大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

わりと現代日本人向けのキリスト教入門8~天地創造って何やねん?(前編)~

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第1回目はこちら ↓

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はじめに

 どうも、ねだおれです。

 今回からついに、聖書の内容に入っていきます。

 聖書の一番初めの書『創世記』は、創世神話から始まります。

 ということで、今回は聖書の創世神話についてお話しします。

 とは言え、いきなり聖書の創世神話について語ってもピンと来ないので、古事記創世神話と、聖書と文化的につながりとあるエジプトとバビロンの神話と比較しながら、物語の構造を追っていきます。

日本神話(古事記

 日本にも創世神話があります。

 いろいろありますが、今回は『古事記』の創世神話を見てみましょう。

 原文は漢詩で、そのまま載せても私も読めないので、角川文庫の『新版 古事記 現代語訳付き』(中村,2009)の現代語訳から引用します。

 まず、序文において天地創造以前のことについて言及されています。

(陛下の)臣である安萬侶が申し上げます。そもそも宇宙のはじめの混沌が、やっと一つに固まってきたところで、まだ気も形のくまどりも現れず、だから何かに名づけようもなく、何かの作用もないから、そのような状態であったけれど、混沌が初めて二つに分かれて天と地になり、その天に三人の神が天神の始めとなり、陰も陽も初めて分かれてその地に男女二伸が万物の祖先とおなりになった。 (中村,2009)

 そして、創世神話の冒頭部分では天と地が開け、三柱の単独神が出現します。その次、「地上世界は幼く、水に浮かぶ動物性脂肪のようで、水母のようにぷかぷかと漂っていた時」に、二柱の単独神が出現します。こうして、世界が形成されていくたびに単独神が出現していきますが、やがて夫婦の神が出現し、こうして現れたのがイザナギイザナミです。

 イザナギイザナミは、矛を空から下界へ差し込み、海をかき回します。そして、矛から垂れる塩が積み重なって島が出来、その島に降りて、多くの島々を生み出します。イザナギイザナミは神々をも生み出し、神々の系譜が受け継がれていくことになります。

 古事記においても、世界は原始の混沌の状態からスタートしています。

 形もなく、作用もないという状態です。

 そこから、天と地が分かれ、陰と陽が分かれ、神の夫婦が現れます。

 世界は、原始の混沌が分かれ、発生していくという感じです。

 そして、海と陸が分かれ、神々の系譜がスタートしていきます。

 誰かが混沌を分けるのではなく、自然と混沌が分かれて世界が発生していくという点は、とても特徴的ですね。

雨沼矛(あめのぬぼこ)

エジプト神話

 エジプト神話における天地創造については、前回少し触れていましたが、おさらいも含めつつお話しします。

 まず、原初の水の神ヌンが創造神アトゥムを生みます。アトゥムから太陽神ラーが生まれ、さらにラーから大気のシュウと湿気の神テフネトが生まれます。

 そして、シュウとテフネトの夫婦から、大地の神ゲブと天の神ヌトが生まれ、夫婦になります。

 そして、大地の神ゲブと天の神ヌトが抱き合っているところに、大気の神シュウが割って入り、2人を引き離します。このことによって、天と地が出来上がります。

 エジプト神話においても、原始の混沌からのスタート、分けることによる創造、そして、神々の系譜という要素が見られます。

 エジプト神話の場合は、神々が世界を構成する要素になっているという点が特徴的です。

バビロン神話

 バビロン神話における天地創造についても、前回少し触れていましたが、やはりおさらいも含めつつお話しします。バビロン神話は、聖書の神話と非常に似ている、というかバビロン神話の影響を色濃く受けて聖書の創世神話がつくられた可能性が高いので、ちょっと長めの説明になります。

