前回は ↓
第1回目は ↓
はじめに
どうも、ねだおれです。
前回は有名な洪水が起きた場面でした。
今回は洪水後の出来事についてです。
メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』に登場するウトナピシュティムは、洪水を生き延びた後、「神のような者」とされ、永遠の命を与えられました。洪水を生き延びたノアは、その後どうなるのでしょうか?
聖書の物語
祝福と契約
創世記9章1節ー17節
そえで、神さまはノアと息子らを祝福して言わはった。
「産みぃ、増えぇ、地ぃ満たしぃ。そえで、あんたらの恐れと恐怖が地の生き物全部の上に、空の鳥全部、土の上の動く物の全部、そえで海の魚全部の上にあるわ。生き物らはあんたらの手の中や。命あって動いとる物は全部あんたらの食べ物や。草の植物もあんたらにあげるわ。せやけど、肉は命の血ぃと一緒に食うたらあかん。そえで確かに、あんたらの命の血ぃ手ぇに求める。生き物全部にも求める。人の手ぇにも。人の兄弟にも、人の命求める。人の血ぃ流したら、その人の血ぃ流されなあかん。人は神の像として造られたからや。そえであんたらは、産みなはれ。増えなはれ。地ぃ満たしてそこで増えなはれ」
そえで、神さまはノアとその息子らにこねん言うて話さはった。
「そえでわては見ぃ、わての契約、あんたらとあんたらの後の子孫との間に結ぶわ。そえと、あんたらと一緒におる生きとる命全部との間、鳥、家畜、あんたらと一緒におる地の獣全部との間にも(契約を結ぶわ)。方舟から出て来た全部から地の生き物全部や。そえで、わてはわての契約あんたらと結ぶわ。もう二度と肉ある生き物を洪水の水で切り捨てることもせえへんし、もう二度と洪水が地に起こることもあらへん」
そえで、神さまは言わはった。
「これがわてがわてとあんたらの間に、わてと生きとる命全部の間に、代々永遠に結ぶ契約の証や。わては弓(虹)を雲の中に置くわ。そえで、それがわてと地の間の契約の証になるんや。そえで、わてが雲を地の上に集めた時、弓(虹)が雲の中に見えるんや。そえで、わてと、あんたら肉全部に入ったぁると生きとる命全部との間に結んだ、わての契約を思い出す。そえで、肉全部を滅ぼすために水が洪水になることは、もうあらへん。そえで、弓(虹)が雲の中にあって、わてがそれを見て、神と、生きとる命全部、地の上におって全部の肉の中にある命との永遠の契約を思い出すわ」
そえで、神はノアに言わはった。
「これが、わてと、地上にある肉全部との間に結んだ契約の証や」
(共通語)
それで、神さまはノアと息子達を祝福して言われた。
「産め、増えよ、地を満たせ。それで、あなた達の恐れと恐怖が地の生き物全部の上に、空の鳥全部、土の上の動く物の全部、それで海の魚全部の上にある。生き物達はあなた達の手の中だ。命があって動いている物は全部あなた達の食べ物だ。草の植物もあなた達にあげよう。だけど、肉は命の血と一緒に食べてはいけない。それで確かに、あなた達の命の血を手に求める。生き物全部にも求める。人の手にも。人の兄弟にも、人の命求める。人の血を流したら、その人の血が流されないといけない。人は神の像として造られたからだ。それであなた達は、産みなさい。増えなさい。地を満たしてそこで増えなさい」
それで、神さまはノアとその息子達にこう言って話された。
「それで私は、見てごらん、私の契約、あなた達とあなた達の後の子孫との間に結ぼう。それと、あなた達と一緒にいる生きている命全部との間、鳥、家畜、あなた達と一緒にいる地の獣全部との間にも(契約を結ぼう)。方舟から出て来た全部から地の生き物全部だ。それで、私は私の契約をあなた達と結ぼう。もう二度と肉ある生き物を洪水の水で切り捨てることもしないし、もう二度と洪水が地に起こることもない」
それで、神さまは言われた。
「これが私が私とあなた達の間に、私と生きている命全部の間に、代々永遠に結ぶ契約の証だ。私は弓(虹)を雲の中に置こう。それで、それが私と地の間の契約の証になるんだ。それで、私が雲を地の上に集めた時、弓(虹)が雲の中に見えるんだ。それで、私と、あなた達肉全部に入っている生きた命全部との間に結んだ、私の契約を思い出す。それで、肉全部を滅ぼすために水が洪水になることは、もうない。それで、弓(虹)が雲の中にあって、私がそれを見て、神と、生きている命全部、地の上にいて全部の肉の中にある命との永遠の契約を思い出そう」
それで、神はノアに言われた。
「これが、私と、地上にある肉全部との間に結んだ契約の証だ」
