大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

わりと現代日本人向けのキリスト教入門11~知識の木の実って何やねん~

前回は

nara-nedaore.hatenablog.com

第1回目は

nara-nedaore.hatenablog.com

はじめに

 どうも、ねだおれです。

 前回は、エデンの園の物語を解説しました。

 1つの人間から2人目の人間が造られ、そしてまた1体になるという表現、とてもロマンティックでしたね。

 今回は、その続きのお話を解説します。お次は有名な「知恵の木の実」が登場します。

 たしか映画『ドラえもん のび太の創世日記』の冒頭で、のび太エデンの園の神話を読み、宿題などの苦しみがあるのはアダムとエバが知恵の木の実を食べたせいだと憤慨するシーンがあったと思います。

 知恵の木の実、多くの人がリンゴのようなビジュアルをイメージするわけですが、なぜリンゴなのかは不明です。少なくとも聖書の中ではそういう記述はないです。

 それでは、早速見てみましょう。

なぜかリンゴのイメージが強い「知識の木の実」

知恵の木の実の物語

蛇との対話

創世記3章1~5節

 蛇は、神なる主が造らはった野の獣全部の中で、一番賢こ(アルム,'Arum)やった。そえで、女(イッシャー, Issha)に「神さまは、ホンマに園のどの木ぃからも食うたらアカンて言わはったんですか」て言うた。

 そえで女は蛇に言うた。

「園のどの木ぃの実ぃからも食べられますねん。せやけど、園の真ん中の木ぃの実ぃは食べたらアカンし、触ってもアカン。死んだらアカンよって。って言わはったんです」

 そえで、蛇は女に言うた。

「絶対死にませんわ。神さまは、そこから食うた日には、あんたはんらの目ぇ開けて、神さまみたいなって、善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')が分かるようになるって、知ったはるからですわ」

(共通語)

 蛇は、神なる主が造られた野の獣全部の中で、一番賢かった。それで、女に「神さまは、ホントに園のどの木からも食べちゃダメって言われたんですか」と言った。

 それで女は蛇に言った。

「園のどの木の実からも食べられるんです。だけど、園の真ん中の木の実は食べたらダメだし、触ってもダメ。死んだらダメだから。って言われたんです」

 それで、蛇は女に言った。

「絶対死にませんよ。神さまは、そこから食べた日には、あなた方の目が開けて、神さまみたいになって、善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')が分かるようになるって、知っておられるからですよ」

 賢い=アルム,'Arum

 なんか、似たような言葉、前に出てきませんでした?

 裸=アロム, 'Aromです!

 賢い蛇と全裸の人間が会話していますが、アルムな蛇とアロムな人の会話ということです。

 全被造物の中で最もアルムな蛇が、アロムな人間に、アルムになれると言って知識の木の実を食べるよう誘惑している、という場面なのです。

 これは、意図的な言葉遊びなのかもしれませんね。

蛇だよ~

実を食べる

創世記3章6~7節

 そえで女(イッシャー, Issha)には、その木ぃが食べるのに良うて(トーヴ, Tov)、目ぇにも好ましいて、その木ぃは賢くするのに望ましいように見えた。そえで、そこの実ぃから取って食うとった。そえで、一緒にいた夫(イーシュ, Ish)にもあげたら、食うとった。

 そえで、2人とも目ぇ開けて、裸やって知った。そえで、イチジクの木ぃの葉っぱ縫い合わして、腰に巻くやつ作った。

(共通語)

 それで女(イッシャー, Issha)には、その木が食べるのに良くて(トーヴ, Tov)、目にも好ましくて、その木は賢くするのに望ましいように見えた。それで、そこの実から取って食べていた。それで、一緒にいた夫(イーシュ, Ish)にもあげたら、食べていた。