 淡水の神アプスーと塩水の神(原初の海の神)ティアマトが、たくさんの神々を生み出します。

 2人によって生み出された若い神々は非常にうるさいため、アプスーは若い神々を滅ぼそうとします。

 その計画を知った知恵の神エアは、アプスーを殺害します。

 その子マルドゥクも、後にティアマトとバトルになり、ティアマトを殺害します。

 マルドゥクは、ティアマトの死体、つまり原初の海を2つに切り裂き、天と地を創造します。

 そして、マルドゥクは天に神殿をつくります。

 その次、マルドゥクは星座と時間を定めます。

 さの後、マルドゥクは陸と海を分けます。ティアマトの目からティグリス川とユーフラテス川が流れだし、乳房は山になります。

 マルドゥクは神々の王になり、バビロンを建設します。バビロンはアッカド語で、「神の門」を意味します。

 最後に、マルドゥクは人間を創造し、神々の仕事を肩代わりさせようとします。人間がお掃除ロボットや洗濯機などをつくって、家事を肩代わりさせるようなノリかもしれません。人間は神々の家事ロボットなのです。

 人間を造るためには神1名の血が必要と言うことになり、敵対していた神を殺害し、その血から人間を創造します。

 バビロン神話においても、原初の海の神であるティアマトから多くの神々が生まれ、そして、ティアマトの遺体が引き裂かれることによって、天と地が創造されます。また、アプスーとティアマトから始まる神々の系譜があります。

 バビロン神話は、神々のバトルによって世界が造られたという点が特徴的ですね。

聖書における天地創造

 日本の大和、エジプト、バビロンと3つの民族の創世神話を見てみましたが、3つとも原始の混沌、分けることによる創造(大和の場合は、自然に分かれることによる発生)、神々の系譜という要素が共通しているように思われます。

 聖書は一神教多神教創世神話とどのような違いがあるのでしょうか。

 そして、聖書のテキストの中に、どのようにエジプトとバビロンの影響が現れているのでしょうか。

 早速見てみましょう。

※聖書の翻訳については、「NET Bible」のヘブライ語テキストと英語翻訳(NET2)と単語解説、「Interlinear Greek Englilsh Septuagint Old Testament」のギリシア語テキストと逐語訳、「Blue Letter Bible」のヘブライ語テキスト、ギリシア語テキスト、英語翻訳(欽定訳)と単語解説を参考にして、翻訳してあります。翻訳文については、以前の記事について「関西弁が面白い」との感想もTwitterでいただいたため、せっかくなので奈良の話し言葉(特に北和の言葉)への翻訳に挑戦しました。なるべく奈良の年配の方の話し言葉に寄せてありますが、著者の周囲ではかなり「関西共通語」に近い話し言葉が使用されているため、『奈良県のことば』(平山 et al, 2003)も参考にしています。日本語、英語、ギリシア語、ヘブライ語それぞれにおいて、著者(ねだおれ)の語学力が至らぬため、聖書と大和ことば本来の良さを引き出せていないと思われますが、修行中のためどうかご了承ください。

原初の混沌

創世記1章1-2節

 はじめに、神さまは天と地を造らはった。

 地は形のうて空しいて、

 闇は深淵の面にあって、神さまの霊が水の面を動いてた。

(共通語)

 はじめに、神は天と地を造られた。

 地は形がなくて空しくて、

 闇は深淵の面にあって、神の霊が水の面を動いていた。

 冒頭の導入です。

「形なく空しい」と訳したのは「トーフー・ヴァ・ボフー」というヘブライ語です。豆腐ではありません。

 文字通りに「無の状態」を指しているというよりかは、「秩序がなく機能するものもない混沌の状態」というニュアンスが強い言葉だそうです。

 地という言葉が登場しますが、神の霊が水の面を動いていたという描写があり、陸も海もない大変カオスな状態のようです。

 聖書もまた、原始の混沌から始まり、形もなく作用もないという点において、古事記創世神話とも少し似ている感じがしますね。

第1日

創世記1章3~5節

 神さまが言わはった。「光あれ」そしたら、光があった。

 神さまは光を見て、「ヨシ!(トーヴ,Tov)」としやはった。

 そして、神さまは光と闇を分けやはった。

 神さまは、光を昼と呼ばはって、闇を夜と呼ばはった。

 夕があって、朝があった。第1の日やった。

(共通語)

