大和寝倒れ随想録

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キリスト教とメンタルについての試論(3)~神と人の協働<シュネルゲイア>~

はじめに

 どうも、ねだおれです。

 前回は、キリスト教の世界観と人間観から、「神の像」の癒しについてお話ししました。そして、神と人の協働<シュネルゲイア>という概念が登場しました。

 前回はこちら

 

nara-nedaore.hatenablog.com

 

 第1回目はこちら

 

nara-nedaore.hatenablog.com

 

 今回は、この協働<シュネルゲイア>の概念を掘り下げて説明したいと思います。

 次回から、ついに古代の修道院のお話に入ります。

 

聖書を貫く協働<シュネルゲイア>の概念

 前回、神と人が力を合わせることで、人間の持つ神の像としての性質が回復されると、古代の人々が考えていたという話をしました。

 神と人の協働<シュネルゲイア>は、聖書の中で明示されているわけではありませんが、聖書の物語の中の大きなテーマの1つになっていると思います。

 神が人間をつくった目的は、「人間に地上を治めさせること」つまり「人間に地上のお世話をさせること」です。

 一般的に宗教と言うと、教義を信者に信じさせるというイメージがありますし、実際に教義を信じることを最も重要視するキリスト教の教派もあるのですが、神は、自由意志を持った人間と力を合わせて世界を統治することを望んでいるようです。

 なので、人間に対して地上を治める権威、つまり地上のお世話係という役目を与えつつ、神に逆らう自由も与えました。

 さらに、アダムとイブが神に逆らって楽園から追放された後の世界においても、神は常に、人間側の応答を求めました。

 聖書の神話の中で、神は数々の奇跡を起こしますが、基本的には、神が人間に呼びかけ、人間が応答し、神が奇跡を起こすという流れが繰り返されています。

 神の働きに対し、人間が応答して神に息を合わせることで、神の働きと人間の働きが合わさり、人間や世界に変化が起こるのです。

 神は、人間の自由意志を尊重して、この地上に介入するのです。

 そして、神と力を合わせることで、神の像としての性質が回復され、より神に近づいていくと信じられるようになりました。

イエス・キリストと「息を合わせる」こと

 初期のキリスト教徒は、イエス・キリストが完全な神の像のお手本を見せてくれたと考え、イエス・キリストの模倣をすることで、信仰者としての完成に近づいていくと考えました。

 師匠の模倣をすることで前進していくというのは、武術の稽古に似ているかもしれません。

 キリスト教がスタートした直後のキリスト教徒は、迫害されて殉教することが、十字架にかかったイエス・キリストの最大の模倣であり、信仰者としての完成の境地であると考えました。

 私たちには到底真似できないことですが、キリスト教がスタートした直後のキリスト教徒の中には、殉教すること、つまりキリスト教を迫害する人たちに殺されることに憧れを抱いていた人がたくさんいたようです。

 殉教に憧れるべきかは、私には分かりませんが、イエス・キリストの模倣による信仰の成長という考えは、後のキリスト教徒の実践に大きな影響を与えました。

 ローマ帝国による迫害が止み、キリスト教ローマ帝国の国教となると、一部のキリスト教徒は、よりストイックな修行環境を求め、砂漠に引きこもって生活するようになりました。これが修道院のスタートです。

(現在確認できる中で最初の修道院をつくったのは、エジプトの農民と言われています。)

 この修道士たちも、イエス・キリストの模倣をすることで、信仰者として成長し、「神の像」としての在り方が癒されると考えていたようです。

 具体的には、イエス・キリストのように、人々に愛を示すこと、そして、イエス・キリストのように、聖餐式(パンとワインを皆で食べる儀式)をしたり、神に祈ったりするという宗教行為が、神との協働<シュネルゲイア>に繋がるという感じです。

 修道院における神への祈りは、修道院特有の実践を生み出すことになりました。

静寂<ヘシュキア>と祈り

 現代社会では、様々な刺激が飛び交います。

「自分は繊細だから、人と一緒にいるとすぐに疲れてしまう」

「自分は社交不安が高いから、一人でいる方が楽だ」

 と思う人もいるかもしれません。

 中には、「一人でいることを好むのは、社会に適応できていないことの表れだ」と考えている人もいるかもしれません。それは、社交的でポジティブであることが健康だみたいな刷り込みが、社会の至る所でなされてきたせいなのかもしれません。

 今から1800年近く前、エジプトの砂漠で修道生活を送った修道士は、現代人とは逆の考えを持っていました。

 彼らは、「世間から離れて孤独の中で神に祈る生活を送ることによって、神の像としての在り方が癒され、魂が浄化されていく」と考えたのでした。

 つまり、孤独が霊的な健康をつくると考えていたのです。

 そして、祈りの生活の中で、いろいろな感情と向き合っていたのです。

 

