大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

わりと現代日本人向けのキリスト教入門10~エデンの園って何やねん?~

前回は ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

第1回目は ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

はじめに

 どうも、ねだおれです。

 前回まで、天地創造の話をしました。

 今回は、比較的有名かもしれないエデンの園のお話をしていきます。

 引き続き、なぜか奈良の話し言葉に翻訳して解説していきます。

エデンの園の物語

世界の創造

創世記2章4~9節

 これは、神なる主(ヤーヴェ・エロヒーム, Yahweh Elohim)が地と天を造らはった時の、天と地の世代の記録(トルドート, Toldot)や。

 まだ、全部の野の低い木ぃは地にあらへんで、全部の野の草も生えなんだ。神なる主が地の上に、雨降らさはらへんで、地面(アダマー, Adamah)を耕す人(アダム, Adam)がおらなんだよって。

 地から霧(エド,Ed:ここでは「泉」か?)が上がって来て、地面(アダマー, Adamah)の表面全部を潤した。

 そえで、神なる主は 人(アダム, Adam)を地面(アダマー, Adamah)の塵から形造らはった。そえで、鼻の穴に命の息 吹き込まはった。そえで、人は生きとる命(ネフェシュ, Nephesh)になった。

 そえで、神なる主は、エデンの東に園を設けやはった。そえで、そこに造った人を置かはった。

 そえで、神なる主は、見るのに良え感じで食べるのに良え(トーヴ, Tov)全部の木ぃと、園の真ん中に、命の木ぃと善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')の知識の木ぃ生やさはった。

(共通語)

 これは、神なる主(ヤーヴェ・エロヒーム, Yahweh Elohim)が地と天を造られた時の、天と地の世代の記録(トルドート, Toldot)だ。

 まだ、全ての野の低い木は地になく、全ての野の草も生えていなかった。神なる主が地の上に、雨を降らされず、地面(アダマー, Adamah)を耕す人(アダム, Adam)がいなかったからだ。

 地から霧(エド,Ed ここでは「泉」か?)が上がって来て、地面(アダマー, Adamah)の表面全てを潤した。

 それで、神なる主は人(アダム, Adam)を地面(アダマー, Adamah)の塵から形造られた。それで、鼻の穴に命の息を吹き込まれた。それで、人は生きた命(ネフェシュ, Nephesh)になった。

 それで、神なる主は、エデンの東に園を設けられた。それで、そこに造った人を置かれた。

 それで、神なる主は、見るのに良い感じで食べるのに良い(トーヴ, Tov)全部の木と、園の真ん中に、命の木と善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')の知識の木を生やされた。

 

 天地創造が始まります。

 ここでは、前回の聖書箇所では、神さまが「神(エロヒーム, Elohim)」とだけ呼ばれていましたが、今回の箇所は「神なる主(ヤーヴェ・エロヒーム, Yahweh Elohim)」と呼び方が変わっています。これについては、創世記を編纂する際に、神をエロヒームと呼ぶ資料と、神をヤーヴェと呼ぶ資料、つまり異なる2つの資料をくっつけて編纂したため、呼び方が異なるのではないかと言われています。なので、神をエロヒームと呼ぶ部分の元になったとされる仮定上の資料をE資料(エロヒスト資料)、神をヤーヴェと呼ぶ箇所の元になったとされる仮定上の資料をJ資料(ヤハウィィスト資料)と呼びます。

 トルドート(Toldot)を「世代の記録」と訳しましたが、この言葉、系譜や家族の歴史みたなニュアンスを持つ言葉で、「子ども」が語源になっているようです。系譜? なんだか聞き覚えのある言葉ですね。

 人(アダム, Adam)が地面(アダマー, Adamah)から造られるという言い回しは、まるで言葉遊びのようです。

 エド(Ed)は、霧を意味するため、そのまま訳しましたが、一般的には「流れ」「泉」という風に訳されることが多いです。もしかしたら、地下水が霧のようにブシャアアアア!!!っと吹き出てるイメージなのかもしれません。

 ネフェシュ(Nephesh)は、命を指しますが、生き物の存在そのものや意志を表すこともある、なかなか幅の広い言葉です。現代人にとっての「命」「魂」といった言葉とは、持っているニュアンスが異なるかもしれません。

 最後に、「善と悪の知識の木」が出てきます。善(トーヴ, Tov悪(ラー, Ra')です。前回は、神さまは天地創造の働きを進める度に、トーヴ(Tov)と言われていましたが、今回は悪(ラー, Ra')という言葉も出てきました。なんだか不穏ですね!

