大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

古代オタクが聖書に挑むお話15

 3コマ目の神の台詞、日本語だと「正しいことをしているのなら、(顔を)上げられるはずだ」という感じで訳されることが多いです。しかし「上げられる」と訳される部分は、ヘブライ語の原文では「上昇」などの意味を持つ名詞であり、「正しいことをしているのなら、捧げものが受け入れられたのではないか」のようなニュアンスがあったのではないかとする解釈もあるようです。

 罪について神は「彼はあなたを恋い慕うが、あなたが彼を支配するのだ」は、アダムとエバが知識の木の実を食べた後に、神がエバに告げた「あなたは夫を慕うが、彼はあなたを支配する」を意識していると思います。

 つまり、男が女を支配すること(男尊女卑)は人間の悪の結果であり、神の理想からかけはなれているけれど、人が「罪」を支配することは、神が望んでいることであると解釈できると思います。

「罪」が人間を恋い慕って戸口で待ち伏せているとも解釈できるし、「罪」が人間を捕食してやろうと戸口で待ち伏せているとも解釈できます。一昔前に「肉食系」という言葉が流行りましたが、古代イスラエル人も恋愛感情を肉食獣と関連付けていたのかもしれません。

 罪という言葉は聖書に何度も出てきますが、聖書で最初に出て来た「罪」は、人間を狙う敵キャラなのです。この部分に注目すると、「罪」に対する捉え方が変わってくるかもしれません。

 原罪論のように、「アダムとエバが背いたことによって、人間の意志が悪に傾くようになった」といった考えが教義として体系化されるのは、アウグスティヌスが登場する4世紀以降になります。

 16世紀頃になるとカルヴァン主義がヨーロッパで台頭し、「すべての人間はアダムとエバの背きによって人格が完全に堕落した」とする全的堕落論が発明されます。

 このように「罪」を人間の性質、または人間の性質に深く結びついたものと見る解釈もできるわけですが、カインとアベルの物語では、「罪」が敵キャラに喩えられます。そして、神は「人が罪を支配すること」を望んでいます。罪を敵キャラと考えると、少し印象が変わってはこないでしょうか?

 ちなみに、旧約聖書の中でも後のレビ記などでは、罪を病や汚れのように「浄められるべきもの」として描写する箇所も見られますが、そちらの罪イメージは神道と似ているかもしれません。

 キリスト教を論じる上で「本来の教えって何やろう?」という疑問がわいてくることがあります。しかし現代キリスト教は、旧約聖書の編纂過程を含めると、実に数千年の時を経ていろいろな文化の影響を受けながら、思想が積み重なって構成されています。

 旧約聖書の創世記が書かれた時代の思想と、後の預言書が書かれた時代では価値観が異なるでしょうし、旧約聖書が編纂された時代と新約聖書が編纂された時代では、また価値観が異なると思います。

 古代の思想については資料も限られていますし、学術的に「本来の教え」を抽出するのはほぼ不可能でしょう。

 すると、キリスト教徒たちが「正しい」と信じている教えというのは、客観的なエビデンスに基づくわけではなく、論理を飛躍した何らかの「信仰」によって支えられているということになります。

 この漫画の登場人物は信仰者ではありませんが、作者はキリスト教信仰を持っている1人なので、「自分の信じる教えこそ真のキリスト教だ!」とならないよう、謙虚でいられるよう努力しないといけないなと思います。

「聖書はこう教えています」という論法をキリスト教徒は使いがちですが、実は聖書に書いてあるわけではなく、その人が属する団体のお偉いさんが、聖書をそのように解釈しているだけ、というのはよくある話です。

 これもまた一つの解釈ですが、聖書の物語の中で繰り返されるパターンに注目して読んでいくと、クッソ長く且つ無秩序に考えられる数々の物語が、突然一本の線のように統一性を持ったものとして感じられることがあります。

 すると、聖書は教会の人がつくった教義を無秩序に押し付けてくる無味乾燥な書物から、登場人物の苦難や失敗または活躍を通して、生きるということや善悪について思い巡らすことを助けてくれる「場」へと変化します。