大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年9月10日礼拝説教『断腸の思いと独り子の癒し』

 今日の聖書箇所をお読みいたします。

 

 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。(ルカによる福音書7章11~17節)

 

 それでは、「断腸の思いと独り子の癒し」と題してお話させていただきます。

 今回の聖書箇所では、夫を失った女性が、1人息子も失い、その葬式が執り行われているという、大変悲劇的な状況に、神の独り子であるイエスさまが介入するお話です。

 1人息子を失った女性を見て、イエスさまは深い同情を寄せられたと書いてあります。この言葉ですが、原文のギリシア語では「スプランクニゾマイ」という動詞が使われています。この言葉は、はらわたが揺さぶられるような同情や憐れみの思いを表しているそうです。

 日本語でも、強い感情を表す言葉として身体の部位が使われることがあります。腹が立つ、はらわたが煮えくり返る、胸が張り裂ける……。

 中国の故事成語でも、感情と身体を結び付けた表現が出てきます。「断腸」という言葉は日本にも伝わっていますが、これははらわたがちぎれるような強い悲しみを表現しています。

 神の独り子であるイエスさまは、1人息子を失った女性を見て、はらわたが揺さぶられるような憐れみを覚えられました。

 キリスト教の伝統では、イエスさまは父なる神であるヤハウェと本質的に同質の存在であるとされています。つまり、天地を創造した神さまもまた、人間のためにはらわたが揺さぶられるような憐れみを覚えられる方であるということになります。

 イエスさまは、その女性に言われます。

「泣かなくて良い」

 普通の人間であれば、あまりに無神経な発言です。1人子を失った人に対して、「泣かなくて良い」なんて、普通は言えません。しかし、イエスさまは普通の人間ではありませんでした。

 イエスさまは、棺に手を置いて言われます。

「若者よ、さあ、起きなさい」

 普通の人間であれば、非常識な発言です。遺体を入れた棺に手を置いて、「起きなさい」なんて言ったところで、いったい何になるでしょうか。しかし、イエスさまは普通の人間ではありませんでした。

 イエスさまは、当時のユダヤ人が崇めていた神さまと、同じ本質を持った方でした。

 イエスさまの一言、起きなさいという一言で、息子は起きて、母親の元に帰って行きました。

 それを見ていた人々は、神さまを褒めたたえて言います。

「神はその民を顧みてくださった」

 その場に居合わせた人々にとってこの出来事は、ユダヤ人全体にとっての慈悲だったのです。

 なんでこんなことが起こるんや、という悲しい出来事や腹立たしい出来事、この世界でたくさん起こります。

 ホンマに神さまなんておるんかいな、神さまホンマにおんねんやったら何してんねん、というような出来事も、この傷んだ世界ではたくさん起こります。

 では、神さまはこの世界の現状について、どう思われているんでしょうか。

 イエスさまは、独り子を失った女性を見て、はらわたが揺さぶられるような感情を覚えられました。

 一般的に聖書の神は全知全能の神であると言われます。しかし、神の望まぬことが現実にはたくさん起こっているのです。その度に神さまは悲しみます。はらわたが揺さぶれるような憐れみを覚えて。

 今回の物語に出て来た一人息子は、イエスさまが葬儀の場に居合わせたので、死んだ後すぐに生き返らせてもらえました。しかし、そうでない人の方がずっと多いでしょう。

 世界が完全に修復される時、全ての人が復活するのだと、聖書の伝統は伝えます。しかし、復活するからといって今の人生がどうでも良いという話にはなりません。だからこそ、イエスさまも女性を見て深い悲しみを覚えられたのでしょう。

 ですが、生き返った1人息子を見て、その場に居合わせた人々は神を褒めたたえて言いました。

「神はその民を顧みてくださった」

 イエスさまが生き返らせた1人息子。その姿を見て、人々は神がご自身の民に目を留めてくださったのだという希望を見出したのです。

 1人息子が生き返ったのを人々が見た時、人々が見たのは復活の希望だけではないと思います。復活の希望もあったかもしれませんが、神と自分達の関係性に希望を見出したのだと思います。

「神はその民を顧みてくださった」

 この世界は理不尽な出来事で満ちています。神の望まぬ出来事も、毎日起こります。

 私たちは理不尽を目の当たりにして、神などいるものかと思ってしまいます。

 しかし、神さまは私達を憐れんでくださっています。

 はらわたを揺さぶられるような激しい感情を抱きながら、私達を憐れんでくださいます。

 そして、神さまは目には見えぬ形で私達に手を差し伸べてくださいます。

 死者が生き返るような奇跡は、私達が生きている間には起きないかもしれません。

 しかしそれでも、神の働きと人の働きが合わさる時、天と地が重なり、この傷んだ世界で、何かが変化します。人が、世界が、癒されます。神さまはご自身の民を顧みてくださるのです。

 神さまは、人間そのものを神の像として、地上を治めるために造られたので、ある意味では本来すべての人間が神の民であるとも言えるかもしれません。

 神さまが今も、そしてこれからも私達を憐れみ、癒してくださると信じて、生きていきたいと思います。