれば荒れる程喜ぶ人もいます。一見宗教的に見えるかもしれませんが、災害や戦争が起こる度に「世の終わりが近い」と考える心の在り方は、苦しみの只中にある人々を切り捨て、過酷な現実から目を背ける現実逃避の表れなのかもしれません。

 人間は、世の中がどこへ向かうのか不安になった時、複雑な問題を一発で解決してくれる英雄を期待してしまうことがあります。閉塞感を打ち破ってくれるデウスエクスマキナ、つまりどんな困難も解決してくれる完全な存在を求めてしまうことがあります。

 しかし、イエスさまの語る神の国は、そのようなものではありませんでした。

 イエスさまの語る神の国では、完全無欠の英雄が一瞬で閉塞感を打破するというものではないようです。

 もしかしたらイエスさまは、そのような英雄や単純明快な解決策を期待してはいけないのだと、世の中を変えていくのは、地味で地道な日々の営みの中にあるのだと、伝えたかったのかもしれません。

 キリスト教には、「来る日」や「新天新地」といった概念があり、世界の終わりの時に神さまが世界を新しく作り変え、神さまの造った世界が、その時に本当に完成し、あらゆる問題が解決するという信仰があります。そういった希望も大切だと思います。神さまがこの世界を癒してくださることを、人間だけの力では解決できない問題を解決してくださることを信じることは大切です。ですが、神さまの力を信じるあまり、自分達はただ聖書を読んで祈ってさえいれば、他に何もしなくて良いのだと考えてしまうのは、信心深い態度とは言えないように思います。

 この荒んだ世界の中に、「神も仏もいるものか」と言いたくなるような悲惨な現実の中に、神の国からし種やパン種のように、そっと入り込みます。もしかしたら、種をくださるのは神さまですが、その種を蒔くのは人間の役目なのかもしれません。種を蒔いて水をやったり、パン種を生地に練り込んで寝かせたり、そういった作業は人間が日々の生活の中で担っていくものなのかもしれないと、私は思います。例えば、目の前の人を大切にする、互いに尊重し合う、そういった態度が、目の前にいない人のことも大切にできる文化を形づくるのかもしれません。そして、そういった働きの中で、神さまが働かれるのかもしれません。

 そして蒔かれた種は、私たちが腐りきった現実に絶望している間にも成長し続け、神の国は大きくなっていきます。身近な人のことを大切にする文化が造られれば、目の前にいない、どこか遠い所にいる人のことも大切にできる文化が膨らみ、さらに大きくなると抑圧や搾取に抵抗できる文化が出来上がって行くのかもしれません。すると、不条理な制度やシステムを克服し、人間を大切にする社会が育っていくのかもしれません。人々が神さまと心を合わせ、神さまの働きに応える時にこそ、神さまが人々の内で働かれ、神の国が大きくなっていくのだと、私は思います。

 私たちの傷んだ現実の中に、神の国は、からし種やパン種のように、はっきりとは見えない形で入り込みます。そして神の国は、私たちの現実を内から変え、私たちの生き方や考え方を根底から変えていきます。今この瞬間も、神の国は、からし種のようにパン種のように、成長しているのかもしれません。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)3

※個人的な立場を表明したものであり、私が宗教活動をしていく上での指針です。内容を修正しながら、教会の指針として運用できるようにしていきたいと思っています。作成したものを、少しずつ公開していきます。

冒頭 ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

前回 ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

子どもへの暴力について

 特にプロテスタントから派生した宗教団体において、児童に対する身体的虐待が深刻な問題となっている。アメリカ合衆国プロテスタントから派生した団体では、鞭を使った尻叩きによる身体的虐待が推奨されており、日本では深刻な被害をもたらした。プロテスタントにおいても児童への身体的虐待を教唆する宗教関係者が後を絶たない。アメリカ合衆国では、福音派の保守勢力も「スパンキング(尻叩き)」と称して身体的虐待を推奨しており、その影響を受けた国内の宗教家も身体的虐待をするよう信徒に教唆している。