園を流れる川

創世記2章10~14節

 そえで、川がエデンから流れて、園を潤しとった。そっから分かれて、4つの源流(ローシュ, Rosh)になっとった。

 1つ目の名前はピション。それはハヴィラの地全部を巡っとった。そこには金があった。

 そえで、その地の金は良うて、そこでは、ブデリウムとオニキスの石があった。

 2つ目の川の名前はギホン。それはエチオピアの地全部を巡っとった。

 そえで、3つ目の川の名前はティグリス。それはアッシリアの東に流れとった。そえで、4つ目の川はユーフラテスやった。

(共通語)

 それで、川がエデンから流れて、園を潤してた。そこから分かれて、4つの源流(ローシュ, Rosh)になってた。

 1つ目の名前はピション。それはハヴィラの地全部を巡ってた。そこには金があった。

 それで、その地の金は良くて、そこでは、ブデリウムとオニキスの石があった。

 2つ目の川の名前はギホン。それはエチオピアの地全部を巡ってた。

 それで、3つ目の川の名前はティグリス。それはアッシリアの東に流れてた。それで、4つ目の川はユーフラテスだった。

 

 ローシュ(Rosh)は頭という意味で使われることが多い単語です。ちなみに、頭は薩摩弁で「びんた」です。なので、「4つのびんた」です。ポケモンの「おうふくびんた」を2発食らったみたいで痛そうですね。「びんた」が「顔を平手打ちする」という意味で使われるようになったのは、明治期に薩摩出身の人々が軍や警察で力を持っていたからでしょうか。聖書から話が逸れたので、この辺にしておきます。

 ピションとギホンの正体は不明ですが、エジプトのナイル川を形成する流れであったとする説もあります。

 ティグリスとユーフラテスは、高校で世界史を勉強した人なら誰でも聞いたことがあるであろう単語です。この2つの川に挟まれたのがメソポタミアです。この地域で、バビロニアアッシリアといった強大な国々が生まれました。

 そういえば以前に、聖書ではエジプト、バビロニアアッシリアといった大国は「悪の帝国」として描かれることが多いという話をしたことがあるような気がします。なんだか益々不穏になってきましたね!

人の創造

創世記2章15~20節

 神なる主(ヤーヴェ・エロヒーム, Yahweh Elohim)は人(アダム, Adam)を取って、働いて守るために、エデンの園に置かはった。

 そえで、神なる主は、人に命じて言わはった。

「園の木ぃ全部からホンマに食うて良え。やけど、善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')の知識の木ぃからは食うたらアカンで。そっから食うた日にはホンマに死んでまうさかいに」

 そえで、神なる主は言わはった。

「人が1人ぼっちになんのは良うない(ロー・トーヴ, Lo Tov)。合うた(ネゲド, Neged)助け手(エゼル, 'Ezer)造ったろ」

 そえで、神なる主は、地面(アダマー, Adamah)から、野の獣全部と空の鳥全部を造らはった。そえで、人の所に連れて来やはった。どない呼ぶか見るために。そえで、人が生きた命それぞれを呼んだら、それが名前になった。

 そえで、人は家畜と空の鳥全部、そえで野の生き物全部に名前つけたった。やけど、人に合うた助けは見つからんかった。

(共通語)

 神なる主(ヤーヴェ・エロヒーム, Yahweh Elohim)は人(アダム, Adam)を取って、働いて守るために、エデンの園に置かれた。

 それで、神なる主は、人に命じて言われた。

「人が1人ぼっちになるのは良くない(ロー・トーヴ, Lo Tov)。合った(ネゲド, Neged)助け手(エゼル, 'Ezer)を造ってあげよう」

 それで、神なる主は、地面(アダマー, Adamah)から、野の獣全部と空の鳥全部を造られた。それで、人の所に連れて来られた。どう呼ぶか見るために。それで、人が生きた命それぞれを呼んだら、それが名前になった。