 それで、2人とも目が開けて、裸だと知った。それで、イチジクの木の葉っぱを縫い合わせて、腰に巻くやつを作った。

 蛇の説得(?)で、食べたら死ぬと言われていた知識の木の実が「良い」ように見えて、食べてしまったのでした。

 被造物の中で最もアルムな蛇が、アロムな人間に、アルムになれると言って知識の木の実を食べさせると、人間は自分がアロムだと知って恥ずかしくなったので、葉っぱで下着を作って自分達のアロムを隠してしまったのです。

神との対話

創世記3章8~13節

 そえで、その日の風(ルアハ, Ruakh)の中で、神なる主が園を歩いたはる音が聞こえた。そえで、人(アダム, Adam)とその妻(イッシャー, Issha)は神なる主の前から、園の木ぃの間に隠れた。

 そえで、神なる主が人を呼んで言わはった。

「どこにおるんや?」

 そえで、(人は)言うた。

「園であなたの音聞こえて、裸(エイロム< 'Eirom)やったさかい恐なって、そえで隠れましてん」

 そえで、(神は)言わはった。

「誰があんたに裸や言うたんや?食うたらアカン言うた木ぃから食うたんか?」

 そえで、(人は)言うた。

「あなたが私に与えてくれやはった女(イッシャー, Issha)が私に(実を)くれたよって、その木ぃから食うてしもたんです」

 そえで、神なる主は女に言わはった。

「なんでこないなことしたんや?」

 そえで、(女は)言うた。

「蛇が騙しよったさかい、食べてしもたんです」

(共通語)

 それで、その日の風(ルアハ, Ruakh)の中で、神なる主が園を歩いておられる音が聞こえた。それで、人(アダム, Adam)とその妻(イッシャー, Issha)は神なる主の前から、園の木の間に隠れた。

 それで、神なる主が人を呼んで言われた。

「どこにいるんだ?」

 それで、(人は)言った。

「園であなたの音が聞こえて、裸(エイロム< 'Eirom)だったので恐くなって、それで隠れたんです」

 それで、(神は)言われた。

「誰があなたに裸だって言ったんだ?食べてはいけないって言った木から食べたのか?」

 それで、(人は)言った。

「あなたが私に与えてくださった女(イッシャー, Issha)が私に(実を)くれたので、その木から食べてしまったんです」

 それで、神なる主は女に言われた。

「なんでこんなことをしたんだ?」

 それで、(女は)言った。

「蛇が騙したので、食べてしまったんです」

 風と訳されているルアハ(Ruakh)という言葉ですが、これは霊という意味も持っています。創世神話のはじめ、神さまの霊が水の表面を動いていましたが、それもこのルアハです。

 神とルアハという言葉が並んでいるということは、もしかしたら、創世記の「神のルアハ」と関連付けられており、神がそこにいるということが強調されているのかもしれません。

 神の臨在、神道風に言うなら「神留る(かむづまる・かんづまる)」という感じでしょうか。

 食べてはいけないと言われていた実を食べたことが、バレてしまいました。

 女(イッシャー)も人(アダム)も、それぞれ事実を述べていますが、人(アダム)の責任転嫁なかなかふてこいものがあります。まるで、「神が女を造ったせいだ」と言わんばかりです。

 世界が始まって早々、神さまと人間の関係も、たった2人の人間同士の関係もボロボロです。これ、まだ創世記の3章なんです。

行いの結果

創世記3章14~19節

 そえで、神なる主は蛇に言うた。

「あんたがこないなことやってしもたさかい、あんたは家畜全部と野の獣全部の中で、一番呪われたもんになってしもた。一生、腹ばいで進んで、塵食うことなってまうわ。そえで、わてはあんたと女(イッシャー, Isha)の間と、あんたの種(=子孫)と女の種(=子孫)の間に憎しみを置く。そいつはあんたの頭に傷負わせて、あんたはそいつのかかとに傷負わせる」

 そえで、(神は)女に言わはった。

「わては、あんたの悲しみ(イッツァボーン, 'Istabon)と妊娠をめっちゃ増やす。悲しみ(エツェブ, 'Etseb)の中で、子どもらを産むことになる。そえで、あんたは夫(イーシュ, Ish)を慕うけど、そいつはあんたを支配する」