 身体的虐待をするよう教唆する勢力は、聖書の箴言体罰を奨励していると主張している。該当する箇所は、箴言に複数見られる。それらの中でも代表的なのは、箴言23章13~14節であり、「子どもから懲戒(指導)を差し控えてはならない。杖で打っても死にはしない。あなたが彼を杖で打つと、あなたは彼の魂を黄泉から救い出すであろう」とある。

 これらの箇所の解釈は、ユダヤ教徒の間でも関心の対象となり、古代よりいろいろな角度からの議論がなされてきたようである。一方、キリスト教プロテスタントプロテスタントから派生した団体においては、「聖書に書いてあるから」の一点張りで、安易に体罰が奨励されているように思われる。

 この箇所に限らず、聖書の記述は字義通りに解釈されるものとして書かれたのか、詩文のような形での比喩表現が用いられているのか、慎重に解釈する必要がある。一見体罰が奨励されているように見える箇所が、子どもへの体罰を直接的に表現しているのか、それとも犯罪者へのむち打ち刑や羊飼いによる羊の誘導などの比喩を用いて、適切な指導の大切さを表現しようとしていたのか、文化的な制約も考慮に入れて慎重に解釈する必要がある。特に文化的制約として、聖書が編纂された時代には、子どもの権利擁護という意識も乏しかったことにも留意しなければならない。

 近年の医学的研究からは、身体的虐待が繰り返された場合、子どもの心身へのダメージが大きく、脳を委縮させるリスクもあることから、損失の方が遥かに大きいことが示唆されている。さらに、学習心理学の観点からも、望ましくない行動に嫌悪刺激を与えるだけでは、望ましい行動の学習につながらず、体罰に依存した子育ては効果の低さの割に損失が大きい。加えて考慮する必要があるのは、体罰が親自身に与える影響である。暴力を受けると、子どもは一時的に静止するため、親は体罰が効果的だと錯覚する。その結果、親は暴力で子どもをコントロールできる学習し、子どもを自分の意のままに操るために暴力に依存するようになる。その結果子ども自身も、人間は他者を暴力で支配する生き物である学習してしまう危険もある。このように、暴力を「しつけ」と称して継続的に用いることは明らかに不適切である。

 聖書に忠実であると自称する団体においては、「世の学問が何と言おうと、私たちは聖書を字義通りに解釈し従う」といって体罰が奨励されることもあるかもしれないが、聖書を字義通り実行するのであれば、例えば団体内で性加害事件を起こした者は殺害されなければならないし、不倫した者についても、不倫相手と共に殺害されなければならない。こういった聖句については実行に移さず、子どもに暴力を振るうことにばかり力を入れているのは、初めから聖書を字義通りになど解釈しておらず、団体内の強者に有利な解釈をしているにすぎないと言える。

 以上のことから、聖書が身体的虐待を奨励していると解釈するのは、児童を虐待したいと考える大人の恣意が働いたものであり、これらの箇所は比喩的表現として解釈するのが妥当と考えられる。

 次に、身体的虐待を伴わなくとも、他の伝統的な団体を含め、キリスト教内では親が子を支配下におき、信仰を強要したり子の生活に過度に干渉したりする問題が見られる。これに関しては、権威主義的な組織構造を持つ団体に多く見られるが、聖書の恣意的な運用が関連していると考えられる。その時に頻繁に持ち出されるのは、出エジプト記20章12節における「あなたの父とあなたの母を敬いなさい。あなたの神である主があなたに与えたあなたの日々が長くなるためである」という記述である。この聖句から「尊敬できないような親も敬いなさい」と語りながらも、子を虐待から護ろうとせず、被害者にばかり赦しを要求する教職者も見られる。このような、教職者による不適切な教説の仕方は、親による暴力や支配を正当化し、時には強化してしまう。この聖句においても、解釈には慎重さが求められる。この箇所で虐待的な親が想定に含められていたかどうかは定かではない。

