大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

『古代オタクが聖書に挑むお話』10

 物語のおさらいです。

 神はエデンの園にいろいろな植物を生えさせました。

見るに望ましく食物として好ましい木々

・園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木」

 そして、人(アダム)には、「園のどの木からも食べて良いが、善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べた日には確実に死んでしまう」と前もって命じていました。

 ヘビは「本当に神さまは園のどの木からも食べないようにと言ったのですか」と言っています。これは、神が人(アダム)に行った「園のどの木からも食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは食べてはいけない」をひっくり返した形になっています。

 はじめ女(イッシャー、後のエバ)は「園の木から食べて良いのです。園の中央に生えている木は、そこから食べても触れてもいけないのです。死んでしまうといけないので」と答えます。神からは善悪の知識の木からは食べてはいけないとだけ言われていたのに、「中央の木」「触れてもいけない」という風に尾ひれがついています。

 神が人(アダム)に命じるのは女(イッシャー、後のエバ)が造られる前なので、伝言ゲームのように、引き継ぎミスが起きていたのかもしれません。または、時間が経って記憶が変化してしまったのかもしれません。

 細かいことはよく分かりませんが、何かしらの誤解が生じているのは確実です。

 ヘビは「死になんかしません。そこから食べた日には、目が開けて善と悪を知るようになることを、神が知っているからです」と言いました。

 そして女(イッシャー、後のエバ)が木を見ると、食べるに良く目に喜ばしく、賢くするのに望ましいように見えました。

 語順や表現は少し変わっていますが、ヘビとの会話の後の知識の木の実の印象は、食べて良い木の説明と大体同じで、それに「賢くするのに望ましい」を追加した感じです。人間はヘビとの会話を経て、知識の木の実が食べて良い実だと思い込まされたということを強調しているのかもしれません。

 

 ヘビと「女」との会話から、ヘビは「他者(神)への不信感を吹き込み、善悪を混乱させる存在」として描かれているような感じがします。蛇という実在する生物を指しているというよりは、「人を悪へと誘う存在」のシンボルとして蛇が使われていると思われます。

 古代中近東の芸術や神話では、蛇はキャラクターとしてよく登場していたそうです。ポジティブやイメージを持たされることもあれば、ネガティブなイメージを持たされることもあったようです。日本においても、蛇は家の守り神であったり、その一方で自然災害と関連付けらたりすることもあります。

 賢いけれど、人間を死に導く存在。エデンの園の神話において、蛇はポジティブかつネガティブなキャラクターとして採用されたのですね。

 後に、エデンの園のヘビはサタンと関連付けられ、悪魔視されるようになりました。ちなみに「サタン」という言葉は、「敵対者」を表し、聖書の中では「敵」とも「サタン」とも訳されます。

 ちなみに、古代中近東の人々は、何かがあれば神や悪魔の仕業と考えていたようです。古代の大和の人々も、都に災害があれば、「神々が天皇に何かを伝えようとしている。問題を解決しないと、さらに大きな災いが起こる」という風に、災害を祟りとして捉えていたそうです。

 聖書が多神教の文化の中で編纂されたことを考えると、そういった視点が聖書に引き継がれていたとしても、おかしくはないと思います。

 古代の人々は、「なぜ人間は悪事に手を染めるのだろう」と考えたとき、「それは人間の善悪を混乱させる霊的存在がいるからだ」と考え、こういった神話を紡いだのかもしれません。

 キリスト教では、悪魔が実在するのかどうか、現代でも論争になることがありますが、もしかしたら、悪魔が実在するかどうかは重要ではなく、「人間の心の弱さをキャラクター化して、自分の心の闇と向き合うこと」が一番重要なのかもしれません。

「悪魔」という概念は、古代の外在化技法なのかもしれません。

 悪魔祓いのような儀式は、現代では宗教の世界だけのことかと思われますが、実はそうではなかったりします。不登校の治療で、儀式が使われたことがあるそうです(東・武長, 2018; 吉川・東, 2010)。家族はお子さんが学校にいけないことについて、家族関係が原因だとか、子どもの性格が原因だとか考えていたそうです。しかしセラピストが、不登校は誰のせいでもなく、子どもに取りついた怠け虫だという感じの説明をして、家族全員で協力して怠け虫をやっつけるように促したそうです。この事例では、もちろんご家族は「怠け虫」が実在すると信じていたわけではありません。しかし、まるで「怠け虫」が実在するかのように振る舞い、家族みんなで「怠け虫」と戦うことにより、お子さんの不登校が解決されたのでした。

「悪魔」についても、同じことが言えるかもしれません。「悪魔」が実在するかは問題ではなく、人々が自分の心の闇を「悪魔」というキャラクターとして捉え、「悪魔」が実在するかのように「悪魔」とバトルをすることに意味があるのかもしれません。

 自分の心の奥底から湧き上がる、欲望や嫉妬さらには憎悪などの感情……。それを自分の感情として向き合うより、まるで「悪魔の仕業」かのように考えると、自分の闇に向き合いやすくなるかもしれません。(もちろん、自分の悪事を「これは悪魔の仕業だから」といって責任逃れするのは良くないですが)

 そのように考えると、神話もあなどれません。現代人は古代人の紡いだ神話を、ただのフィクションととらえがちです。しかし、神話はフィクションだとしても、それはただものではないフィクションなのかもしれません。

 古代の英知がつまった聖書を、宗教家が人々を支配するための道具として悪用してしまうのは、本当に残念なことです。

 

参考文献

  • 東 豊・ 武長 藍 (2018). マンガでわかる家族療法――親子のカウンセリング編―― 日本評論社
  • 吉川 悟・東 豊 (2010). システムズアプローチによる――家族療法のすすめ方(第3版) ミネルヴァ書房