大和寝倒れ随想録

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キリスト教とメンタルについての試論(2)~「神の像の癒しと育ち」~

 

はじめに

 どうも、ねだおれです。

 キリスト教とメンタルについての試論、第2回です。

 第1回目はこちら

nara-nedaore.hatenablog.com

 前回少しお話した、キリスト教の世界観について少し詳しめにお話ししたいと思います。

 古代の修道院の実践について、早く紹介したいという気持ちもあるのですが、背景となる世界観の説明が抜け落ちると、「マインドフルネスと何も変わらへんやん!」となると思います。(古代の修道院の神秘思想には、覚醒<ネープシス>という、マインドフルネスに似た概念が登場します。)

 とりあえず今回は、キリスト教とメンタルの関係性の土台となる、キリスト教の世界観について、掘り下げていきます。

 前回や他の記事と重複する部分もいくつかあるとは思いますが、ご了承ください。

天地創造と「神の像」

 キリスト教の世界観は、天地創造の神話から始まります。

 スケールが大きめとなっております。

 まず重要なのは、「神が意図的に世界をつくった」という点です。

 キリスト教では、この世界は自然発生的に生まれたとは考えていません。

 (※世界がつくられた過程については諸説があり、神話どおりの方法でつくられたと教える教派から、ビッグバンや生命の進化の過程を利用して創造したのではないかと考える教派まで、様々です)

 そして、世界をつくったときに、神は「良い」と言ったとされています。

 キリスト教では、この世界は本来、あらゆる被造物が調和を保つ、素晴らしい世界としてつくられたと信じられています。

 

 次に、神は人間を創造しました。

 この時、神は人間を、「神の像」として、神に似せて造ったのでした。

 そして、「神の像」である人間に、地上を統治するように命じたのでした。

 またスケールの大きい話になってきます。

 このお話を理解する上では、遥か古代の中近東の文化的背景を理解すると、分かりやすいかもしれません。

 この神話はユダヤ教に登場する神話で、文書として編纂されたのは、キリスト教が登場するよりももっと昔の話です。

 古代中近東の他の神話では、特定の支配階級のみが、「神の子孫」的な存在として描かれるということが多かったようです。

 また、王国の国境付近に「王の像」を配置することで、支配領域を示したとも言われています。

 すると、聖書の創世神話は、一部の強者だけが神聖な存在なのだという世界観に反対し、すべての人間が平等に神の像であり、皆が尊い存在であると伝えているのかもしれません。さらに、人間はこの世界の調和を保つために、神の代理人として創造されたというメッセージも込められているように思われます。

 

 地上を統治と言うと、人間の傲りや「自然環境は人間の所有物だ」みたいな自然破壊のイメージも出てくるかもしれません。

 しかし、創世神話で地上を統治するよう命じられた人間が始めたのは、庭いじりです。つまり、植物の世話なのです。

 お世話をすることが、統治のあるべき姿だと、この神話は教えてくれているのかもしれません。

 

 ここまでの内容をまとめると、

  • 神は意図的に世界を創造した
  • 神が創造した世界は、本来すべての被造物が調和していた
  • 神は地上のお世話をさせるために、「神の像」として人間をつくった

 こんな流れになります。

 

 この「神の像」という考え方から、古代のキリスト教徒は、「すべての人間は神の像であり、神の完全性を目指して育っていく性質を持っている」と考えるようになりました。

 仏教では、「すべての人には生まれながらに仏性(仏になることのできる性質)が宿っている」という思想があるようですが、これと似ているかもしれません。 

壊れた「神の像」・壊れた世界

 神がはじめにつくった世界は完璧で幸福(?)だったわけですが、ある悲劇が起きました。有名な「アダムとイブ」のお話です。

 神は人間に自由意志を与えていました。もちろん、「神に逆らう」という自由も与えていました。

 はじめの人間であるアダムとイブは、蛇に騙され、食べることを禁じられていた「善悪の知識の実」を食べてしまいます。

 ここで言う「知識」というのは、とても難しいのですが「知っているという体験」みたいなニュアンスがあるようで、これは、「善悪の基準を自分で決めること」となり、「人間自身が神になろうとする」ということを意味していたようです。

 現代社会においては、「自分で決めるのは良いことじゃないか」となるわけですが、聖書の神話においては、「善悪の基準を自分で決めること」は「解放」を意味しません。

 ここでは、人間が神になるということは、神が用意した「神の代理人として地上の世界をお世話することによって統治する」という在り方を捨て、「人間の欲望によって地上を支配する」ということを意味していたされています。

 その結果、「お世話することによって統治する」という在り方が崩れ、強い者が弱い者を暴力で支配したり、自分の欲望によって自分や他者を粗末にする、地獄のような世界になってしまったのです。