 さらに、子育てを語るならば、エフェソの信徒への手紙6章4節の「そして父親たちよ、あなた方の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって彼らを育てなさい」にも注意を払わねばならない。パウロは、親たちに子どもへの配慮の必要性を説いている。さらにこの箇所の文脈としては、5章後半から6章にかけては、妻に語りかけ、夫に語り掛け、子に語りかけ、親に語り掛け、奴隷に語り掛け、奴隷の主人に語り掛けるという文章構成になっている。当時のギリシア・ローマ世界においては、男性が夫として妻を支配し、父として子を支配し、主人として奴隷を支配するという、男性による支配構造が普及していた。つまりパウロは、当時支配される立場にあった人々に先に語り掛けている。これは、支配される立場にあった人々に、先に直接語り掛けることで、支配されていた人々を、より対等な立場に引き上げているとも考えられる。よって、これらの箇所は、属性や身分を越えて尊重し合うことの大切さを語った箇所であるとも解釈できる。ゆえに、聖書は親が子どもを一方的に支配することを説いているのではなく、むしろ尊重し合う関係性を理想としていると考えられる。もしも、互いに尊重し合うことを語らず、子どもにばかり暴力的な親も敬えと教える者がいれば、その者は強者に偏った聖書解釈を教えていることになると言えよう。

 以上のことから、教職者が一部の聖句を持ち出して、子どもにばかり親を敬えと教えるのは不適切である。むしろ、教職者は親に対し子どもを尊重するよう呼び掛けるべきであり、子どもは尊厳を持って扱われなければならない。
大人は子どもに対して一方的に自分の考えを押し付けたり、自分の考える愛情を一方通行で押し付けたりするのではなく、何が子を尊重することになるか、子と向き合いながら考えなければならない。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)2

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)2

※個人的な立場を表明したものであり、私が宗教活動をしていく上での指針です。内容を修正しながら、教会の指針として運用できるようにしていきたいと思っています。作成したものを、少しずつ公開していきます。

前回 ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

教会における暴力

LGBTへの暴力について
 長年多くのキリスト教団体では、同性愛は罪であるとされてきた。その結果、LGBTの人々への暴力や人権侵害が深刻な問題となっている。特にアメリカにおいては転向治療と称し、身体的・心理的苦痛で洗脳するといった手法により、同性愛者を異性愛者へ「転向」させようとする虐待行為が見られる。

 転向治療のような拷問を伴う迫害のみならず、宗教団体の教職者や親から同性愛が罪であると教えられ、罪悪感や孤立感に苛まれる人々も多い。

 また、神は人類を男と女のみに造られたとする信念から、多くのキリスト教徒がトランスジェンダーの人々を迫害の対象としている現状がある。

 これらの迫害の結果、多くの人々が自死に追い込まれている。それだけでなく、LGBTを敵視する文化がヘイトクライムやテロ行為を助長している。

 LGBTの迫害の背景にあるのは、同性愛を罪とする聖書解釈である。

 この解釈の根拠として、創世記とレビ記パウロ書簡が頻繁に引き合いに出される。

 まず、創世記においては「そして神は人をご自身の形(像)に造られた。神の形(像)に彼を造られた。男と女に彼らを造られた」との記述が見られる。キリスト教団体の中には、この記述を根拠に、「男と女しかいないので、神はLGBTを認めない」と主張する者もいる。しかし、この箇所の主旨は、神が人間を神の像として創造されたことにある。さらに、ここでは男と女に創造したという記述しかなく、そもそも同性愛やトランスジェンダーについては何ら述べられていない。また、男女観について、ここでは男も女も、すべての人間が神の像として造られたという点に重点が置かれている。よって、この聖句は、LGBTについて言及しておらず、LGBTの存在を否定する理由にはならないと思われる。