ノアとその息子達に対し、神は「産めよ、増えよ、地を満たせ」と祝福しました。さらに、生き物が人間の支配下に置かれることが示唆されており、草を食べ物として与えるとの言葉もあります。
これらの部分は、創世神話の神の言葉と共通しています。やはり、聖書の中で洪水神話は、世界の再創造として位置づけられているようです。
しかし、動物も食べ物として与えられているという点は、創世神話と異なります。ここは、この現状の世界が神の理想通りには進んでいないことを示しているのかもしれません。
動物の血を食べてはいけないことと、人の血を流すものは自分の血を流すことになることが語られています。神は人間の暴力性という現実を受け入れた上で、新たな指示を出したようです。血は命のシンボルとして用いられているようで、動物については「肉は食べても良いが、その命は人のものではない」そして、人については「同胞の命を奪おうとするものは、その報いを受けることになる」といった感じでしょうか。
神と全生物との間に、新たな契約が結ばれました。それは、神は二度と地上を滅ぼさないという契約です。そして、空の弓、おそらく虹が契約の証となりました。矢をつがえていない弓が空に置かれるという表現は詩的です。
この物語は、メソポタミア周辺に数ある洪水神話の1つなわけですが、神が二度と地上を滅ぼさないと誓うという結末になっています。
ギルガメシュ叙事詩に登場するウトナピシュティムは、洪水を生き延びた後、神々によって「神のようなもの」とされ、永遠の命を与えられました。ノアはこの後、どうなるのでしょうか? 次に進みます。
全裸中年男性ノア
創世記9章18節ー28節
そえで、方舟から出て来たノアの息子らは、セムとハムとヤフェトやった。そえで、ハムはカナンの父親や。
これがノアの3人の息子らや。そえで、彼らから(人々が)地面全部に広がった。
そえで、ノアは地面の人(農夫)始めて、ぶどう園植えとった。
そえで、ワインから飲んで、酔うて、幕屋の中で脱いどった。
そえで、カナンの息子のハムは、父親の裸を見て、外におった2人の兄弟に伝えた。
そえで、セムとヤフェトは上着を取って、互いの肩にかけて、下がって行って、父親の裸を覆って、顔を後ろに向けて、父親の裸見んかった。
そえで、ノアはワインから覚めて、末っ子が自分にやったことを知った。
そえで言うた。
「呪われたカナン、兄弟らの僕(しもべ)らの僕(しもべ)になってまうわ」
そえで言うた。
「セムの神は祝福された、カナンは彼の僕(しもべ)になるわ。神さまがヤフェトを大きしてくれやはって、セムのテントに住まはって、カナンは彼の僕(しもべ)になるように」
そえでノアは、洪水の後300年と50年生きた。
そえで、ノアの全部の日は900年と50年やった。そえで死んだ。
(共通語)
それで、方舟から出て来たノアの息子達は、セムとハムとヤフェトだった。それで、ハムはカナンの父親だ。
これがノアの3人の息子達だ。それで、彼らから(人々が)地面全部に広がった。
それで、ノアは地面の人(農夫)を始めて、ぶどう園を植えていた。
それで、ワインから飲んで、酔って、幕屋の中で脱いでいた。
それで、カナンの息子のハムは、父親の裸を見て、外にいた2人の兄弟に伝えた。
それで、セムとヤフェトは上着を取って、互いの肩にかけて、下がって行って、父親の裸を覆って、顔を後ろに向けて、父親の裸を見なかった。
それで、ノアはワインから覚めて、末っ子が自分にやったことを知った。
それで言った。
「呪われたカナン、兄弟らの僕(しもべ)達の僕(しもべ)になってしまうぞ」
それで言った。
「セムの神は祝福された。カナンは彼の僕(しもべ)になるだろう。神さまがヤフェトを大きしてくださり、セムのテントに住まれ、カナンは彼の僕(しもべ)になるように」
それでノアは、洪水の後300年と50年生きた。
それで、ノアの全部の日は900年と50年だった。それで死んだ。
あらら! ノア、酒を飲んで全裸中年男性に進化(?)してしまいました。
園の世話をしていた人が、植物の実を口にして破滅的な結果になるという話、聞き覚えがないでしょうか。エデンの園と似た展開になっていますね! 裸になって恥をかいたというのも、善悪の知識の木の実を食べて裸であることが恥ずかしくなったことと似ています。意図的に展開を並行させているのかもしれません。
ハムが、ノアが裸であることを他の兄弟に知らせたのは、善悪の知識の実によって目が開かれ、裸を恥ずかしいと感じるようになったことと対比させているのかもしれません。それに対し、セムとヤフェトは裸を覆います。ノアはハムの息子カナンを呪いました。自分の粗相を棚に上げて、謎の八つ当たりです。
