はじめに
どうも、ねだおれです。
キリスト教とメンタルについての試論、第4回目です。
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前回は、神と人との協働<シュネルゲイア>によって、神の像が癒されるという考えと、静寂<ヘシュキア>と祈りを通して、神と人との協働<シュネルゲイア>に参与するという考えについて、お話ししました。
ついに今回から本格的に、静寂<ヘシュキア>と祈りのお話に入っていきます。
静寂<ヘシュキア>
古代の修道士たちは、徹底して孤独と静寂<ヘシュキア>を求めました。
生きていると、いろいろな思い煩いに苛まれるからです。
怒り、妬み、欲望……。
いろいろな感情が襲い掛かってきます。
彼らは、魂を徹底的に浄化したいと望んだため、社会から撤退するという選択をしました。
まずは、人がいない所に引き籠ることで、外的な静寂を獲得しました。
さらに、祈りを生活を通して、内面の静寂を求めました。
古代人も、「社会の中で生きていると煩いが増す」と気づいていたのです。
古代の修道士は、徹底的に孤独を追求しましたし、そこには行き過ぎている部分もあったかもしれません。
それに、現代に生きる私たちは、社会から完全に孤立して生活することは、不可能です。
しかし、毎日5分か10分、時間に余裕があれば30分や1時間、あるいは、週に1回30分か1時間など、静寂<ヘシュキア>に留まる時間をつくるという方法であれば、可能かもしれません。
一定の時間、スマホを閉じ、世間の喧騒や情報の氾濫から逃れ、静寂
<ヘシュキア>に浸るというのは、いかがでしょうか。
祈りへの全集中
一定の時間自室に籠り、PCの電源を切り、スマホを閉じれば、外的な静寂<ヘシュキア>は達成することができます。
しかし、外的な静けさを整えても、非常に煩いものがあります。
内面から沸き起こる不安や自己嫌悪、怒りや嫉妬、人生のあの時期が辛かった、自分は何のために生きているのだろうか、といった、私たち自身の感情や思考が大変煩わしく感じられるのではないでしょうか。
一週間の仕事を終えれば、「やっと1週間が終わった! 明日は休みだ!」とルンルン気分で帰宅できるかもしれませんが、休みの日になると、「この日が終わったら、また仕事だ……」と気が休まらない時もあるかもしれません。
夕方になると、「ああ、休みが終わってしまう」と落ち込み、夜になると、「明日からまた仕事だ……」と、仕事への不安や緊張で辛くなることもあるかもしれません。
とくに不安障害を持たれていたり、不安傾向の強い方や、抑うつ傾向の強い方であれば、こういった「内なる喧騒」に悩まれたことが多いと思います。
臨床心理学も通俗心理学も知らない古代の修道士は、「祈りに全集中する」という方法で、「内なる喧騒」に立ち向かいました。
次々と湧き上がる、ネガティブな感情や自動思考……。
それを抑えつけるのでもなく、それを掘り下げようとするのでもなく、祈りに意識を集中し、感情反応の連鎖から距離を取ります。
こうして祈りに集中している内に、自分の中でもやもやと動く雑念は静まり、心の中が静かになってきます。
これが、古代のキリスト教徒が求めた静寂<ヘシュキア>です。
そして、祈りに集中する中で、神と語らい、神と人との協働<シュネルゲイア>の中で、神の像としての在り方が癒されていくという流れです。
古代の修道士は、聖書の中から短いフレーズを選んだり、有名な修道士の格言を選んだりして、それを何度も何度も口ずさみました。
古代はいろいろなフレーズがあったのですが、後に数百年の時を経て、東方教会と呼ばれる勢力では、
「主(しゅ)イエス・キリスト、神の子よ。私を憐れんでください」
というフレーズに集約されていったそうです。
私の場合は、
「主(しゅ)イエス・キリスト、神の子よ。罪人(つみびと)我を憐れみ給え」
「主(しゅ)イエス・キリスト、神の子よ。我等を憐れみ給え」
「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)」
辺りを唱えています。