 次に、レビ記においては18章22節と20章13節が根拠として利用される。レビ記18章22節には「そして男と、女と寝るようにあなたは寝てはならない。それは忌むべきことである」との記述が見られる。そしてレビ記20章13節では「そして女と寝るように男と寝る男は、双方とも忌むべきことをしたので必ず殺される。彼らの血が彼らの上にある」とある。しかし、この箇所が現代における同性愛の概念と関連しているかについては、慎重に検討しなければならない。レビ記18章の冒頭では「カナンの地の行いに従って行ってはならない」と述べられている。そして、レビ記20章の冒頭においては異教の人身御供への非難が述べられている。どちらの箇所においても、当時のイスラエル人が敵対する勢力の風習を廃止し、敵対する勢力との人々との違いを明らかにすることに、重点が置かれている。さらに、レビ記における男性同士の性行為は、異教における儀式や魔術を想定しているとも言われている。以上のことから、これらの箇所は、同性同士が人生のパートナーとして愛し合う現代の同性愛の概念を想定しているとは考えにくい。

 パウロ書簡においては、ローマの信徒への手紙1章24―27節とコリントの信徒への手紙I 6章9―10節が根拠とされている。ローマの信徒への手紙1章24―27節には、「それゆえ神は、彼ら自身の心の欲において、彼らを不浄に引き渡し、彼らは互いに自分達の身体を辱めています。彼らは神の真理を偽りに変え、創造者ではなく被造物を崇め、そして仕えています。創造者こそ永遠に讃えられる方です。アーメン。それゆえ、神は彼ら不名誉な情欲に引き渡されました。彼らの中の女性は自然な関係を自然に反するものに変え、同様に男性もまた、女性との自然な関係を捨て、互いに対する情欲で燃え、男同士で見苦しいことを行い、彼らの過ちに相応しい報いを自身に受けています」と記されている。この箇所も、レビ記の箇所と同様に、「異教における習慣」であることを前提に論が展開されている。そして、ローマ帝国においても、儀式としての同性間での性行為が存在していたとも指摘されている。異教の習慣としての同性間の性行為では、行為者が同性愛者であることは想定されていないと思われる。さらに、当時の地中海世界においては、同性間の性交渉を自然に反するものと考える人も多く、パウロもその考えに共感してこの箇所を書いていたと思われる。よって、ここでの「自然に反する関係」とは、本来異性愛者であった者が、本来の性的指向から逸脱しているという想定で書かれている可能性が高いと思われる。よって、この箇所を持って聖書が現代の意味における同性愛そのものを禁じていると断じるのは困難であると考えられる。コリントの信徒への手紙I 6章9―10節には「正しくない者は神の国を受け継ぐことがないということをあなたがたは知らないのですか。道を外れてはいけません。淫らな者たち、偶像崇拝をする者たち、姦通する者たち、男娼たち、男色をする者たち、盗む者たち、貪欲な者たち、飲んだくれたち、罵倒する者たち、奪う者たちは、神の国を受け継がないでしょう」との記述が見られる。「男娼たち」と「男色をする者たち」について言及されていることが、神が同性愛を禁じていることの根拠とされてきた。しかし、男娼は職業的なものであり、一方男色をするものは、男娼を買うものや、身分の低い男性に性的な関係を求める男性が想定されているのではないかと指摘されている。さらに、当時の男色は、身分の高い男性が、身分の低い男性や年下の男性を性的に支配する関係性を想定していたとの指摘もある。よって、この部分を異性愛に置き換えると「娼婦と買春をする男性」のような意味合いとなる。一方、現代の同性愛という概念においては、異性愛と同じように相手を配偶者として共に生きてく関係性も想定されている。ゆえに、この箇所から神が同性愛そのものを禁じていると断じるのは不適切であると考えられる。

 以上のことから、同性愛についての言及と見られた聖書箇所は、当時の社会状況との関連が強く、これを現代の同性愛に強引に当てはめて解釈するのは問題であると考えられる。当時のキリスト者が同性愛を自然に反するものと捉えていた可能性は高いが、当時の社会状況に起因するものである可能性が高く、そこから直ちに神が同性愛そのものを禁じていると断定するのは不適切であろう。