ノアの孫の「カナン」ですが、ここから「カナン人」が生まれたとされています。そしてこのカナン人、聖書の中ではイスラエル人の前に立ちはだかる不倶戴天の敵として後に登場します。
もしかしたら、聖書を編纂した人にとっては、ハムやカナンが悪人であるかはさほど重要ではなく、後のイスラエルとカナンの「伏線」、今風に言うと「フラグ」としての機能が重要だったのかもしれません。
とはいえ、現代人の感覚で見ると、ノアの行動は意味不明です。ノアの横暴な振る舞いによって、新時代の人類の調和は早くも崩れ去ってしまったのでした。
ノアは950年生きて死にます。自分の粗相を棚に上げ、自分の孫を呪ってしまう男に、永遠の命は与えられませんでした。
ノアの子孫
創世記10章
そえで、これがノアの息子らのセム、ハム、そえでヤフェトの系譜(トルドート, Toldot)や。そえで、洪水の後彼らに息子らが生まれた。
ヤフェトの息子ら。ゴメルとマゴグとマダイとヤヴァンとトゥバルとメシュクとティラス。
そえで、ゴメルの息子ら。アシュケナズとリファトとトガルマ。
そえで、ヤヴァンの息子ら。エリシャとタルシシュ、キッティムとドダニム。
こっから民族の島々(海沿いの地域?)はそれぞれの土地に分かれた。皆、言葉ごとに家族ごとに、民族ごとに。
そえで、ハムの息子ら。クシュとミツライム(エジプト)とプトとカナン。
そえで、クシュの息子ら。セバとハヴィラとサブタハ。そえで、ラアマの息子ら。シェバとデダン。
そえで、クシュはニムロドを生んだ。地上で強い者になり始めた。
彼は、神さまの前に強い狩人やった。せやさかい、「神の御前に強き狩人ニムロドの如し」言われとった。
そえで、彼の王国の始まりはバベルとエレクとアッカドとカルネで、シンアルの地にあった。
その地から、アッシリアが出てきて、ニネヴェとレホボトとカラを建てた。そえで、レセンもニネヴェとカラの間に。大きい町やった。
そえで、ミツライム(エジプト)はルディムを生んで、アナミムとレハビムとナフトゥヒムとパトゥルシムとペリシテを生んだカスルヒムとカフトリムを生んだ。
そえで、カナンは初子のシドンとヘトとエブスとアモリとギルガシとヒビテとアルキとシニとアルヴァディとゼマリとハマティを生んだ。そえで、後でカナンの家族は広がった。
そえで、カナンの境はシドンからゲラルに来て、ガザまで。ソドムまで来て、ゴモラとアダマとセボイムとラシャまでやった。
これが、家族ごと、言葉ごと、地域ごと、民族ごとのハムの息子らや。
そえで、セムにも、エベルの息子ら全員の父親でヤフェトの兄が生まれた。
セムの息子ら。エラムとアッシュル(アッシリア?)とアルパクシャドとルドとアラム。
そえで、アラムの息子ら。ウズとフルとゲテルとマシュ。
そえで、アルパクシャドはサラを生んだ。そえで、サラはエベルを生んだ。
そえで、エベルに2人の息子が生まれた。1人の名前は、彼の日々(その時代?)に地が分かれた(語根はパラグ, Palag)からペレグで、その兄弟の名前はヨクタンやった。
そえで、ヨクタンはアルモダドとシェレフとハツァルマヴェトとイェラとハドラムとウザルとディクラとオバルとアビマエルとシェバとオフィルとハヴィラとヨバブを生んだ。これ全部ヨクタンの息子らや。
そえで、 メシャから東の山セファルに至るまでが彼らの住む所やった。
これが、家族ごと、言葉ごと、地域ごと、民族ごとのセムの息子らや。
これが、世代ごと、民族ごとのノアの息子らの家族や。そえで、こっから洪水の後の地で民族が分かれたんや。
(共通語)
それで、これがノアの息子達のセム、ハム、それでヤフェトの系譜(トルドート)だ。それで、洪水の後彼達に息子達が生まれた。
ヤフェトの息子達。ゴメルとマゴグとマダイとヤヴァンとトゥバルとメシュクとティラス。
それで、ゴメルの息子達。アシュケナズとリファトとトガルマ。
それで、ヤヴァンの息子達。エリシャとタルシシュ、キッティムとドダニム。
ここから民族の島々(海沿いの地域?)はそれぞれの土地に分かれた。皆、言葉ごとに家族ごとに、民族ごとに。
それで、ハムの息子達。クシュとミツライム(エジプト)とプトとカナン。
それで、クシュの息子達。セバとハヴィラとサブタハ。それで、ラアマの息子達。シェバとデダン。
それで、クシュはニムロドを生んだ。地上で強い者になり始めた。
彼は、神さまの前に強い狩人だった。だから、「神の御前に強き狩人ニムロドの如し」言われていた。
