大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2024年1月28日 礼拝説教 『目には美しい』

 創世記2章25節から3章7節をお読みいたします。

 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

(口語訳聖書)

 エデンの園では、初めの人類は全裸でも恥ずかしいとは思わなかったと伝えられています。エデンの園の人類が完全に純真無垢な存在であったかというと、そうでもないと思います。完全に純真無垢であれば、食べることを禁じられた木の実を食べるという選択もできないでしょう。日本では特に男性同士で「裸の付き合い」という言葉が使われることがあります。一緒に風呂やサウナに入ることで親睦を深めるという意味合いですが、裸でいられるというのは、それだけ信頼できる安全な関係性ということではないでしょうか。

 その次に、蛇が最も狡猾であったと語られます。ここでは狡猾と訳されていますが、「賢い」というような良いで使われることもある言葉です。元からずる賢かったというよりは、この物語では、神が蛇を信頼して、賢い生き物として造ったということではないかと思います。

 賢い蛇は言います。

「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」

 もちろんそんなことは誰も言っていません。この物語では、蛇は生き物の中で一番賢いことになっていますから、蛇はわざとこんなことを言っているのかもしれません。

 人は答えます。

「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」

 実はこれも神さま、言ってはいません。

 エバが造られる前のお話ですと、中央に生えているのは善悪の知識の木と生命の木。食べてはいけないと言われたのは、善悪の知識の木だけです。それ以外の木からは好きなだけ食べて良かったのです。さらに、触ってもいけないなんて誰も言ってはいません。

 人間の中で、神さまの言葉が歪んでしまっているわけです。

 蛇は言います。

「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
 神の言葉を否定して神への不信感を煽ります。蛇はこの物語で、人間の判断を狂わせて悪しき道へ引きずりこむものの象徴として使われているようです。
 そして、エバが善悪の知識の木を見ると、それは「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」とあります。食べることを禁じられていた木の実が、ここでは良いものに見えてしまったのです。こうして人間は善悪の知識の木の実を食べてしまいました。

 蛇の言葉で判断を狂わされ、神さまの命令を破ってしまったのです。

 その結果、裸であることに気づき、いちじくの葉で腰を覆うようになりました。

 ノーガードでも安心して居られる関係は、もうありません。隠して守らないと安全ではいられない関係性になってしまったのです。

 この物語は、食べることを禁じられた善悪の知識の木の実を食べ、人間同士の関係が壊れてしまうというお話です。今回注目したいのは、神さまから食べることを禁じられ、さらに、食べた結果人間関係が壊れてしまった、そんな木の実が「食べるに良く、目には美しく」見えたという点です。

 良いと思って選んだことが、良かれと思って取った行動が、後に良くない結果、時には破壊的な結果をもたらす。人類の歴史でも、一人ひとりの人生でも、そんなことが繰り返されてきたのではないでしょうか。

 社会規模の話になると、どこか他人事のように見えるかもしれませんが、日常生活に目を移してみると、他人事とは思えないでしょう。

 相手を励ますつもりが、かえって傷つけてしまった。役に立つつもりが、かえって邪魔をしてしまった。手助けをするつもりが、かえって迷惑をかけてしまった。慰めようとしたら、かえって追い詰めてしまった……。

 人間は自分の理性を過信してしまいがちですが、それがかえって落とし穴になってしまうことがあります。「目に美しく」見えた選択肢が、時に破壊的な結果をもたらします。

 人間は自分で善と悪と完璧に判断することはできないのです。そして、自分の理性を過信し、自分で善と悪を神のように完璧に判断できると過信してしまうことこそが、善と悪の知識の木の実を食べるということではないでしょうか。

 善と悪を完全に判断するのは神の領域です。人間はどれだけ知識を詰め込もうが、どれだけ神に祈ろうが、どれだけ聖書を読もうが、そこに足を踏み入れることはできません。どれだけ努力しようと、破壊的な結果をもたらす選択肢が、「目には美しく」見えてしまうものです。

 だからといって、良いことを行うことを諦めるわけにはいきません。自分より大いなるものの存在を感じ、へりくだることが必要なのではないでしょうか。自分が失敗する存在であることを受け入れることが大切ではないでしょうか。

 イエス・キリストは、そんな私たちの弱さを受け入れ、その上で私たちの王となってくださいました。人類は良かれと思ってキリストを十字架につけ、それにも関わらずキリストは人類の過ちを受け入れ、三日目に復活されました。破壊的な結果をもたらす行動すら「目には美しく」見えてしまう私たちの弱さをイエスさまが受け入れてくださるからこそ、私たちはキリストに連なる者として再出発することができます。

 良かれと思って過ちを犯す人間の弱さ、そして、その弱さを受け入れるキリストの愛に思いを巡らせ、歩んでいきたいと思います。