祈りながらでも雑念がどんどん湧いてくるので、短いフレーズの方が集中しやすいです。
なので、「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)」が一番始めやすいかもしれません。
この「キリエ・エレイソン」というギリシア語のフレーズは、正教会やカトリックで古来より多用されており、とてもメジャーです。
「キリエ・エレイソン、キリエ・エレイソン、キリエ・エレイソン……」と、唱えて静寂に浸るのも良いかもしれません。
私の実家は浄土宗だったのですが、雰囲気的には、少しお念仏に似ているような気がします。
「主イエス・キリスト、神の子よ。私を憐れんでください……」
「キリエ・エレイソン……」
決めたフレーズを、決めた時間、繰り返し唱えます。
声に出しても、心の中でも、構いません。
圧倒的な存在の慈悲に身を委ねる感覚で、ひたすら唱えます。
雑念が湧いてきても、大丈夫です。
はじめは、気づいたら考え事をしている、という感じかもしれません。
慣れてくると、「あ、今は気持ちが逸れているな」と気づきます。
自分の意識がどこを向いているか。
これに気づくことがとても大事です。
この意識の視線を、祈りに向けていきます。
意識の視線がどこに向いているか気づけるようになると、やがて、意識の視線をコントロールできるようになってきます。
不安や自己嫌悪や怒りに苦しんでいるとき、意識の視線はそういった感情に向いていきます。
意識の視線が感情に向きすぎると、感情についていろいろな雑念が湧いてきます。
これも、気づいたら祈りに引き戻します。
よそ見をして視線が逸れていくのを戻すように、意識の視点を祈りに戻します。
やがて、心に静寂<ヘシュキア>がもたらされます。
覚醒<ネープシス>と不動心<アパテイア>
祈りの最中、意識の視線に気づくことが大切だというお話をしました。
はじめは、「自分の意識が逸れているか、祈りに集中できているか」という気づきから始まります。
祈りを日々繰り返し続けていると、やがて「自分の感情の動き」への気づきも深まっていきます。
これが覚醒<ネープシス>です。
聖書には、「心を見張りなさい」「いつも目覚めていなさい」といったフレーズが出てきます。
古代の修道士は、自分の内面への気づきを高めることで、罪の力に惑わされない洞察力を身に着けようとしていたようです。
こうして内面への気づきが高まると、怒りや欲望が湧いてきても、「この感情は自分にとって有益なのか? それとも有害なのか?」「この感情の意味は何だ?」ということにも気づけるようになり、ネガティブな感情を受け流す力が身についてきます。これが不動心<アパテイア>です。
ギリシア思想において不動心<アパテイア>とは、ネガティブな感情が全くないことを意味していたようですが、古代のキリスト教徒たちの間では、「ネガティブな感情が湧いてきても、それに振り回されることのない境地」を表す言葉として使われるようになっていったそうです。
どうでしょうか?
マインドフルネスを実践されてきた方は、「めっちゃマインドフルネスと似てるやん!」と思われるかもしれません。
意識のトレーニングをして、内面への気づきを高め、否定的な考えや感情に振り回されないようにするという点で、マインドフルネスと非常に似ていると思います。
おわりに
というわけで、今回は静寂<ヘシュキア>と祈りについて触れました。
覚醒<ネープシス>と不動心<アパテイア>という言葉も登場し、ギリシア語のオンパレードみたいになりました。
内容をまとめると、以下の感じです。
- 祈りに全集中することで、心に静寂<ヘシュキア>をもたらす。
- 短いフレーズをひたすら繰り返す。
- はじめは、意識が逸れていることに気づけることが大事。
- 気づきを繰り返すうちに、意識の視線をコントロールできるようになる。
- 自分の内面への気づき=覚醒<ネープシス>
- 自分の感情にコントロールされないこと=不動心<アパテイア>
次回は、覚醒<ネープシス>と不動心<アパテイア>について、さらに掘り下げてみようと思います。