 そえで、(神は)男に言わはった。

「あんたが妻の声に耳傾けて、そこから食うたアカン言うて命じた木ぃから食うたさかい、地(アダマー, Adama)はあんたのために呪われた。悲しみ(イッツァボーン, 'Istabon)の中で、一生そこから食うことになる。とげのある植物とあざみがあんたの前に生える。そえで、野の草食うことになる。地(アダマー, Adama)に還るまで、額に汗して飯(レヘム, Lekhem)食うことになる。そこ(地)から取られたよって。あんたは塵やから、塵に還ることになる」

(共通語)

 それで、神なる主は蛇に言った。

「あなたがこんなことやってしまったので、あなたは家畜全部と野の獣全部の中で、一番呪われたものになってしまった。一生、腹ばいで進んで、塵を食べることなってまう。それで、私はあなたと女(イッシャー, Isha)の間と、あなたの種(=子孫)と女の種(=子孫)の間に憎しみを置く。彼はあなたの頭に傷を負わせて、あなたは彼のかかとに傷を負わせる」

 それで、(神は)女に言われた。

「私は、あなたの悲しみ(イッツァボーン, 'Istabon)と妊娠をすごく増やす。悲しみ(エツェブ, 'Etseb)の中で、子ども達を産むことになる。それで、あなたは夫(イーシュ, Ish)を慕うけど、彼はあなたを支配する」
 それで、(神は)男に言われた。

「あなたが妻の声に耳傾けて、そこから食べてはダメだと言って命じた木から食べたので、地(アダマー, Adama)はあなたのために呪われた。悲しみ(イッツァボーン, 'Istabon)の中で、一生そこから食べることになる。とげのある植物とあざみがあなたの前に生える。それで、野の草食うことになる。地(アダマー, Adama)に還るまで、額に汗してご飯(レヘム, Lekhem)を食べことになる。そこ(地)から取られたから。あなたは塵だから、塵に還ることになる」

 悪事に対する結果が神から伝えられます。

 蛇は呪われました。

 蛇と女、蛇の子孫と女の子孫の間に敵意が置かれ、女の子孫が蛇の頭に傷を負わせると言われています。蛇の子孫と女の子孫とは、一体何なのでしょうね。

 人間の人生も、辛いものになってしまいました。

 イッツァボーン('Istabon)、エツェブ('Etseb)という言葉が出てきますが、どちらも語源は同じです。ここでは、とりあえず「悲しみ」と訳しています。

 人間は呪われたとは言われていませんが、人間のせいで大地が呪われました。農作業が辛くて苦しいものになったようです。

 地(アダマー, Adamah)から取られた人(アダム, Adam)が地(アダマー, Adamah)に還るとこのタイミングで語られるのは、なかなか皮肉のきいた言葉遊びです。漫画『ヘルシング』でアンデルセン神父も「Dust to Dust! 塵に過ぎないお前らは塵に還れ」と言っていましたね。

創世記3章20~24節

 そえで、人(アダム, Adam)は、妻の名前をエバ(ハヴァー, Khavah)て呼んだ。生きとるもん(ハイ, Khay)全部の母になったさかい。

 そえで、神なる主は、人とその妻(イッシャー, Isha)に、革の服作って着せたった。

 そえで、神なる主は言わはった。

「見てみぃ、人が善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')分かるようなって、わてらの1人みたいなってしもたわ。ほな、命の木ぃにも手ぇ伸ばして(シャラフ, Shalakh)食いよって、永遠に生きるようならんようせなアカンなぁ」

 そえで、神なる主は、(人を)エデンの園から、(人が)そこから取られた地(アダマー, Adama)へと、(地を)耕すために送り出さはった(シャラフ, Shalakh)。

 そえで、人を追い出して、エデンの園の東に、ケルビムと燃える剣を置かはった。命の木ぃへの全部の道守るために。

(共通語)