 神は言われた。「光あれ」そして、光があった。

 神は光を見て、「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 そして、神は光と闇を分けられた。

 神は光を昼と呼ばれ、闇を夜と呼ばれた。

 夕があって、朝があった。第1の日だった。

 この世に光がなかろうと、神の一声で光が出現してしまいます。

OK, Google! 照明つけて」どころではありません。

 トーヴ(Tovは「良い」を表すヘブライ語です。聖書を貫くテーマとなる言葉なので、なんとなく意識しておくと、後々面白いことが起こります。

 ここで、光と闇を分けるというフレーズが出てきました。

 ただ、昼と夜という概念が登場しているので、どちらかと言うと、時間概念の創造というニュアンスかもしれません。

 次々に、原始の混沌が分けられていきます。

 神さまは、次は何を分けられるのでしょうか。

第2日

創世記1章6~8節

 神さまは言わはった。「水の中にバリア的なやつ(ラキア, Raqia)があって、水と水を分けぇ」

 神さまはバリア的なやつ(ラキア, Raqia)を造らはって、上の水と下の水を分けやはった。そないなった。

 神さまはバリア的なやつを「天(シャマイム, Shamaim)」と呼ばはった。

 朝があって、夕があった。第2の日やった。

(共通語)

 神は言われた。「水の中にバリア的なやつ(ラキア, Raqia)があって、水と水を分けろ」

 神はバリア的なやつを造られて、上の水と下の水を分けられた。そうなった。

 神はバリア的なやつを「天(シャマイム, Shamaim ※天を指すことも)」と呼ばれた。

 朝があって、夕があった。第2の日だった。

 突然謎のバリア的なやつ(ラキア)が出現しました。一般的にはと訳されるし、空という意味を持った単語なのですが、古代イスラエルの宇宙観では、この天井的なやつ、「ラキア」が上の水を止めているということになっているので、今回はバリア的なやつと訳してみました。

 水の中にバリア的なやつ(ラキア, Raqia)が入り込んで水を押し上げ、そうしてできた空間の中に私たちの世界があります。そして、そのバリア的なやつのさらに上に、神の領域、天(シャマイム, Shamaim)があります。それが、古代イスラエルの世界観です。

 今日の世界では、技術者は宇宙までロケットを飛ばし、一般市民も地上から国際宇宙ステーションを目視できるようになってしまいました。そんなSFめいた世界を生きる私たちは、上空に「ラキア」や海は存在しないと知っているわけで、現代と古代では宇宙の見え方が大きく異なります。だからこそ、古代の宇宙観に関する知識は、今後聖書を読んでいく上でかなり便利なチートスキルになっていきます。

 大気の神が天と地を分けたように、そして、マルドゥクが原初の海の女神であるティアマトの死体を上下に引き裂いたように、神は混沌の海を2つに分けます。しかし、夫婦を無理矢理引き離したり、荒れ狂う混沌の海とバトルしたりということもなく、「バリア的なやつがあって水を分けろ」の一言で、海を分けてしまいました。

第3日

 創世記1章9~13節

 神は言わはった。「天(シャマイム, Shamaim)の下の水が1つの所に集まりぃ。そいで、乾いた地が現れぇ」

 そないなった。

 神は乾いた地面を地と呼ばはって、集められた水を海と呼ばはった。神は見て「ヨシ!(トーヴ, Tov)」としやはった。

(共通語)

 神は言われた。「天(シャマイム, Shamaim)の下の水が1つの所に集まれ。それで、乾いた地が現れろ」

 そうなった。

 神は乾いた地面を地と呼ばれ、集められた水を海と呼ばれた。神は見て「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 3日目に分けられたのは、海と地でした。

 イザナギイザナミが海水をかき回して塩の塊から初めの島をつくったように、水が分けられ、海と地になります。

 全方向海に囲まれて生きている日本人(奈良県民には実感ないですが)からすると、「水が一か所に集まっとるって、どういうこっちゃねん?」となります。古代のイスラエル人が「世界」として認識していたのは、東はメソポタミアやペルシアから西は地中海までであり、現代の世界地図のような地形は認識していないので、もしかしたら、地中海側に水を集めていたと考えていたのかもしれませんが、この辺りはよく分かりません。