 現代社会に生きる私たちには、「生産的でありなさい」「健康でありなさい」「社会に適応しなさい」という圧力が常にかけられているように感じます。

 時には、個人の内面についても、「対人関係に疲れやすいなら、あなたに何らかの弱さがあるはずだ」「あなたの生き辛さは、幼少期のトラウマのせいに違いない」「自己肯定感を上げないと、あなたは幸せになれない」など、いろいろな情報が氾濫して目が回りそうになります。

 

 それに対し、古代の修道士は、孤独の中で神に祈る生活を選びました。

 古代エジプトの修道士の説話集には、興味深い話が出てきます。

 

 3人の修道士がいました。

 1人は町中に出て、喧嘩している人を仲裁することで、徳の実践を積もうと考えました。もう1人は、病の床に臥す人を看病することで、徳の実践を積もうと考えました。最後の1人は、孤独の中で静寂の生活を送り、日々神に祈りました。

 喧嘩の仲裁をしようとした人は、上手く行かず、落ち込みました。

 看病をしていた人は、自分も病に罹り、看病に行けなくなったので落ち込みました。

 挫折した2人の修道士は、どうすれば良いのだろうと、3人目の元を訪れました。

 すると3人目は、「桶に水を入れてみなさい」と言いました。

 桶に水を入れると、水面が揺れます。

「何が見えますか」と3人目は尋ねました。

 2人には、水面が揺れるので何も見えません。

 しばらく経つと、水面が静まり、自分たちの顔が映し出されました。

 そこで3人目は言いました。

「世間に出て忙しく過ごすなら、自分の罪も見えなくなってしまうが、砂漠で平安と静寂の生活を送るなら、このように神の姿がはっきりと見えるようになるのだ」

(※水面に自分達の姿が映っていることを引き合いに「神の姿が見えるようになる」と表したのは、おそらく「人間が神の像なので、神の像としての在り方が回復されると、自分の魂を通して神の影像が見えるようになる」という思想が反映されているのではないかと思います。「神の像が回復されることで、神に似た存在になっていく」という考えを神化<テオシス>と言いますが、この概念については別の機会で説明します。)

 

 古代エジプト修道院では、社会に出て奉仕活動をすることよりも、孤独の中で静寂と祈りの生活を送ることを尊びました。

 もしかしたら、行き過ぎな面もあったかもしれません。

 どちらにせよ、現代社会で生きる私たちは、人里離れた場所に引き籠って宗教だけの生活を送ることは不可能です。それに、古代の修道院についても、我流の修行で暴走してしまうのを防止するため、他の修道士と最低限の交流は保っていました。

 しかし、静寂と祈りの実践は、私たちに大切なことを教えてくれているように思います。

 それは、静けさを確保する生活リズムです。

 聖書の中でも、週に1日は何もせず休まなければならない日(安息日が存在しました。イエス・キリストも度々、人々から離れ、誰もいない場所で祈っていました。

 人間は常に忙しくするようには造られていないし、身体を休めるだけでなく、内面の静けさも必要なのではないでしょうか。

 

 古代の修道院から、静寂<ヘシュキア>の中で神に祈り、自分の魂を浄化するという実践が生まれました。

 実はここにも、協働<シュネルゲイア>の考えが関わっているようです。

 人間の心には、いろんな考えや思いが飛び込んできます。

 中には、自分や他人に害をなす考えもあります。

 私たち人間は弱いので、しょっちゅう悪いことを考えてしまいますが、意識を祈りに集中すると、どうでしょうか。

 イエス・キリストも、度々孤独の中で祈っていました。

 そして、祈ることは、人間がダイレクトに神に繋がる行為です。

 このシリーズでは触れてきませんでしたが、キリスト教では、人間の中に神の霊である聖霊が鎮座し、キリスト教徒自体が小さな社になるという考えがあります。

 様々なキリスト教の教義や思想から、静寂<ヘシュキア>の中で祈りを通して神と力を合わせ、聖霊によって自分の心を浄化してもらい、神の像として癒され発達していくという実践が生まれたのです。

おわりに

 ここまで、神と人の協働<シュネルゲイア>についてお話しましたが、ついに修道院の静寂<ヘシュキア>と祈りの話に繋がりました。

 今回の内容をまとめると、

  • 神は人との協働<シュネルゲイア>を重視する
  • 神と人の協働<シュネルゲイア>により、神の像としての在り方が癒されるという思想が生まれた
  • 修道院で、静寂<ヘシュキア>と祈りの実践が生まれた

 という感じです。

 次回からは、ついに静寂<ヘシュキア>と祈りの実践についてお話ししていきますが、私にとっても高度で難解すぎるため、私なりの理解の仕方と思っていただければ幸いです。(まだまだ勉強中の身なもので……)