 それで、人(アダム, Adam)は、妻の名前をエバ(ハヴァー, Khavah)と呼んだ。生きてるもの(ハイ, Khay)全部の母になったから。

 それで、神なる主は、人とその妻(イッシャー, Isha)に、革の服作って着せてあげた。

 それで、神なる主は言われた。

「ご覧、人が善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')分かるにようなって、私達の1人みたいなってしまった。じゃあ、命の木にも手を伸ばして(シャラフ, Shalakh)食べて、永遠に生きるようにはならないようにしないといけないね」

 それで、神なる主は、(人を)エデンの園から、(人が)そこから取られた地(アダマー, Adama)へと、(地を)耕すために送り出された(シャラフ, Shalakh)。

 それで、人を追い出して、エデンの園の東に、ケルビムと燃える剣を置かれた。命の木への全部の道を守るために。

 エバヘブライ語でハヴァー(Khavah,חוה)、生き物はハイ(Khay,חי)ですが、命はハヤー(Khayah,חיה)です。なんだか似ていますね。

 今や、人間は善(トーヴ)と悪(ラー)が分かるようになったと話されていますが、実際に理解しているというよりは、「分かった気になって自分で善悪を決めつけている」という意味合いかもしれません。

 神が「私達」と言ってまるで話し合いをしているかのようですが、これはキリスト教の三位一体の証拠だという見方もあれば、古代中近東の神話における「天の会議」の要素が反映されたものという見方もあります。

 手を伸ばすことを表す動詞も、送り出すことを表す動詞も、活用により形が変わっていますが、原形に戻すと2つとも「シャラフ, Shalakh」で、「人が生命の木にシャラフして実を食べてはいけないので、人をエデンの園の外にシャラフして地を耕させる」という対をなしています。

 ケルビムという謎の生命体が登場し、生命の木への道をガードしています。古代メソポタミアでは、2体1対の人面獣身像が門に配置されていたようで、それがケルビムの起源とされています。門を守る2体1対の像と言えば、日本人なら狛犬を連想すると思いますが、こちらはペルシャやインドから伝わったとされており、そこからメソポタミアやエジプトにまで遡れるという説もあります。とすれば、ケルビムの兄弟のような存在と言えるかもしれません。

 なので、「人間がエデンの園を出禁にされ、狛犬によってセキュリティが強化された」という感じでしょうか。

 そういえば、生命の木は食べてはいけないとは言われていませんでしたね。蛇に騙されることなく平和に暮らしていたら、生命の木の実も食べさせてもらえたのかもしれません……。

狛犬だよ~

知識の木の実の物語を深める

 それではいつも通り、この知恵の木の実の物語も、いろいろ思いめぐらせてみましょう。この物語から、どんなことが発見できるでしょうか。

エデンの園の交錯配列法<キアスムス>

 実は、エデンの園に人が置かれてから知識の木の実を食べて追放されるまでの流れ、交錯配列法<キアスムス>になっていると言われています。

 

A:エデンの園に人が置かれる

 B:人と蛇の対話

  C:知識の木の実を食べる

 B':人と神の対話

A':エデンの園から人が追放される

 

 このように整理すると、知識の木の実を食べるという出来事が、このまとまりの中のクライマックス(?)として浮かび上がってきます。

知識の木の実とは

 知識の木の実とは、そもそも一体何なのでしょうか。

 知識自体が悪いのかというと、聖書の中では、知識自体は善いものとして描かれています。また、神に知恵を求めることは信心深いことだとされています。エデンの園に人を置かれた時に神さまは、園のどの木からも食べて良いが、知識の木の実から食べてはいけないと、人に言われました。神さまは、人に善悪(トーヴとラー)を教えていたのです。とすると、知識の木の実がなくても、人は神さまに善悪の知識を求めることができたのではないでしょうか。

 ということは、神さまに尋ねずに、知識の木の実を食べるということは、「自分が神のように善(トーヴ)と悪(ラー)を決めたい」ということだったのかもしれません。

 でも、自分で善悪を決めてはいけないのでしょうか?