 ともあれ、無事に乾いた地が現れました。

 海は混沌、乾いた地は神に護られた領域の象徴となっていきます。

 第3日は、次のフェイズへ移行します。

創世記1章11節~13節

 神さまは言わはった。「地面は草木生やしぃ。種つける草と種ある実ぃつける木を、種類ごとに地面に生やしぃ」

 そないなった。

 地面は草木を生やした。種類ごとに種つける草と、種類ごとに種ある実ぃつける木を。神さまは見て「ヨシ!(トーヴ, Tov)」としやはった。

 朝があって、夕があった。第3の日やった。 

(共通語)

 神さまは言われた。「地面は草木を生やせ。種をつける草と種のある実をつける木を、種類ごとに地面に生やせ」

 そうなった。

 地面は草木を生やした。種類ごとに種をつける草と、種類ごとに種のある実をつける木を。神さまは見て、「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 朝があって、夕があった。第3の日だった。

 ついに、植物が創造されました。

 草木が生えます。もう一面草だらけです。

 空があり、海と地があり、植物があります。

 被造物が住まうための空間、生命を育むための場所が出来上がりました。

 なかなかに良い感じ、トーヴ(Tov)です。

第4日

創世記1章14~19節

 神さまは言わはった。

「明かりが天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)にあって、昼と夜を分けて、季節と日ぃと年のしるしになりぃ。そいで、天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)の所で光って、地ぃ照らしぃ」

 そないなった。

 神さまは2つの大きい明かりを造らはった。昼を治めさすための、大きい方の光と、夜を治めさすための、小さい方の光を。そいで、星も造らはった。

 神さまは、天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)に、地を照らす明かりを置かはった。昼と夜を治めして、光と闇を分けるために。

 神さまは見て、「ヨシ!(トーヴ,Tov)」としやはった。

 夕があって、朝があった。第4の日やった。

 (共通語)

 神さまは言われた。

「明かりが天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)の上にあって、昼と夜を分けて、季節と日のしるしになれ。そして、天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)の所で光って、地を照らせ」

 そうなった。

 神さまは2つの大きい明かりを造られた。昼を治めさせるための、大きい方の光と、夜を治めさせるための、小さい方の光を。そして、星も造られた。

 神さまは、天のバリア的なやつに、地を照らす明かりを置かれた。昼と夜を治めせて、光と闇を分けるために。

 神さまは見て、「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 夕があって、朝があった。第4の日だった。

 なんか大きい方の光と小さい方の光が出てきましたが、太陽と月です。

「へ!? 1日目に光造ったんとちゃうん!?」と思われる方もおられるかもしれませんが、先にお話ししたように、1日目の光と闇は時間の概念と読めるかもしれません。

「なんで太陽と月って言葉が出て来やへんの?」と思われるかもしれませんが、当時の言葉で「太陽」と言おうとすると、太陽神の名前になってしまうため、敢えて使わなかったのではないか、と言われています。現代日本で言えば、Sunを表現する単語が天照(アマテラス)しかないという感じでしょうか。

 とりあえず、神さまは太陽に昼を治めさせ、月に夜を治めさせますが、「治めさせる」というのも面白いですね。代理人に業務委託してるような感じがします。

第5日

創世記1章20~23節

 神さまは言わはった。

「水は生き物でいっぱいなって、鳥は地の上、天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)の下 飛び回りぃ」

 神さまは、大きい海の怪獣と、全部の群れて水の中を動き回る生き物を種類ごとに、そいで、全部の翼がある鳥を種類ごとに造らはった。

 神さまは、見て「ヨシ!(トーヴ,Tov)」としやはった。

 神さまは、祝福して言わはった。

「産みぃ、増えぇ。海の水 満たしぃ。鳥は地ぃ満たしぃ」

 夕があって、朝があった。第5の日やった。

(共通語)

 神さまは言われた。

「水は生き物でいっぱいになって、鳥は地の上、天のバリア的なやつ(ラキア, Raqia)の下を飛び回れ」

 神さまは、大きい海の怪獣と、全部の群れて水の中を動き回る生き物を種類ごとに、そして、全部の翼がある鳥を種類ごとに造られた。

 神さまは、見て「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 神さまは、祝福して言われた。

「埋め、増えよ。海の水を満たせ。鳥は地を満たせ」

 夕があって、朝があった。第5の日だった。

 水の生き物と空の生き物が創造されました。

 海の怪獣なんてものも造られていますが、古代中近東の神話には、海の大蛇や竜のような存在が登場します。大抵、そういった存在は破壊的な力を持っているのですが、ここでは神に造られた存在であり、他の生物と同じように、良い(トーヴ)存在としてヨシヨシされています。そして、海の怪獣を含め、全ての生き物が神さまによって祝福されています。