 こうして、「神の代理人として世界の世話をする」という人間の在り方は破損し、「神の元に万物の調和が保たれる」という世界の在り方も壊れてしまいました。

 これが、聖書の世界観であり、ユダヤ教から派生したキリスト教は、この世界観を受け継いでいます。

 私たちが生きているこの世界は、とても残酷で不条理に満ちた場所です。

 強い者が弱い者を虐げ支配します。

 聖書は、この神話を通して「この世界は、本来あるべき姿でなく、人間もまた、本来あるべき姿ではない」のだと、ユダヤ教徒キリスト教徒に語り掛けてきました。

 

ここまでの内容をまとめると、

  • 神がつくった世界は、万物の調和が保たれていた
  • 人間が神のようになろうとしたことで、世界の調和が崩された
  • 人間も世界も壊れてしまった

という感じになります。

「神の像」が癒される

 創世神話の時点で、人間も世界もボロボロになってしまいましたが、絶望で終わらないのが宗教です。

 聖書を書いた人々は、「それでも神は人間を見捨てず、世界を修復しようと働いておられる」と信じています。

 創世神話のあと、さらに世界がグチャグチャになっていく物語が書かれていますが、やがて神が再び人類に接触し、世界の修復計画をスタートします。

 しかし、人類は何度も神を裏切り、その度に人間の社会は壊滅的な打撃を被ります。

 そこで、ユダヤ教の聖書(キリスト教で言う「旧約聖書」)では、「いつかは救世主が現れ、世界を救ってくれる」という希望が綴られています。

 そして、ユダヤ教徒の人々は、今も「いつか救世主が現れ、自分達を救ってくれる」と信じて生きています。

 それに対し、イエス・キリストが救世主だ」と主張したのが、キリスト教徒たちでした。

 キリスト教では、イエスという人物がユダヤの宗教家として、社会から疎外された人々の病気を癒し、差別されている人々と共に食事をし、「神の国が来た」と説いて回ったと信じられています。

 しかし、イエスの活動を快く思わない当時のエリート層の思惑により、イエスローマ帝国によって「国家反逆罪」の濡れ衣を着せられ、十字架刑という残酷な刑で殺害されました。

 その後、イエスは十字架上で、自分を死に追いやった人間を赦して殺され、3日目に復活したという信仰が生まれました。

 そして、十字架による処刑と復活は、「全人類の罪を神の子であるイエスが一身に受け、その上で全人類を赦すことで、全人類の罪に勝利した」という、神から全人類への和解の出来事として語られるようになりました。

 これがキリスト教の始まりです。

 キリスト教徒は、イエス・キリストは神でありながら人間として生まれたと信じました。そして、イエス・キリストこそが「完全な神の像」であり、人間社会で人間と共に生きたことで、「神の像」としてどのように生きるべきかというお手本を示したと考えました。

 そこで、初期のキリスト教徒たちは、「イエス・キリストのお手本を真似ることで、神の像としての在り方が回復される」と信じました。

 そして、イエス・キリストのお手本に従うことは、世界を修復しようとする神と力を合わせることであり、神と力を合わせることで、人間は神の力と接触し、人間の「神の像」としての在り方が癒されていくという思想が生まれたようです。

 古代のキリスト教では、神と人間が力を合わせることが協調されていましたが、これは協働<シュネルゲイア>と呼ばれました。単語を分解すると、「共に」+「働き」となります。英語で言うと「シナジー」です。

 

ここまでの内容をまとめると、

という感じになります。

 

おわりに

 今回は、キリスト教の世界観と人間観についてお話しました。

 ざっくりに言うと、「人間は神の像としてつくられたが、アダムとイブが罪を犯したことで、世界も人間も壊れてしまった。しかし、イエス・キリストは完全な人間の生き方を人々に示し、全人類の罪に勝利した。後に、イエス・キリストの真似をして、神と力を合わせることで、神の像としての在り方が回復されるという思想が生まれた」という感じになります。

 実は、この世界観は、現代のプロテスタントカトリックでは、あまり重要視されていません。「神の像の回復」という発想を現代にも受け継いでいるのは、正教会と呼ばれる勢力だけだと思います。

 特にプロテスタントでは、「アダムとイブが神に逆らった時点で、神の像としての性質は完全に消滅した」という思想(全的堕落論と言います)を持つ宗派も存在します。

 私はプロテスタントキリスト教徒ですが、私のキリスト教理解は、1~3世紀の思想を重視しているので、他のプロテスタントの考えとは大きく異なりますし、最悪の場合、「お前は異端だ!」みたいな批判も受けると思います。なので、もしも私のブログを通してキリスト教に興味を持たれた方は、ご注意(?)ください。

 次回は、協働<シュネルゲイア>の考え方をもう少し掘り下げたいと思います。それが終われば、ついに古代の修道院の話に入ります。

 

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