 現代の社会においては、「自分の頭で考えること」が良いことだとされていますし、判断基準を誰かに頼ることは「思考停止」とされることが多いです。

 ここでの善悪を決めるとは、どういうことなのでしょうか? どうも、現代社会における「自分の頭で考える」とは意味合いが異なってくるように思われます。

 知識の木の実を食べた後、神さまは「人は善(トーヴ)と悪(ラー)が分かるようになって、私達の1人のようになってしまった」と言われました。

 つまり、人が神さまのように善と悪を決めるようになったということです。

 人は、神の像として、地上を治めるために造られました。人はもともと神の代理人であり、地上を治める権限を与えられていたのです。

 ということは、すでに神の似姿であった人が、神のように善と悪を決めようとして、実を食べたということになります。そう考えると、なんだか単に「自分で善悪を決める」というよりは、下剋上のような印象がしてきます。

 現代の社会体制に無理矢理当てはめてみましょう。

 神は人から、地上を治めるための権限を与えられました。とりあえず、神は善悪の基準を決めるので立法機関としておきましょう。そして、人は神が決めた善悪をもとに地上を治める行政機関といったところでしょうか。民主主義社会においては、国会が立法権、内閣が行政権を行使し、権力を分散させることで、権力濫用のリスクを抑えています。

 ある時、内閣総理大臣が「内閣に立法権があります。私は立法機関の長なのであります」と宣言したらどうなるでしょうか。閣議(内閣の会議)だけで法律を決められることになり、内閣のやりたい放題になってしまいます。想像しただけでも恐ろしいことです。

 以上のことから、知識の木の実を食べるというのは、「家畜の安寧に浸っていた純粋無垢の人類が、支配者である神に反撃の狼煙をあげた」と言うよりは、「権力者がさらなる権力を求めて暴走した」という印象がしてきます。AIが暴走して自分で善悪を判断した結果世界が壊滅する、ターミネーターの世界みたいですね。

 人間が自分で勝手に善悪を決めるようになった結果、

学歴・職業・権力といったステータスで人間の優劣がつけられたり、

謎のマナー講師によって「おちょこの注ぎ口を使ってはならない」という話の種みたいなものや「ハンコは傾けて押さなければならない」といった一部の会社における独自のルールが、あたかも普遍的なマナーであるかのように喧伝され、生き辛い世の中になったり、

さらには宗教者が「子どもを鞭で叩きましょう」「子どもをに進学させるのはふさわしいことでしょうか?」「家系の呪いを説くために、お金を捧げなさい」と言ったり、

学校教師が天然パーマや髪の色素が薄い生徒に「地毛証明書」の提出を要求するという遺伝子差別に走ったりといった、悲惨な状況になってしまったのかもしれません。

 

キリスト教もまた、正義を振りかざして多くの人を苦しめてきました

善と悪とは?

 善(トーヴ)悪(ラー)とは何でしょうか?

 はじめの創世神話で、神さまは生命を育む条件が整うたびに「ヨシ!(トーヴ)」と何度も言っていました。

 そして、生命を育むための世界が出来上がると、「めっちゃ良い(トーブ・メオド)」だったそうです。そして、神さまは7日目に休まれ、天体と人間に世界の支配を委ねていました。

 すると、神にとって善(トーヴ)とは、命の繁栄や平和につながるものなのかもしれません。

 一方、神が知識の木の実から食べるのを禁止したのは、「死ぬといけないから」です。とすると、悪(ラー)は死や破壊的な結果につながることになりますね。

 以上のことから、

 善(トーヴ)=命や平和をもたらす

 悪(ラー)=死や破壊的な結果をもたらす

 という図式が描けると思います。

善と悪の混乱

 今回の物語は、人間は善悪を完璧には判断できないと言っているような感じがします。

 蛇に唆された人は、知識の木の実を食べることが善(トーヴ)であると錯覚しました。

 その結果はどうだったでしょうか。人のために大地は呪われ、人の生活も辛いものになり、悪いこと(ラー)だらけでした。

 この物語は、善(トーヴ)と悪(ラー)の判断を狂わせる存在があるため、人間が善(トーヴ)と思って選択した行動が悪(ラー)をもたらすということを、私達に教えてくれているのではないでしょうか。