 それで、人は家畜と空の鳥全部、そえで野の生き物全部に名前をつけてあげた。だけど、人に合った助けは見つからなかった。

 神さまは人を、エデンの園で働かせ、エデンの園を守らせるために、エデンの園に置かれました。ということは、草木を世話をする庭師のような感じでしょうか。

 次に、神さまから人への命令です。園のどの木からも食べて良いが、善と悪の知識の木から食べると、死んでしまうとのお達し。善(トーヴ, Tov)と悪(ラー, Ra')の知識の木から食べると、死んでしまう。なんやら意味ありげな台詞です。

 エデンの園をワンオペで守るのは、あまりに重労働です。まさに、良くない(ロー・トーヴ, Lo Tov)ですね。トーヴでない、つまり良くない状態は、すぐに正されなければなりません。

 神さまは、人に合った助けを造ると言われました。この「合った助け」と訳した言葉ですが、一般的には「相応しい助け手」という風に訳されます。ただし、このネゲド(Neged)という言葉は「前に」「向き合う」「平行した」といったニュアンスを含んでいるので、人(アダム)と対等で同等な存在という意味が込められているのかもしれません。「助け手」と訳されるエゼル('Ezer)は、聖書の中ではほぼ神による助けか、助け手としての神自身を指す言葉です。たとえば、「助け(エゼル)は神から来る」「神は私の助け(エゼル)」といった感じです。人(アダム)と全く同等な「助け」を神さまが造ってくださるというのです。

 神さまが造ったのは、いろいろな動物でした。人(アダム)と同じように、地面(アダマー)から造ります。しかし、相応しいエゼルは見つかりませんでした。残念。

エデンの園の庭師アダム。ワンオペ。

創世記2章21~25節

 そえで神なる主は、人(アダム, Adam)を深い眠りに落とさはった。そえで(人は)眠って、(神は人の)片側(ツェラー, Tsela')を取って、そこの肉を塞がはった。

 そえで神なる主は、人から取った片側を、女(イッシャー, Isha)に組み立てて、人のところに連れて来やはった。

 そえで、人は言った。「これは今、わての骨からの骨、わての肉からの肉や。この人を女と呼ぼ。男(イーシュ, Ish)から取られたさかいに」

 せやさかい、男は父と母から離れて、その妻とくっつくことになった。そえで、2人は一体(バサル・エハド, Basar Ekhad:1つの肉)になるんや。

 人とその妻は2人とも裸(アロム, Arom)やったけど、恥ずかしいことあらへんかった。

(共通語)

 それで神なる主は、人(アダム, Adam)を深い眠りに落とされた。それで(人は)眠って、(神は人の)片側(ツェラー, Tsela')を取って、そこの肉を塞がれた。

 それで神なる主は、人から取った片側を、女(イッシャー, Isha)に組み立てて、人のところに連れて来られた。

 それで、人は言った。「これは今、私の骨からの骨、私の肉からの肉や。この人を女と呼ぼう。男(イーシュ, Ish)から取られたのだから」

 なので、男は父と母から離れて、その妻とくっつくことになった。それで、2人は一体(バサル・エハド, Basar Ekhad:1つの肉)になるのだ。

 人とその妻は2人とも裸(アロム, Arom)だったけど、恥ずかしくはなかった。

 神さまは、人(アダム)を眠らせました。さあ、世界最古の外科手術(?)の始まりです。片側(ツェラー, Tsela')と訳した箇所は、一般的には「あばら骨」と訳され、人(アダム)の数あるあばら骨を一本取って、そこから女(イッシャー)を造ったという感じになっています。しかし、ツェラーという言葉は、ある物体の片側を表すことが多く、1本のあばら骨だったかどうか、疑問を呈する学者もいます。というわけで、今回は人(アダム)の片側を取って女(イッシャー)を造ったという感じの訳にしてみました。プラナリアや、ファイナルファンタジーに出てくる物理攻撃で分裂して増殖する敵を思い出してしまいました。すみません。

