大和寝倒れ随想録

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2023年10月15日 礼拝説教 『平和でなく分裂を』

ルカによる福音書12章49節から52節をお読みいたします。

 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。

(口語訳聖書)

 それでは、『平和でなく分裂を』と題してお話させていただきます。

 今回の聖書箇所はなかなか不穏な内容になっています。イエス・キリストというと、愛や赦しを説くイメージが強いので、分裂をもたらすために来たというのは、意外に感じる人も多いかもしれません。

 イエスさまは語られます。

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」

 火を投じるためにきた。破壊的な印象がいたします。愛と赦しを説いていたはずのイエスさまが、火を投じるために地上に来た。一体どういうことでしょうか。

 ここで言う火とは、もしかしたら神の裁きを表しているのかもしれません。神の裁きというと、一般的には罰のイメージが強く、宗教を信じている人が天国に行き、宗教を信じない人は地獄に堕ちるみたいな印象が強いかもしれません。しかし実は、聖書の中で神の裁きは、今までの教会が教えて来た在り方と異なるのかもしれません。たとえば、弱い立場にいる人を搾取してお金を儲ける人々への裁きや、貧しい人々をないがしろにして特権の上にあぐらをかく支配者への裁きなど、聖書における裁きは、宗教性の有無よりも、社会における生き方が基準にされています。また、神の裁きが、搾取する者への報復や、抑圧された人々の解放として語られることもあります。ということは、神の裁きというのは、神による社会正義の回復ということなのかもしれません。
そして、イエスさまは語られます。

「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」

 これもまた不穏な言葉です。平和をもたらしに来たはずのイエスさまが、どうして分裂をもたらしに来られたのでしょうか。さらにその分裂の激しさが語られます。

「というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」

 その分裂は、家族がバラバラになる程激しいもののようです。古代のユダヤ人は今以上に家族の繋がりを重視していたでしょうから、当時の人々からすると、かなり強い表現だったと思います。

 この分裂はいったい何のための分裂なのでしょうか。属性を巡る分裂でしょうか。それとも政治的な立場を巡る分裂でしょうか。現代の社会問題を語る上で「社会の分断」という言葉がキーワードのように頻繁に語られることもあります。一般的に分裂は否定的な意味合いで使われる言葉です。なぜイエスさまは分裂をもたらすために来られたのでしょうか。

 一方平和とは何でしょうか。現代の世界においても悲惨な戦争が続いています。戦争のない地域でも、組織的な暴力や個人による暴力など、辛い出来事が多々あります。私たちはニュースを観る度に、身の回りの現実を直視する度に、「この世界が平和な場所ならどんなに良いだろう」と胸が詰まる想いになります。一般的に平和は肯定的な意味合いで使われる言葉です。それでは、なぜイエスさまは平和でなく分裂をもたらすために来たと言われたのでしょうか。

 単なる正しさの押し付け合いによる分裂は不毛なものですが、その一方で、誰かを踏みつけて成り立つ平和や、誰かを虐げて成り立つ「みんな仲良し」というのも、暴力的なのではないでしょうか。そういう意味では、平和や調和という言葉が暴力に悪用されることもあるかもしれません。

 たとえば、ある学校で1人の生徒が繰り返し暴力を受けて転校したのに、その学年の生徒たちが卒業式の日に「この学年めっちゃ仲良しだったよね」と言っていたら、それは本当に仲良しと言えるでしょうか。ある会社で社長による暴力が発覚したにも関わらず、社員や関係者が社長を慕っていたり、社内の関係が親密であったりすれば、その会社は家族のように仲が良い企業なのだと、美談で済まされて良いのでしょうか。キリスト教会で教職者が「神の家族」や「主の平和」などといった綺麗な言葉を使ってさえいれば、教職者や教会員が誰かを虐げて苦しめていたとしても、その教会は平和ということになるのでしょうか。民間人を虐殺する国家や組織をたくさんの国々が支持すれば、それは「一致団結」と言えるのでしょうか。「平和」や「仲良し」あるいは「一致団結」という言葉の裏に、暴力性が潜んでいることもあるのかもしれません。そういった偽りの平和を、イエスさまは憎まれるのだと思います。

 聖書の神さまは本来、虐げられた者や苦しんでいる者のために戦う神です。そして、福音とは良き報せという意味ですが、誰かを虐げて甘い汁を啜る人々にとって、神の福音は裁きの宣告です。人間関係が平和であることは大事ですが、正しさを曲げて成り立つ平和は偽りの平和であって、虚しいものです。

 愛と赦しのイメージが強いイエスさまですが、弱い立場にある人々を苦しめる宗教家やエリートの人々を激しく糾弾され、多くの人々から憎まれていました。そして、イエスさまが再臨される時、虐げられていた人々が皆解放され、自分より弱い人々を搾取して富を築いた人々は権力の座から転落します。

 それでは、イエスさまが再臨されるまでの間、イエスさまの弟子として生きるものは、どのように生きるべきでしょうか。分裂することも厭わず、道徳的な正しさを求める者になっていきたいと思います。