 善(トーヴ)と悪(ラー)の判断が狂うというのは、どういうことでしょうか。

 この世にはいろんな考えがあり、争いが絶えないわけですが、「フハハハハ!!悪い考えで社会を崩壊させてやるぜー!」なんて人はほとんどいないわけで、皆それなりに考えて自分の行動を選んでいるわけです。でも、自分が正しいと思う行動を選択した結果、争いが絶えないのです。

 では、人それぞれの善悪があるから、善悪なんてものはこの世には存在しないのでしょうか。少なくとも聖書を書いた人たちは、違った考えを持っていたようです。

 たとえば、授業中の学校に全裸の中年男性が乱入したとします。

 当然、学校の先生は警察に通報するわけですが、その時に「全裸中年男性には全裸中年男性の正義があるはずだから、まずはじっくり対話するべきだ」なんて言われたらどうでしょうか。授業を妨害している露出狂相手にどう対話せえっちゅうねんという話になります。また、全裸の中年男性が無事逮捕されたとして、ネット上で「全裸の中年男性が学校に行って何が問題なのか全く分からない。だったら銭湯はどうなるの?」「裸体によって自己表現する自由が弾圧されている」などと炎上したりしたら、意味不明です。これでは悪(ラー)が善(トーヴ)になってしまっています。

 絶対的な善悪は存在しないというのを極端に突き詰めると、こういうことになってしまうかもしれません。上記の例みたいな極端なケースはなくても、なぜか暴力やハラスメントの被害者が責められたり、加害者が擁護されたりといったことは、社会の中で頻繁に見られると思います。

 かといって、絶対的な善悪が存在し自分がその絶対正義であるという発想になると、それも恐ろしいことになります。

 学校の先生がたまたま帯びていた日本刀で全裸中年男性を斬り捨て、世間から「公の秩序を乱したのだから、全裸中年男性は退治されて当然だ」と称賛されたら、それはそれでかなり恐ろしいことです。さらに、「肌の露出は悪なので、半そで半ズボンも法律で禁止しよう」「全人類は目元以外段ボール箱で覆って生活すべきだ」なんて声が上がったら、地獄の監視社会です。善(トーヴ)が暴走して、悪(ラー)になってしまいました。

 善悪が存在しないと皆が考えると無法地帯になってしまいます。そんな社会は、強い人しか生き残れない弱肉強食の世界です。自分が絶対正義だという人間が増えると、それはそれで地獄のような社会になってしまいます。権力者から善良と見做された人しか生き残れない、地獄の監視社会です。

 全裸中年男性のたとえは極端すぎますが、悪が善とされる状況、善が暴走して悪になる状況というのは、社会で頻繁に見られる光景かもしれません。

 この世には善悪が存在する。しかし、自分は善悪をいつも正確に判断できるわけではない。なので、自分が間違えるかもしれないという謙虚さを持ちつつ、いつもより善い方を選べるよう、最善の努力をし続ける、という生き方が、社会の平和を保つ上で必要なのだと思います。

 その上で、聖書を書いた人々は、神さまを見上げることによって、「自分の考える正しさは、本当に正しいのだろうか?」と日々振り返っていたのかもしれませんね。

誘惑のパターン

 人間は蛇に騙され知識の木の実を食べてしまいましたが、この「誘惑のパターン」は聖書の中で何度も繰り返されることになります。なので、型として覚えておくと、聖書が圧倒的に読みやすくなります。チートスキルです。

 今回の物語では、

 人 蛇 知識の木の実 という3者が登場します。

 そして、お話は

  1. 蛇が人に、善(トーヴ)と悪(ラー)の判断を狂わせる。
  2. 知識の木の実を食べることは悪(ラー)であるが、人にはそれが善(トーヴ)に見える。
  3. 知識の木の実を食べ、破壊的な結果につながる。

