大和寝倒れ随想録

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2024年2月25日 礼拝説教 『罪が待ち伏せている』

創世記4章1節から7節をお読みいたします。

 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(口語訳聖書)

 それでは、『罪が待ち伏せている』と題してお話させていただきます。

 アダムとエバエデンの園を追放されました。そして、エデンの園の地で再出発することになりましたが、そうこうしている内に2人の子どもを授かりました。

 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 アベルは動物の世話をする者になり、カインは植物の世話をするものになりました。人類が楽園から追放された後も、地上の調和を守るという役目は続いているようです。そしてアダムとエバから引き継いだこの役割を、アベルとカインは兄弟で共に担っていくはずでした。

 ところで、アベルは羊を飼う者、つまり牧畜民で、カインは土を耕す者、つまり農耕民にあたるわけですが、古代中近東の世界では、牧畜民と農耕民というのは、あまり仲が良くなかったようです。さらには、当時は農業の方が高度であると見なされていたそうです。聖書の中では、社会的な立場が高い者や、大国や経済的に栄えていた都市が悪役として登場する傾向にあります。そして、そういった強い立場にある人々が神さまによってひっくり返されるという展開が、お決まりのパターンになっています。つまり、ここで牧畜民と農耕民という対比が示されている時点で、わりと不穏な雰囲気になってきているわけです。

 そんなこんなで、2人はそれぞれの収穫を神さまにお供えます。

 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

 ここでトラブルが起きました。2人のお供え物のうち、神さまはアベルのお供え物にだけ目を留められたので、カインが怒ってしまいました。

 カインとアベル、どんな違いがあったのでしょうか。アベルが羊の中で一番良い物を持って来たということが、お話の中から分かります。しかし、カインが悪い物を持って来たのかというと、特にそういうことは書かれていません。それに、神さまがカインを責めているという描写も特に見られません。

 この箇所を書いた人の時代だと、農耕の方が、レベルが高いという風潮があったようです。そうすると、カインも日頃からアベルを見下しているキャラクターという前提があったのかもしれません。聖書は社会的な立場が高い人や強い国を悪役として描く傾向があるので、社会的なヒエラルキーをひっくり返すというストーリー展開を加えたとも考えられます。ただ、もしかすると単にカインが怒る物語の導入として、このエピソードを加えているだけなのかもしれません。

 ともあれ、カインは怒ってしまいます。そこで神さまはカインに語り掛けられます。

 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

 罪が門口に待ち伏せている。人間の心を家に喩えているわけですが、罪が人間の心に入り込もうと待ち伏せているような感じがします。罪が人間を慕い求めるという、不思議な表現が使われていますが、原文のヘブライ語では、恋愛感情や、肉食獣が獲物を求めている状態を指す言葉が使われています。

 エデンの園の物語では、蛇が人間を悪い方向へと引っ張って行きましたが、カインとアベルの物語では、「罪」という、より直接的な言葉が使われています。しかし、入口で人間を待ち伏せて狙う、そういったキャラクターとして描かれているのです。

 キリスト教というと、「人類みな罪人」と言っているイメージが強いと思います。しかし、罪という言葉が聖書の中で最初に出て来るのは、この箇所なのです。そしてここでは、「罪」は人間を狙う悪役、敵キャラとして登場します。エデンの園のテーマと同じです。この世界は、究極的には人間同士の戦いではありません。人間と、人間を悪い方向へ持っていく存在との戦いなのです。ですから、「罪」は人間を絶えず狙っていて、人間に襲い掛かり、捕らえて、悪い行いをさせようとするのです。ですが、神さまは言われます。「それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」

「罪」は私たち全員を狙っています。私たちの心が揺らいだ時、チャンスを狙って待ち伏せています。それにいつも気づけたら良いのですが、人間の心は弱いもので、私たちは何度も負けてしまいます。

 しかし神さまは、人間が罪を治めることを求められているのです。もちろん、人間の力のみで罪に打ち勝つことはできません。しかし、自分だけの正義から抜け出し、神さまと力を合わせ、他の人と力を合わせる時、この世界に神さまの力が働き、神さまの力によって罪を治めることができるのではないでしょうか。そして、それこそがキリストのからだである教会の使命ではないでしょうか。

 神さまは言われます。「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」