大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

わりと現代日本人向けのキリスト教入門9~天地創造って何やねん?(後編)~

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第1回目はこちら

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はじめに

 どうも、ねだおれです。

 前回は聖書の創世神話についてお話しましたが、その内容を深めていくと、どんな発見があるかというお話をしていきます。

 創世神話は文学作品のように作られているので、「これが唯一絶対の解釈だ」というものはありません。古代の書物である聖書を読んでいくと、どのように現代に生きてくるかという一例の話です。

世界は1つのドーム?

聖書は科学と矛盾する?

 時々、宗教VS科学という視点で語られることがあります。

 進化論についての話題が出ると、まるでそれによって聖書が根本から否定されるかのように扱われることがあります。またある人は、聖書に書いてある通り、神は世界を6日間で創造したのであり、人が別の生物から進化したのではないと信じています。

 古代中近東の神話との関連から分かるように、そもそも聖書は現代人が考える「客観的事実」を記した書物ではありません。

 そして、周辺の神話の諸要素を取り込んで、聖書が編纂されていることからも分かるように、聖書の多くの記述は、現代人が想定する「客観的事実」として信じられることを想定したものではないと思われます。

 現代における自然科学的手法は、観測されたデータ(客観的事実)をもとに、仮説を採用するべきか棄却するべきかを考え、「どのように世界が成り立っているか」という客観的に観測できる事実について研究していきます。

 一方、古代における宗教は、思考する人間として生きる中で得られた経験をもとに、「なぜこの世界は存在しているのか」「なぜ人間は存在しているのか」といった、客観的に実証し得ない意味づけについて探求していきます。

 それぞれ、関心の対象も対象に取り組む方法も異なるのです。

 よって、空に「なんか上の水を止めるバリア的なやつ(ラキア,Raqia)」がなかろうと、それは古代中近東の文化から派生した概念であって、それによって聖書の「妥当性」が揺らぐわけではないと、私は思います。

 とはいえ、「聖書は全て客観的事実を書いた書物だ」と信じるように教えられている人にとっては、進化論も、類人猿の化石も、大きな脅威に見えるのかもしれません。ただ、そういった人は、空にあるラキアが「上の海」を止めていることを実証しなければならないでしょう。

神に護られた世界

 古代イスラエルの宇宙観では、世界は海に包まれており、空には、なんかバリア的なやつ(ラキア, Raqia)があって、水が落ちてこないようになっています。そして、そのラキアによって護られたドームみたいな空間の中で、私達は生きています。創世神話の中では語られていませんが、死者の領域は海の底にあります。つまり、ドームみたいな空間の外は死の混沌です。そして、死の混沌から分けられたドームみたいな空間の中に、生命を育む環境があり、その環境によって育まれる生命が繁栄しているのです。

 頭の中お花畑みたいな話だと切り捨ててしまえばそれまでですが、この世界観から、「私たちの生きる環境は、なんか偉大な存在によって護られているらしいぞ」と考えることができます。私たちは、自分の力で生きておるのではなく、神さまによって生かされておるのだと、この創世神話は教えてくれているのかもしれません。

 もしかしたら、古代イスラエルイスラエルの人々は空を見上げて、「神さまがラキアを造ってくれやはったから、私ら生きとんねんなあ(神さまがラキアを造ってくださったから、私たちは生きてるんだなあ)」と感じていたのかもしれませんね。

ドームの中の世界?

めっちゃ良えやん(トーヴ・メオッド)

「ヨシ!」の連続

 聖書の創世神話では、神さまが天地開闢の働きを進められるたびに、ご自分で状況を目視で確認して「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされます。さらに、世界を造り終えると、完成品はめっちゃ良かった(トーヴ・メオド, Tov Meod)らしいです。

 世界を構成するあらゆる要素は良い存在として造られ、草木国土に生きとし生けるもの全て、良い存在として造られたのです。

 この世界は偶然に意味も無くできたのではなく、意図的に良い存在として造られたとする信仰が、そこにはあります。

ヨシ!

終わらぬ7日目?

