大和寝倒れ随想録

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2024年2月18日 礼拝説教 『そこからやり直す』

 創世記3章21節から24節をお読みいたします。

 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

(口語訳聖書)

 それでは『そこからやり直す』と題してお話させていただきます。

 まずは、この箇所以前の内容をおさらいします。

 地上の調和を守らせるために、神は人間を神の像として創造されました。そして、エデンの園に人間を配置されました。

 園の真ん中には善悪の知識の木と命の木が生えていました。そして、園のどの木からでも自由に食べて良いけれど、善悪の知識の木からだけは絶対に食べてはいけないと、神さまは言われました。

 はじめは人間がまだ一人だけだったので、ひとりぼっちは良くないということで、神さまは助け合うパートナーを造られました。

 生き物の中で一番賢い蛇は、悪の象徴、つまりサタンとして登場します。蛇は、巧妙な手口で人間の善悪の判断を狂わせ、善悪の知識の木を食べさせます。人間が神のように善悪を決めるようになったことで、人間同士の関係も人間と神の関係も壊れてしまいました。そこで、神さまは蛇と人間の間に敵意を置かれました。そして、アダムとエバの行いの結果、人間の生活が苦しくなることを2人に伝えました。ここまでが、おさらいです。

 今回の内容は、その続きということになります。

 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 いちじくの葉で腰を覆っていた人間に、神さまは皮の着物を造って着せられました。葉っぱだけでは心もとないだろうということでしょうか。人間が過ちを犯しても、神は人間のために着物を造られたのでした。しかし、人間のしでかしたことの結果は、人間に撥ね返ってきます。

 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

 善悪を知るものとなることは、神と同じ存在になるに等しいことなのだそうです。

 見落とされがちですが、「われわれのひとりのようになった」と書かれており、まるで人間がこの地上の世界の神になってしまったかのようです。この世界には悲惨なことがたくさんあります。「神はいないのか」と思ってしまうこともあります。しかし、人間が引き起こす悲惨な出来事は、人間がこの世界の神になってしまったがゆえに起きていることなのかもしれません。

 民間人をテロリストと呼んで虐殺したり、あるいは、一般市民はわずかな所得の申告漏れも許されないけど、政治家は数千万単位で脱税しても許されたり、あるいは、社会的地位があれば他人に暴力を振るっても許されたり、あるいは、勝手に宗教的な戒律をつくって人々を苦しめたり、この世界には人間が勝手に決めた善悪が横行しています。慈悲の心を持たぬ人間が神になったつもりで善悪を決めてしまうからこそ、この世界は大変苦しく辛い場所になっているのではないでしょうか。

 命の木から食べることを禁じられていなかった人間が今、命の木から食べられては困る存在と見なされている。この違いは、人間の在り方が変わってしまったことを示しているように思います。

 物語は続きます。

 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 楽園を追放されることになりました。追放というと罰のような印象がしますが、ここでヘブライ語の原文を確認してみましょう。原文では、この箇所の前に出て来た、手を「伸ばす」という言葉も、「追い出す」という言葉も、元々同じ語根から変化して出来た言葉です。

 原文のニュアンスを意識してまとめると、「命の木に手をやられて命の木から食べられたら困るから、人をエデンの園の外にやった」という感じでしょうか。

 つまり、「命の木に手をやられたら困ると思われることをしてしまったから、エデンの園の外にやられた」わけです。なんだか、罰というよりは、行いが跳ね返ってきたという感じがしないでしょうか?

 実はこの、行いが跳ね返ってくるというパターンは、聖書全体の中で何度も繰り返されています。神に選ばれた存在が、失敗して、神に護られた領域から追い出されてしまう。エデンの園の物語は、このパターンの元型とも言えるかもしれません。

 しかし、追い出されて終わりというわけではありません。エデンの園の物語では、予め人間に皮の着物を着せて、園から追い出し、そして園の外の地を耕させました。つまり、皮の着物という救済措置を与えて、そこからやり直させたわけです。

 人間が勝手に善悪を決めた結果、この世界が苛酷な場所になってしまったから、人間が神のようになった結果、神さまに護られた楽園から離れて、人間自身が創り出した、辛く厳しい世界へ出て行かないといけないから、だからこそ、人間の身を守るために、神さまは皮の着物を人間に着せたのではないでしょうか。

 これもまた、聖書の中で一貫して語られるパターンです。神さまに選ばれた人間、あるいは集団が、悪いことをしてしまう。その結果、神さまに護られた領域から追い出される。しかし、そこからやり直すチャンスが与えられている。

 日常生活の中でも、私たちは何度も失敗します。神になった気で善悪を決めて、良かれと思って人を傷つけたり、自分を粗末に扱ったりしてしまいます。そして、自分や他人を粗末にする扱いは、他人を苦しめるだけではなく、その人自身を内側から蝕んでいきます。

 しかし、その結果に目を向け、そこからやり直す。

 世の中には取り返しのつかない過ちもあるし、反省したからといって自分の行いがチャラになるわけではありません。結果は結果として受け入れなければなりません。しかし、そこからやり直す。

 失敗してしまう自分の弱さに目を向け、失敗に気づいたらそこからやり直す。そうする中で、神の像として在り方に向かっていくのではないでしょうか。皮の着物を受け取り、そこからやり直して、再び地を耕すものになりたいと思います。