今回は、『エデンの園の、知識の木の実とは何なのか』という話です。
伝統的にキリスト教では、「人類は知識の木の実を食べて堕落した」と言い伝えられていますが、聖書を書いた古代人は、この物語にどのようなメッセージを込めていたのでしょうか。
食べると永遠に生きられるようになる食べ物というのは、古代中近東の神話で登場するモチーフです。他の民族の神話では、神々から勧められた食べ物を断ったため、永遠の命を得損なったというお話もあるそうです。
知識の木の実について、蛇は「神のように善悪が分かるようになる」と言ってエバを唆しましたが、「神のように」というフレーズは聖書のみならず、メソポタミアの神話にも登場します。例えば、ギルガメシュ叙事詩では、大洪水を生き延びたウトナピシュティムという人が、エンリルという神によって、妻とともに「神々のように」され、永遠に生きる者となりました。
「神のように」とか「永遠の命」とかいったフレーズを聞くと、現代人は「宗教クセェエエエエ!!」となりますが、古代中近東の人々にとっては、神話の中で慣れ親しんだフレーズだったのでしょう。
園の中央に生えていた命の木と知識の木以外の木は、見るにも食べるにも良い実が成っていたそうです。割とスルーされがちですが、このフレーズも後々の伏線になるかもしれません。
「知識の木の実を食べた人類が楽園から追放された」という印象が強く、「キリスト教は反知性主義」というイメージを持たれることもありますが、知識自体は聖書の中ではポジティブな意味で使われます。
聖書の中では、知識がポジティブに語られるときは、「神から与えられるもの」として描かれることが多いです。これは、独裁国家の情報統制や洗脳教育のような状態を意図しているのでしょうか。それとも……??
自分で考えることはもちろん大切ですが、人間は時に自分の判断を過信して失敗することがあります。
21世紀では「科学は正確で宗教は迷信深い」というイメージが強いですが、合理性を追求した先に倫理の崩壊を招くことがあります。
現代の日本においても、「社会にとって有益でない人間を排除すれば、社会の生産性が向上して国が豊かになる」という優生思想的な考えが一部で勢力を伸ばそうとしています。
宗教を捨てさえすれば正しく判断できるというような、単純なものでもないようです。
聖書でははじめに、「人類は地上を治めるために神の像として造られた」と描写し、人間の尊さを語ります。しかし、その直後に「人間は神のように善悪を判断しようとして過ちを犯した」という物語を描き警鐘を鳴らします。
一見矛盾しているようにも見えますが、神話を通して人間の相反する姿を描写することによって、古代イスラエルの人々は、「人として生きるとはどういうことか」について考えてほしかったのかもしれません。
宗教の教義を振りかざして人を傷つけたり、合理性を振りかざして誰かを切り捨てたり……。「宗教」の暴力も、「合理性」の暴走も、人間が自分を判断を過信した結果なのでしょう。