 はじめの創世神話において、神さまは6日間で世界を創造され、7日目に休まれました。

 ヘブライ語において7は、完全性を意味するシンボルとして使用されることが多いです。ということは、この「7日目」というのは、世界が完全な状態であることを強調するためのものだったのかもしれません。

 すると、7日目に、一日の終わりの記述である「夕があり、朝があった」がないということは、神さまが休まれ、他の被造物に世界の運営を任せることによって、世界の創造が完了し、世界が動き出したということを強調していたのかもしれません。

現実と神の理想

 現実の歴史、現在の出来事を見ていると分かる通り、この世はドロドログチャグチャです。

 国と国は戦争し、人と人は傷つけあい奪い合い、社会では搾取や暴力が蔓延るという、まさに地獄のような状態です。

 そして、人々を救うためにつくられたはずの宗教すら、人々を抑圧し支配するためのシステムと化しているという現実があります。

 善(トーヴ, Tov)でなく悪(ラー, Ra)が地を覆いつくしている現状があります。

 聖書のはじめの創世神話は、「未だ成らざる神の理想」を描いているのかもしれません。

 とすると、神さまは、未だ成らざる理想に向けて、理想の世界をつくるために、今も人々に呼びかけておられるのかもしれませんね。

すべての人は「神の形(像)」

神の形(像)、神の似姿として

 神さまは、神の形(像)、神の似姿として人を造られました。

 現代の日本人にとっては、仏像を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。仏像が仏を表現するよう造られたように、聖書においては神の像である人間が神さまを表現するよう造られました。

 神の像は、古代中近東では独特な意味を持っていたようです。当時、王など限られた支配階級の人間のみが「神の像」とされ、神の代理人として、政治的な権力や宗教的な権威を独占していました。しかし、天地創造の場面において神さまは、男から女まで、すべての人間を神の像として造られ、地を治めるよう命じられたと書かれています。すべての人間は、平等に神の像なのです。

環境破壊の原因?

 神さまは人間に「地を治めよ」と命令されたと聖書にはありますが、この箇所について、「人間が地を支配する存在として書かれているので、西洋人は自然環境を人間中心に捉えている。この聖書箇所は自然搾取の元凶だ」と批判されることがあります。でも、ちょっと待ってください。聖書は中近東の文化から生まれた書物です。産業革命時代の西ヨーロッパで書かれた書物ではありません。古代中近東の人々は、現代人と同じ自然観は持っていなかったはずです。彼らは、世界を神さまによって造られたドームと考え、自分たちは神さまが造られたドームの中で生かされていると信じていたのだと思います。「欧米」における聖書解釈と環境破壊に関連があるなら、その時代の人々の文化や聖書解釈の仕方、特にその時代の文化を前提にして聖書を拡大解釈していないかを検討する必要があるでしょう。

 神さまから地を治めるよう命じられたのは、言わば業務委託のようなものだと思います。自分たちの、自然との関わり方が、地上における生き方が、神さまの慈悲の御性質を表現するものであるかという点について、いつも振り返る必要があるのでしょう。

人間の尊厳と責任

 地を治めるという命令についても、古代中近東の神話と比較すると違った見え方がしてきます。シュメール神話やバビロン神話において人間は、神の仕事を肩代わりするための奴隷として造られます。もしかしたら、聖書の創世神話は、既存の人間観に反論したかったのかもしれません。自然を支配する云々以上に、人間は神の奴隷ではなく、尊厳ある存在として造られたということが、メッセージの中心なのかもしれません。

 一般的に、キリスト教というと、神が全てを完璧にコントロールしているというイメージがあるかもしれません。そういう神学を掲げている教派もありますが、私にとっては、神さまは多くの決断を人間に委ねているように思います。神さまは、人間を奴隷として造るのではなく、共に地を治める代理人として造られました。人間は尊厳ある存在として造られ、自由意志を与えられており、それ故に、責任も大きいということなのかもしれません。

 世界の全てを完璧にコントロールし、人間に自由意志を持たせない神と、人間に自由意志を持たせ、人間と権威を共有し、人間の間で働くことを好まれる神。皆さんはどっちの神が好きでしょうか。

おわりに

 以上、はじめの創世神話から思い浮かんだことをつらつらと書き散らしてみました。これまでの解説と重複する部分も多かったかもしれません。

 聖書を、字義通り信じるべき書物や、人生の答えをくれるルールブックや教科書として読むと、天地創造の場面は「出来事の羅列」としてスルーされがちです。しかし、古代中近東の神話や文化を素材として、そこに神さまの息吹が吹き込まれ、芸術的に編纂された書物として聖書を味わうとき、ほんの少しの箇所からでも、いろいろ感じ取ることができるのだと思います。もちろん、これらは絶対的な解釈などではありません。しかし、聖書を通して思いを巡らせつつ生いる中で、人は神と対話できるのだと思います。

 次回は、創世記2章の、有名なエデンの園」の物語についてお話したいと思います。