大和寝倒れ随想録

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2023年10月8日 礼拝説教 『負い切れない重荷』

 ルカによる福音書11章46節から52節をお読みいたします。

 そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。

(口語訳聖書)

 それでは、『負い切れない重荷』と題してお話させていただきます。

 今回の箇所のイエスさまの言葉は、ファリサイ派の人々を批判していたイエスさまに対して、律法学者が自分達に対する侮辱だと言ったことに対する返答です。ファリサイ派というのは、民衆の中で活動していた古代のユダヤ教の一派で、日常生活の中で律法、つまり聖書の教えを守ることを重視していた人々です。福音書の中に登場するファリサイ人は、聖書の言葉をルール化して宗教的な戒律をつくり、人々を苦しめる悪役として描かれています。しかし、実際にはファリサイ派はイエスさまと似た律法の解釈をしていたのではないかとも言われています。そして、聖書に登場するファリサイ人は、ユダヤ教キリスト教の関係が悪化した時代での、ユダヤ教徒に対する良くないイメージが反映されたのかもしれないと言われていますし、イエスさまが批判していたのはファリサイ派の過激派だったのかもしれないとも言われています。実際のところはよく分かりませんが、福音書の中でファリサイ派は、宗教的な戒律で人々を苦しめる悪役として登場します。

 そんなファリサイ派の人々を、神さまの独り子であるイエスさまが批判するわけですが、それに対して律法学者が、その言動は自分達を侮辱することになるのだと、イエスさまに抗議するわけです。律法学者というのは聖書の専門家で、聖書の教えを研究して、神さまに従う生き方とは何かを人々に教えていたようです。しかし、福音書の中ではこの律法学者も、宗教的な戒律で人々を苦しめる悪役として描かれています。ファリサイ派は後に現代のユダヤ教の基礎を築いた人々です。そして律法学者は聖書の専門家です。つまり、ファリサイ派は歴史の勝者であり、律法学者はエリートということになります。世間の常識では優れているとされる人々ですが、聖書の物語では、こういった世間の常識で優れた人々が悪役として描かれています。

 イエスさまは、律法学者に言われます。

「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」

 負い切れない重荷。おそらく、過剰な聖書解釈のことかと思います。さらにイエスさまは、自分ではその荷に指一本でも触れようとしないと批判されます。守り切れないような戒律、または神さまが要求していないような事柄を守らせようとする一方で、自分自身はそれを実行しようとしなかった、または人々に寄り添った指導をしていなかったということなのかもしれません。この部分は、現代のキリスト教の教職者にも当てはまる批判だと思います。

 さらにイエスさまは、そういった行いが、神さまから遣わされた預言者を迫害するのと同じなのだと言われます。宗教家に対する批判としては、かなり厳しい表現です。さらには、その流血はアベルの代から始まっているのだと、イエスさまは言われます。アベルは聖書の創世神話に登場する人物で、アダムとエバの子どもです。アベルは捧げものを神さまに評価されたことから、カインの嫉妬を買って殺されてしまいました。つまり、創世神話の時代からの罪が、この時代の律法学者に降りかかるのだという、かなり激しい批判です。そして、最後にイエスさまは言われます。
「あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」

 宗教家というのは、あたかも自分が真理を理解しているかのように振る舞うことがあります。そして、自己流の正しさを振りかざし、自分でも実行できないような綺麗ごとを他人に押し付けることさえあります。こうして人に重荷を負わせていながら、その人のために指一本さえ動かさない。

 現代のキリスト教が置かれた現状も悲惨なものですが、宗教とは関わりのない世俗的な領域でも、これと似たようなことが起きているかもしれません。宗教の世界では宗教家や宗教の専門家が権威を持っていますが、世俗の世界では、様々な人々が権威を握っています。ビジネスで成功した人、政治家、芸能人……。そういった人々の言動は人々の心に影響を与え、その時代の社会の雰囲気を形づくることさえあります。そんな中、そういった人々が自己流の正しさを振りかざし、弱い立場にいる人々を踏みつけるような発言をするならば、社会全体もその言葉に影響されていきます。そうして、まるで神の預言者が迫害されるように、正しさが壊され、人間が作り上げた自己流の「正しさ」によって塗り替えられていきます。

 しかし、こういったことをしてしまうのは、社会的な力を持っている人だけではないかもしれません。時には私たちも、「負い切れない重荷」を負わせる者となってはいないでしょうか。

 自分は指一つ動かそうとせず、他人にばかり「負い切れない重荷」を負わせようとするなら、私たちは神の預言者を迫害し世界を破壊するものになってしまいます。正しく行きたいと思うのであれば、隣にいる人と一緒に重荷を担う者として生きていきたいと思います。