海の怪獣もつくろう

第6日

創世記1章24~25節

 神さまは言わはった。

「地は、生き物を種類ごとに生み出しぃ。家畜、這う生き物、地の生き物を種類ごとに」

 ほいで、そないなった。

 神さまは地の生き物を種類ごとに、家畜を種類ごとに、全部の地上を這う生き物を種類ごとに造らはった。

 神さまは、見て「ヨシ!(トーヴ,Tov)」としやはった。

(共通語)

 神さまは言われた。

「地は、生き物を種類ごとに生み出せ。家畜、這う生き物、地の生き物を種類ごとに」

 それで、そうなった。

 神さまは地の生き物を種類ごとに、家畜を種類ごとに、全部の地上を這う生き物を種類ごとに造られた。

 神さまは、見て「ヨシ!(トーヴ, Tov)」とされた。

 地上生物が創造されていきます。

 聖書で後に悪役として登場する蛇もまた、良い(トーヴな)存在として造られ、祝福されています。

創世記1章26~28節

 神さまは言わはった。

「私らの形(像: ツェレム, Tselem)に、私らに似せて、人造ろ。そいで、海の魚と空の鳥と地の全部の家畜と、全部の這う生き物と、地を治めさせよ」

 神さまは、神さまの形に人を造らはった。

 神さまの形に人らを造らはった。

 男と女に人らを造らはった。

 神さまは、祝福して言わはった。

「産みぃ、増えぇ、地ぃ満たして従わせぇ。海の魚、空の鳥、全部の地ぃ這う生き物治めぇ」

(共通語)

 神さまは言われた。

「私達の形(像: ツェレム, Tselem)に、私達に似せて、人を造ろう。そして、海の魚と空の鳥と地の全部の家畜と、全部の這う生き物と、地を治めさせよう」

 神さまは、神さまの形に人を造られた。

 神さまは、神さまの形に人を造られた。

 男と女に人を造られた。

 神さまは、祝福して言われた。

「埋め、増えろ、地を満たして従わせろ。海の魚、空の鳥、全部の地を這う生き物を治めろ」

 ついに人間が創造されました。

 人間は、神の像、神に似た存在として造られています。

 さらに、他の被造物を治めるための存在として造られたと記されています。

 太陽と月のように、神から業務委託されて地上を治める代理人といった感じでしょうか。バビロン神話でマルドゥクが「神々の労働を肩代わりさせるために」奴隷として人間を創造したのと比べると、かなりの好待遇であることが分かります。管理職で、すべての植物が給付されているわけですから。

 聖書の創世神話では、人間はかなり特権的な存在として描かれているようです。しかし、それは同時に人間の責任が重大であることを意味しているのかもしれません。

人間は神の形(像)

創世記1章29~31節

 そいで、神さまは言わはった。

「見てみぃ、大地全体にある全部の種つける植物と、全部の種つける実ぃある木ぃ、あんたはんらにあげたわ。あんたはんらの食べ物になるわ。そいで、全部の地の生き物、全部の空の鳥、全部の地を這う生き物、命ある全部の生き物に、全部の緑の植物、食べ物としてあげるわ」

 そないなった。

 神さまは造ったもの全部を見やはった。

 見てみぃ、めっちゃ良かった(トーヴ・メオド, Tov Meod)。

 夕があって、朝があった。第6の日やった。

(共通語)

 そして、神さまは言われた。

「見てみなさい、大地全体にある全部の種をつける植物と、全部の種をつける実のある木を、あなた達にあげたよ。あなた達の食べ物になるよ。そして、全ての地の生き物、全ての空の鳥、全ての地を這う生き物、命ある全部の生き物に、全ての緑の植物を、食べ物としてあげるよ」