 一方、無責任な性行為は望ましいものではなく、さらに、支配関係に基づく暴力的な性行為が憎まれるべきものであることは明白である。ただし、それについては、異性間か同性間かどうかは関係がない。

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)1

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)1

※個人的な立場を表明したものであり、私が宗教活動をしていく上での指針です。内容を修正しながら、教会の指針として運用できるようにしていきたいと思っています。作成したものを、少しずつ公開していきます。

 

はじめに

 

本指針作成の経緯

 キリスト教ローマ帝国の国教となって以来、教会は権力と結びつき、キリスト教の教えは人々を統率するための道具として利用されてきた。その後、キリスト教会はヨーロッパの覇権を握り、中世には宗教権力によって多くの人々が虐殺される事態を招いた。宗教改革時代にはカトリックからプロテスタントが分離し、カトリックプロテスタント間で、またはプロテスタント同士で宗教的な正しさを主張し、キリスト教徒同士が殺し合うという事態に至った。

 これらのキリスト教の歴史により積み重ねられた暴力性は現代のキリスト教団体にも受け継がれ、神の名の下に多くの人々が様々な形で暴力を受け、抑圧されている状況にある。

 日本においても、オウム真理教によるテロ事件、そしてキリスト教系宗教団体による反社会的行為をきっかけとする元首相銃撃事件を経て、宗教団体による反社会的活動や人権侵害に対する世間からの注目が強まっている。また銃撃事件をきっかけに、以前より注目を集めていた宗教2世問題が改めて社会全体に知られることとなり、伝統的なキリスト教団体の2世の人々からも、伝統的なキリスト教団体による人権侵害について多数の声が上がっている。それにも関わらず、「人権侵害や反社会行為はカルト宗教や異端だけの問題であって、正統なキリスト教団体にはそういった問題はない」と考えるキリスト教徒は少なくないように思われる。

 キリスト教における暴力の問題を解決するためには、そして、教会を安全な場所とするためには、キリスト教徒自身がキリスト教の過ちと向き合い、団体の運営や信仰実践の在り方を日々改善し続けなければならない。

 よって、本指針はキリスト教による暴力を反省し、教会の存在意義に立ち返り、教会を安全な場所とするための方向性を模索するものとする。

注意点

 本指針は暫定的なものであり、実際に運用する中で内容を修正し続ける必要が生じることが予想される。また、この指針のみで教会におけるあらゆる問題を網羅できているわけではない。そして、この指針は機械的な判断を下すための基準ではない。基準に過度に依存した場合、ルールを守りさえすれば問題がないと思い込み、目を前の相手と向き合うことを怠り、その結果相手を傷つけてしまうということも予想される。この指針は、機械的な判断を下すための基準でなく、目の前の相手を本当に大切にするのはどういうことかについて、キリスト教徒が自身の暴力性と向き合いながら思いめぐらせ、日々の行動を振り返り改めるためのものとして運用したい。

2023年10月15日 礼拝説教 『平和でなく分裂を』

ルカによる福音書12章49節から52節をお読みいたします。

 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。

(口語訳聖書)

 それでは、『平和でなく分裂を』と題してお話させていただきます。

 今回の聖書箇所はなかなか不穏な内容になっています。イエス・キリストというと、愛や赦しを説くイメージが強いので、分裂をもたらすために来たというのは、意外に感じる人も多いかもしれません。

 イエスさまは語られます。

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」

 火を投じるためにきた。破壊的な印象がいたします。愛と赦しを説いていたはずのイエスさまが、火を投じるために地上に来た。一体どういうことでしょうか。

 ここで言う火とは、もしかしたら神の裁きを表しているのかもしれません。神の裁きというと、一般的には罰のイメージが強く、宗教を信じている人が天国に行き、宗教を信じない人は地獄に堕ちるみたいな印象が強いかもしれません。しかし実は、聖書の中で神の裁きは、今までの教会が教えて来た在り方と異なるのかもしれません。たとえば、弱い立場にいる人を搾取してお金を儲ける人々への裁きや、貧しい人々をないがしろにして特権の上にあぐらをかく支配者への裁きなど、聖書における裁きは、宗教性の有無よりも、社会における生き方が基準にされています。また、神の裁きが、搾取する者への報復や、抑圧された人々の解放として語られることもあります。ということは、神の裁きというのは、神による社会正義の回復ということなのかもしれません。
そして、イエスさまは語られます。