 神さまが造られた女(イッシャー)に人(アダム)もびっくり。「私の骨からの骨、肉からの肉」というポエムが口から出てきました。自分の体細胞から造られたので、無理もありません。

 ここで、古代神話らしく「それゆえ、人は結婚するようになったのだ」みたいな感じで原因譚(ある物事の原因を説明するお話)として語られます。もともと1つであった人間が2つに分裂し、そしてまた1体になるというのは、面白い発想です。

 最後に、この時点で2人とも全裸であったという衝撃的な事実が出てきます。裸はヘブライ語でアロム。次の箇所でこれと似た言葉が出てくるので、覚えておくと面白いことになります。

エデンの園の物語を深めてみる

 以上、エデンの園が造られ、人が2人造られるまでのお話でした。

 そのそも「エデン」って何やねんって感じですが、ヘブライ語で「喜び」を意味する言葉に由来するそうです。ということは、エデンの園は「喜びの園」ということになりますね。ちなみに、シュメール語のエディンは「平原」や「草原」という意味になるようです。もしかしたら、「喜び(エデン)」と「原(エディン)」をかけた言葉遊びなのかもしれません。

 ちなみに、園から流れるティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアにも、エデンの園と似たような神話があり、そちらでも、男の人が1人、園を守るために配置されるそうです。ワンオペ。

 それではエデンの園の物語も、詩のように味わいながら、思いめぐらせてみることにします。

 この物語から、どんなことが感じ取れるでしょうか。

あれ?

 不審に思われた方もおられるかもしれません。

 天地創造の物語から続けて読むと、まるで世界が2回創造されているかのような感じがします。

 天地創造のお話では、あらゆる生き物を造ってから、最後に人間を男と女に創造したと書かれています。しかし、エデンの園のお話では、男→あらゆる生き物→女という順番で、これでは矛盾してしまいます。

聖書は開始早々矛盾している!?

 これはどういうことでしょうか?

 これについて、キリスト教徒はいろいろな説明を考えてきました。

 ある人は、エデンの園の物語は、天地創造の6日目を別の視点から語っているので、矛盾しているわけではないと説明します。

 またある人は、天地創造のお話とエデンの園のお話では、参考にした資料が異なり矛盾するが、創世記を編纂した人々にとっては、どちらも捨てがたいお話であったため、両方並記したと考える人もいます。

 さらには、天地創造は全てが良い状態で終わっている一方で、エデンの園のお話は、その後の聖書の物語に繋がってくることから、天地創造は神の理想を表現しており、エデンの園のお話は神の理想が達成されなかった現実を表現していると考える人もいます。

 この問題に関しては、キリスト教は未だ共通の合意に達しておりません。ただ、天地創造のお話もエデンの園のお話も、重要だから聖書に含まれているということは確かだと思います。

理想の統治とは

 とりあえず、天地創造のお話で人間が造られた経緯と、エデンの園のお話を絡めて、人間の存在意義について考えてみます。

 天地創造のお話において神さまは、神の形(像)として人間を造り、地上を統治せよと命じられました。一方、エデンの園のお話では、園のために働かせ、園を守らせるために、人間を造られました。

 もしも、創世記を編纂した人々にとって、この2つの物語の間で人間が創造された目的が共通していたならば、「地上を統治する=地上をお世話して守る」ということになります。

 とすると、なんかロマンティックではないでしょうか。神の考える理想の統治とは、お世話して守ることである、みたいな。

 統治する人、つまり支配者は、なんか滅茶苦茶権力があって、やりたい放題みたいなことになりがちです。「地を統治せよ」という聖書の言葉を、「人間が自然環境を搾取して良いという人間中心的な理解」と解釈してしまうのも、この世界における統治の在り方が歪んでいるからです。政治であれ宗教であれ、統治する者、つまり支配者が心優しい人ばかりであれば、「支配する人=めっちゃお世話できる人」というイメージが社会に定着していたはずです。そのような社会であれば、「地を統治せよ」から環境破壊を連想することはなかったのではないでしょうか。