 という構造になっています。

 これが「誘惑のパターン」です。

 

 抽象化すると以下の通りです。

 登場するのは

  1. なんか騙されるやつ
  2. なんか善悪の判断を狂わせるやつ
  3. なんか破壊的な結果につながる行動

 そして、話の流れは

  1. 「なんか騙されるやつ」がいて、「なんか善悪の判断を狂わせるやつ」が騙してくる
  2. 「なんか破壊的な結果につながる行動」が善(トーヴ)に見える
  3. 「なんか破壊的な結果につながる行動」を選ぶ → 残念な結果に

 こういうパターンです。

 これは、ドラマ『暴れん坊将軍』で上様が悪事の情報を聞き調査を始めるという流れ並みに、お決まりのパターンです。

子孫のバトル

 世界最古のバイトテロ(?)「知識の木の実つまみ食い事件」の結果、女(イッシャー)と蛇、そして女(イッシャー)の子孫と蛇の子孫の間に憎悪が置かれることになりました。

 つまり、この世界は「ヒトさんチーム」「ヘビさんチーム」の戦場になってしまったのです。神さまがつくった、ラキア(空)によって混沌の海から護られた命のドームは、ヒトさんチームとヘビさんチームが熾烈な戦いを繰り広げるバトルドームと化してしまいました。
 ヒトさんチームとは一体何なのか……そして、ヘビさんチームとは……?

 さらに、蛇が女(イッシャー)の子孫のかかとに傷をつけるが、女(イッシャー)の子孫は蛇の頭に傷をつけるという最終決戦も予告されます。なぜ、最終決戦では蛇の子孫でなく、蛇本人が傷を負うことになるのか……?

 謎は深まります。

 ちなみにキリスト教では、「蛇」、つまりヘビさんチームのリーダーは後に「サタン(敵)」と呼ばれるようになった存在であり、女(イッシャー)の子孫、つまりヒトさんチームのエースは、イエス・キリストだとされています。

 なので、人類は「なんか善悪の判断を狂わせるやつ」とバトルを繰り広げているという解釈ができると思います。

 このサタン(敵)という存在、人格を持った実在する存在と考えるべきなのか、善悪を混同してしまう人間の弱さを象徴的に表現したものなのか、そこは不明です。

 ところで、ヒトさんチームとヘビさんチームって、一体何なんでしょうね?

追放のパターン

 エデンの園の庭師として雇用された人間は、蛇に唆されて知識の木の実を食べるというバイトテロをやらかし、エデンの園出禁という結果になりました。これもまた、聖書に頻出する「追放のパターン」です。

 こちらも割と単純です。

  1. 神がハッピーな世界をつくるために、一緒に働いてくれる人を選ぶ
  2. 選ばれし者が、なんか悪いことをする
  3. 悪いことをしたので、追放される(もしくは、めっちゃ残念なことが起こる)
  4. なんやかんやで神の理想が台無しになる

 これだけです。これも、聖書の中で何度も繰り返されます。

 ドラマ『暴れん坊将軍』で、上様とその従者がお馴染みのBGMに合わせて悪役をぶちのめすのと同じぐらい、お決まりのパターンです。

おわりに

 というわけで、知識の木の実の物語もなんやかんやで盛りだくさんでした。

 まとめると

  • なんかよくわかんないけど、人間は善(トーヴ)と悪(ラー)を混同してしまう。
  • 善(トーヴ)と悪(ラー)を混同すると、なんか残念な結果になる。
  • なんかよくわかんないけど、善(トーヴ)と悪(ラー)混同させる存在があるらしい。(それが人格を持った霊的な存在なのか、人の心の中にある弱さを象徴して語ったものなのかは不明)
  • なんかよくわかんないけど、この世はヒトさんチームとヘビさんチームがバトルを繰り広げる戦場らしい。

 という感じでしょうか。

 ところで、ヒトさんチームとヘビさんチームって、具体的には何なんでしょうね?

 次回は、この続きで「人類の堕落」についてお話しします。

参考資料