 そのようになった。

 神さまは、造ったもの全てを見られた。

 見てごらん、とっても良かった(トーヴ・メオド, Tov Meod)。

 夕があって、朝があった。第6の日だった。

 全ての生き物に、食べ物として植物が与えられます。

 創世記1章の世界には、弱肉強食の法則は存在せず、ひたすら植物を食すことになっているそうです。

 そして、最後にとどめのトーヴが入ります。

 しかも、めっちゃ良い(トーヴ・メオド)らしいです。

第7日

創世記2章1~3節

 天と地とそこにおる全部が完成した。

 7日目に、神さまはやったはった働き全部を終わらさはった。ほいで、7日目にやったはった全部の働きを休まはった。

 神さまは、7日目の日を祝福して、それを聖なるものとしやはった。

 その日に、神さまが始めはった働き全部を休まはったよって。

(共通語)

 天と地とそこいる全部が完成した。

 7日目に、神さまはされていた働き全部を終えられた。そして、7日目にされていた全部の働きを休まれた。

 神さまは、7日目の日を祝福して、それを聖なるものとされた。

 その日に、神さまが始められた働き全部を休まれたから。

 ついに完成です。

 神さまは休みました。お疲れ様です。

 ここから、後の聖書の物語でも毎週土曜日を安息日として休めという話が出てきます。

 今でもユダヤ人は安息日を守りますし、一部のキリスト教徒も実践しているようです。

 ちなみに、ユダヤでは夕方に日付が変わります。なので、「夕があって、朝があった」は、現代で言う「朝になって、夜になった(そして日付が変わった)」みたいなノリです。

 あれ?7日目は「夕があって、朝があった」の記述がありませんね。

 これはどういうことでしょうか?

 気になりますね!

まとめ

多神教との連続性

 聖書の創世神話をざっと追ってみました。

 以前からも説明していたように、バビロン神話やエジプト神話といった多神教の影響がチラホラ見られると思います。

 混沌からの創造、天と地を分けること、そして海の怪獣……。

 現代日本人からすると「一神教VS多神教」みたいな構図が思い浮かびますし、実際に一部の神道入門の書物などは一神教多神教を相容れぬものとして語っていることもあります。しかし、聖書は一神教の書物とはいえ、多神教の文化を前提として形成されたものです。一つの神だけを崇めますが、多神教との連続性があるのです。

 意外と古事記と似通っている部分も見つかりました。混沌・機能がない状態から、分化して機能のある状態になるという発想は、自然発生的か意図的な創造かという点を除けば、似ているように思われます。

 古代イスラエルと古代大和に影響関係があったとは考えにくいですが、もしかしたら、文化は違えど、人は似たようなことを考えることがあるということなのかもしれません。また、ユング心理学のように、人類に普遍的な無意識があったかもしれないと考えてみると、なんだか夢が膨らみますね。

 多神教創世神話との最大の違いは、唯一の神によって意図的に世界が創造されたという点です。バビロン神話では神々のバトルによって世界が造られ、エジプト神話では神々の家族によって世界が構成されています。聖書の神話では、唯一の神が指揮者となって、言葉を発すれば全てその通りに実現していきます。しかしそれでも、太陽、月、人間の3者は世界を治める「管理職」として描かれ、神は被造物と権威を共有しています。そこから考えると、聖書では太陽と月と人間が、多神教的神々のポジションにいるのかもしれません。

 そういえば、「神々の系譜」が出てきませんね。何処へ行ってしまったのでしょうか? 「神々の系譜」という要素は、聖書から完全に消滅してしまったのでしょうか?

で、創世神話は何言いたかったん?

 以上、創世神話を見てみましたが、どうでしょうか。

「ほぉ~! 聖書って有難いお話し書いてあんな~!」ってなるでしょうか?

「は? 物語は分かったけど、これが何の意味あんの? ただの神話やん」と思われる人の方が多いかもしれません。

 はたまた、「世界がドームの中? 神が世界を6日で造った? 現代と全然価値観ちゃうやん。こんなん時代遅れの書物やん」と思われる人もおられるかもしれません。

 というわけで、次回はこのおとぎ話のような創世神話について思いめぐらせた時、どのようなことが得られるか、お話していきます。聖書は単一の答えを出すだけの教科書やルールブックではありませんし、万葉集のように思いめぐらせることに価値があります。次回はその話をしていきます。

 

参考資料