 もし私たちが、仕事の場であれ何であれ、人の上に立つようなことがあれば、その時には「お世話係」のような感覚で、自分の「下」にいる人々を守るために働くべきなのかもしれません。(もちろん「余計なお世話」になってはいけませんが……。)

 頭ん中お花畑みたいな話かもしれませんが、人の上に立つ人々が皆そのような感覚で生きていたら、今よりほんの少しでも優しい世界になるかもしれませんね……。

「人がひとりでいるのは良くない」

 神さまが人(アダム)をつくった時、エデンの園を守るための仕事は、ワンオペ状態で始まりました。辛い。

 そこで神さまは働き手を増員することにされました。そうして、なんやかんやで人がもう1人造られます。しかも、最初の人(アダム)の体細胞を使って造られたクローンみたいな人間です。

 全ての人はもともと1つから始まったと考えてみると、なかなかロマンティックではないでしょうか。人間は本来、歪み合う必要なんてないのです。

 この物語は、「いろんな人がいるのは、ワンオペは良くないと言って神さまが人を増員されたからだ」とも解釈できるかもしれません。

 これは、ミトコンドリア・イブとか人類共通祖先とかの話をしたいのではなく、いろいろな人間が存在することに対する「意味づけ」の話です。自然科学的なHOW(どのように)の説明でなく、宗教的なWHY(なぜ)の説明です。

 私たち人間は、力を合わせて一緒に働くために造られたのです。

 すると、人(アダム)ともう1人の人間、つまり女(イッシャー)は結婚の元型として語られていますが、これは異性間の結婚に限った話ではないのかもしれません。

 キリスト教では、この箇所が「結婚の制定」として読まれますし、実際にそういう側面もあるとは思います。しかし、単にそれだけではなく、違った人間が力を合わせてまるで1体(1つの肉、バサル・エハド)のようになった時、めっちゃスゴイものが生み出されるということを、この物語は教えてくれているのかもしれません。異性愛者による異性間の結婚は、その一例に過ぎないという解釈もできると思います。

 キリスト教が成立した時、ユダヤ人とギリシア人という、違った民族的アイデンティティを持った人々がいました。初期教会の指導者は、ユダヤ人とギリシア人がイエス・キリストによって「1つの家族」にされたと言い、仲よくするよう働きかけました。人が「1つ」になるのは、何も結婚だけではありません。共通の理想を持って人が「1つ」のチームになって正しく働く時、何か素晴らしいものが生まれるのだと思います。

 現代は、「社会の分断」という言葉が何かと聞かれます。神さまは今も、社会の中で歪み合う私たちを見守りながらも、1つ(エハド)になって、一緒に働くよう呼び掛けてくださっているのかもしれません。

エデンの園は男尊女卑?

 エデンの園の物語の中で、人(アダム)から女(イッシャー)が創造される物語も語られているわけですが、これに関して、男尊女卑の根拠として使われてきたと批判されることがあります。しかし近年は、女性が男性に従属する存在として書かれたのではなく、むしろ家父長制に反対するものであったと、指摘されるようになっています(木村, 2019)。

 エデンの園における人(アダム)と女(イッシャー)の関係について、思いめぐらせてみます。

多くのキリスト教会やキリスト教系宗教には、
男尊女卑が根強く残っているという現実があります。
向き合う助け

「女は男をサポートする存在として造られた。だから男が主で女は従なのだ」

 女(イッシャー)の創造の箇所を見たとき、こんな風に言われているように感じるかもしれません。もしかしたら、キリスト教徒の中には、「聖書にこう書いてあるから、男が主導権を握るべきなんだ」と主張する男性もいるかもしれません。しかし、この箇所は本当にそういうことを言っているのでしょうか。

 合う助けと訳しているフレーズですが、ネゲド(Neged)エゼル('Ezer)の2語で構成されています。本文の解説でお話したように、ネゲド(Neged)については、対等に向き合った関係を想定していたとも解釈することができます。さらに、エゼル('Ezer)についても、聖書の中では「神の助け」「神は私の助け」といった、上からの助けを表現するときに使用される語です。「女は男の助け手(エゼル)として造られた」みたいな言い方をすると、女性は補助的な存在に過ぎないのかという感じがしますが、「神は私の助け手(エゼル)」というフレーズは、神より人間が上位にあることを示す者ではなく、寧ろ無力な人間を、圧倒的存在である神が救済するという文脈で書かれたものです。よって、この聖書箇所から「女は男をサポートする役で、男がメイン戦力」みたいに解釈するのは、家父長制によって聖書を解釈しているのではないかと思います。

あばら一本?