「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」

 これもまた不穏な言葉です。平和をもたらしに来たはずのイエスさまが、どうして分裂をもたらしに来られたのでしょうか。さらにその分裂の激しさが語られます。

「というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」

 その分裂は、家族がバラバラになる程激しいもののようです。古代のユダヤ人は今以上に家族の繋がりを重視していたでしょうから、当時の人々からすると、かなり強い表現だったと思います。

 この分裂はいったい何のための分裂なのでしょうか。属性を巡る分裂でしょうか。それとも政治的な立場を巡る分裂でしょうか。現代の社会問題を語る上で「社会の分断」という言葉がキーワードのように頻繁に語られることもあります。一般的に分裂は否定的な意味合いで使われる言葉です。なぜイエスさまは分裂をもたらすために来られたのでしょうか。

 一方平和とは何でしょうか。現代の世界においても悲惨な戦争が続いています。戦争のない地域でも、組織的な暴力や個人による暴力など、辛い出来事が多々あります。私たちはニュースを観る度に、身の回りの現実を直視する度に、「この世界が平和な場所ならどんなに良いだろう」と胸が詰まる想いになります。一般的に平和は肯定的な意味合いで使われる言葉です。それでは、なぜイエスさまは平和でなく分裂をもたらすために来たと言われたのでしょうか。

 単なる正しさの押し付け合いによる分裂は不毛なものですが、その一方で、誰かを踏みつけて成り立つ平和や、誰かを虐げて成り立つ「みんな仲良し」というのも、暴力的なのではないでしょうか。そういう意味では、平和や調和という言葉が暴力に悪用されることもあるかもしれません。

 たとえば、ある学校で1人の生徒が繰り返し暴力を受けて転校したのに、その学年の生徒たちが卒業式の日に「この学年めっちゃ仲良しだったよね」と言っていたら、それは本当に仲良しと言えるでしょうか。ある会社で社長による暴力が発覚したにも関わらず、社員や関係者が社長を慕っていたり、社内の関係が親密であったりすれば、その会社は家族のように仲が良い企業なのだと、美談で済まされて良いのでしょうか。キリスト教会で教職者が「神の家族」や「主の平和」などといった綺麗な言葉を使ってさえいれば、教職者や教会員が誰かを虐げて苦しめていたとしても、その教会は平和ということになるのでしょうか。民間人を虐殺する国家や組織をたくさんの国々が支持すれば、それは「一致団結」と言えるのでしょうか。「平和」や「仲良し」あるいは「一致団結」という言葉の裏に、暴力性が潜んでいることもあるのかもしれません。そういった偽りの平和を、イエスさまは憎まれるのだと思います。

 聖書の神さまは本来、虐げられた者や苦しんでいる者のために戦う神です。そして、福音とは良き報せという意味ですが、誰かを虐げて甘い汁を啜る人々にとって、神の福音は裁きの宣告です。人間関係が平和であることは大事ですが、正しさを曲げて成り立つ平和は偽りの平和であって、虚しいものです。

 愛と赦しのイメージが強いイエスさまですが、弱い立場にある人々を苦しめる宗教家やエリートの人々を激しく糾弾され、多くの人々から憎まれていました。そして、イエスさまが再臨される時、虐げられていた人々が皆解放され、自分より弱い人々を搾取して富を築いた人々は権力の座から転落します。

 それでは、イエスさまが再臨されるまでの間、イエスさまの弟子として生きるものは、どのように生きるべきでしょうか。分裂することも厭わず、道徳的な正しさを求める者になっていきたいと思います。