大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

『古代オタクが聖書に挑むお話』12

 エデンの園の物語は、人間が「善悪の知識の木の実」を食べる(善悪を自分で決める)ことによって、生きる苦しみや男尊女卑が生まれたというお話になっています。このお話は1回限りの歴史的事実というより、「人間が神になったつもりで善悪を断定的に決めることで、差別や争いが生まれ、世界が生き辛い場所になる」という、人の世の在り様を表現した物語として読まれることを想定して、書かれたのかもしれません。

 一神教というと、神に逆らったら一発アウトで滅ぼされるとか、死後に裁判を受けて、有罪になると地獄行きとか、そういったイメージが強いかと思います。しかし、聖書全体の物語の構造から読み解くと、アウト制というより「失敗してハチャメチャになっても、またそこからやり直す」という七転び八起の物語と解釈することもできます。

 古代中近東では、地上で起こるあらゆることは、神々が天上の会議で決めているというイメージがありました。なので、戦争でどの国が勝つかとか、どの王様が何年王位に就くとか、そういったことも神々が決めていると考えられていたそうです。そういうわけで、災害や事故についても、「神々の祟り」と見なされる傾向があったようです

 基本的に「神の裁き」は、人間のやった行いが跳ね返ってくるという形が描かれることが多いです。

 聖書の中には「正しい者が神の加護を受けて強くなり、神に逆らい弱い者虐めをすると、神の加護を失い滅びる」という、因果応報の世界観に基づいて紡がれた物語が多数収録されています。しかし古代人は、因果応報の世界観だけでは説明できないことがあることを知っていたので、「理由は分からないが、悪が栄えたり正しい人が苦しんだりすることもある」という内容の書も収録されています。

 自分の行いを振り返るために「祟り」の概念を活用することは効果的かもしれませんが、それを濫用して「○○をしないと、祟られるのではないか」と強迫的になってしまうのは本末転倒かもしれません。さらに、苦難の中にある人に対して「日頃の行いが悪いからだ」と言って攻撃するのは論外でしょう。

 ヨブ記では、正しく生きていたにも関わらず苦難に遭った人を、友人たちが「何か罪を犯したからではないか」と責め、最終的に神から厳しく叱責されるというシーンが出てきます。

 聖書の物語の中で最初に神に逆らった人間であるアダムとエバは、毛皮の衣を与えられ、そこから2人の新生活が始まりました。

 人間が人生の中で何度も失敗しますが、その度に神が「もう一度やり直そう」と一緒に歩んでくれるのだと、古代イスラエルの人々は信じていたのかもしれません。

 聖書における「裁き」、現代人には「懲罰」というイメージが強いですし、実際に「罰する」と翻訳されるフレーズも出てきますが、古代人としては、「矯正」「訂正」のように、間違った方向から正しい方向へ戻すといったニュアンスを伝えたかったのかもしれません。

 特に旧約聖書では、神がたくさんの人を殺したり、殺戮を命じたりと、現代人の倫理観とは相容れないような展開もあります。これをそのまま事実と解釈する宗教団体もありますが、これらの物語は、古代人が持つ神々に対するイメージに基づいて書かれたという点を考慮に入れる必要があるかもしれません。さらに、旧約聖書の多くの書は、古代中近東における様々なジャンル(神話、王の系譜、宗主国と属国の契約、法典、知恵文学、嘆きの歌など……)の文書と似たスタイルで書かれています。なので、聖書は古代中近東も文書を意識して書かれている可能性があり、現代人の感覚だけで解釈しようとすると、誤解してしまう箇所が多数あるかもしれません。