「腕の骨が折れた……」

「人間には215本の骨があんのよ、1本ぐらい何よ!」

~『ターミネーター2』ピーター・シルバーマン博士とサラ・コナーの会話~

 人(アダム)から女(イッシャー)が造られるシーンは、神があばら1本を取ったと訳されることが多いです。あばら1本となると、もしかしたら「人間には215本の骨があんのよ、1本ぐらい何よ!」という印象になるかもしれません。しかし、こちらについても先にお話ししたように、ツェラー(Tsela')は片側という意味もありますし、聖書内でこの語が他の箇所で出てくるときは、あばら骨と訳されることはありません。ほぼ「片側」です。なので、もしかしたら人を真っ二つにした2人にしたような感じだったかもしれません。すると、「骨からの骨、肉からの肉」という人(アダム)の言葉とも辻褄が合います。あばらなのか片側なのか、断言することはできませんが、少なくとも女性を軽い存在として描いたわけではないはずです。ただ個人的には、「片側」と訳す方が好きです。

最後に生まれた者

「男が先に生まれたから男が頭。妻は夫に従うべき」

 そう主張するキリスト教徒もいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。確かに、当時の文化では長男坊に特別な地位を与えられます。ただ、聖書の物語の構造としては、「後に生まれた者」が支配者になる、つまり神の支配を完成させる者になるというパターンが多いです。天地創造のお話では人類が最後に創造されていますし、後に登場する物語ではイサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデなど皆お兄ちゃんを押しのけてスターになっています。さらに、お兄ちゃんは悪役にされることが多いです。というのも、聖書では、社会一般では優れた者と見做される者が悪役にされるという、「逆転現象」が頻繁に起こるのです。よって、先に生まれた者の方が優れているという例は滅多に出て来ないです。

 聖書が書かれた時代においては、現代よりも男尊女卑がすさまじく、人数を数える時には男性しかカウントしないという徹底ぶり(?)でした。実際に、聖書の中でも女性は人数から除外されており、これは文化的な限界と言わざるを得ません。しかし、聖書の記者は、文化的な限界の中でも、男尊女卑に抗っていたのだと思います。「後に生まれたから身分が低い」というより、「社会の多数派から、女性は身分が低いと見做されていた」という現状を受けて「女性もいないと人間社会は成立しないでしょう? 男性だけで世の中が回るんですか?」というカウンターパンチを放っていたのだと思います。

 以上のことから、エデンの園の物語は男尊女卑のお話というより、女性が人数に数えられない時代に、敢えて女性を男性と向き合う対等な存在として描くことで男尊女卑に反論していたのだと、個人的には信じています。以上のことから私も、この物語は家父長制に反対するものであったという指摘(木村,2019)を支持します。

おわりに

 以上、エデンの園の物語についてお話しし、そこから思い浮かんだことをつらつらと述べてみました。

 個人的には、アダムのお話は「人は1つの存在から始まったので、皆同胞」「人は皆違うけど、違う人間が力を合わせて1つになる時、なんかスゴイものが生まれる」というメッセージとして受け取れると思います。

 2人目の人間が造られる場面は、保守的なプロテスタントからは「結婚の制定」として読まれてきましたが、単に異性間の結婚の物語としてだけ解釈するには非常にもったいないと思います。寧ろ、異性間の結婚を一例としつつも、人間が協働することの大切さを説いているのだと思います。

 エデンの園の物語、いろいろ良い出来事がありつつも、川の名前や「善と悪の知識の木」といった不穏な要素もありました。これからどうなってしまうのでしょうか。次回は、このまま続けて、有名な「知識の木の実」のお話に突入します。

参考資料