それで、彼の王国の始まりはバベルとエレクとアッカドとカルネで、シンアルの地にあった。
その地から、アッシリアが出てきて、ニネヴェとレホボトとカラを建てた。それで、レセンもニネヴェとカラの間に。大きい町だった。
それで、ミツライム(エジプト)はルディムを生んで、アナミムとレハビムとナフトゥヒムとパトゥルシムとペリシテを生んだカスルヒムとカフトリムを生んだ。
それで、カナンは初子のシドンとヘトとエブスとアモリとギルガシとヒビテとアルキとシニとアルヴァディとゼマリとハマティを生んだ。それで、後でカナンの家族は広がった。
それで、カナンの境はシドンからゲラルに来て、ガザまで。ソドムまで来て、ゴモラとアダマとセボイムとラシャまでだった。
これが、家族ごと、言葉ごと、地域ごと、民族ごとのハムの息子達だ。
それで、セムにも、エベルの息子ら全員の父親でヤフェトの兄が生まれた。
セムの息子達。エラムとアッシュル(アッシリア?)とアルパクシャドとルドとアラム。
それで、アラムの息子達。ウズとフルとゲテルとマシュ。
それで、アルパクシャドはサラを生んだ。それで、サラはエベルを生んだ。
それで、エベルに2人の息子が生まれた。1人の名前は、彼の日々(その時代?)に地が分かれた(語根はパラグ, Palag)からペレグで、その兄弟の名前はヨクタンだった。
それで、ヨクタンはアルモダドとシェレフとハツァルマヴェトとイェラとハドラムとウザルとディクラとオバルとアビマエルとシェバとオフィルとハヴィラとヨバブを生んだ。これが全部ヨクタンの息子達だ。
それで、メシャから東の山セファルに至るまでが彼らの住む所だった。
これが、家族ごと、言葉ごと、地域ごと、民族ごとのセムの息子達だ。
これが、世代ごと、民族ごとのノアの息子達の家族だ。それで、ここから洪水の後の地で民族が分かれたのだ。
毎度おなじみの系譜の話かと思いきや、いつの間にか地理のお話になっていました。アダムに連なる系譜からノアが生まれ、その子孫が世界の国々に分かれていったのだと、聖書は語ります。神話序盤の系譜で他民族も登場するというのは、なかなかユニークです。
ヤフェトの子孫にタルシシュというのがいますが、タルシシュは後に聖書に登場する地名で、船を使った貿易でめちゃくちゃ経済的に栄えていたそうです。栄えているということは強者なので、聖書の中ではネガティブに扱われます。
ノアに粗相の八つ当たりをされて息子(カナン)を呪われたハムですが、子孫にミツライム(エジプト)やソドムとゴモラも登場します。エジプトは高度な文明を持った大国なので、聖書の中ではネガティブに扱われます。ソドムとゴモラは、後に神に滅ぼされる話が出て来て、以降は堕落の象徴として扱われます。ニムロドも登場し彼が「バベル」を始めますが、これはバビロンを指しています。聖書の創世神話がバビロニアの『エヌマエリシュ』と似ているという話を以前にしましたが、『エヌマエリシュ』はバビロンの神マルドゥクを最も偉い神として描いています。
聖書で後に「ライバルキャラ」として登場する勢力の名前が、既にここで羅列されているのです。競馬のパドックみたいな感じでしょうか。
ちなみに、バビロンについてですが、実は旧約聖書が編纂され始めたのは、イスラエル人の国が異民族に滅ぼされた後と言われており、特にバビロニアに国を滅ぼされ、多くのイスラエル人が首都バビロンに連行された「バビロン捕囚」は大きな出来事として記憶されていたようです。
バビロンは、武力で周辺の国を併合しまくった軍事大国です。圧倒的強者なので、聖書の中では何かと悪者扱いされることになります。
思いめぐらす
それでは、いつも通り思いめぐらせてみましょう。
ノアから始まる再創造
神はノアとその家族を選び、方舟に乗り込ませました。
洪水中の方舟は、水が分かたれた空間、つまり新たな世界です。
ノアとその家族は、新しい世界の新しい人類という位置づけになります。
つまり、もう一度平和な世界を造るために神から選ばれたエージェントなわけです。
大洪水という特殊な場面設定になっていますが、「エデンの園でやらかしたアダムとエバから生まれたセトから、ヒトさんチームが再スタートする」という流れの延長上にあるようです。
この、神から選ばれた人間によって、新しい世界(共同体)が再創造されるというパターンも、聖書の中でずっと繰り返されます。
ただ、「神から選ばれた人間による世界の再創造」という表現を用いると、ややファンタジー作品に登場する悪の勢力って感じがしてしまいます。現代人にとっては、どうしても「選ばれた人間だけが救われ、選ばれなかった人間は滅ぼされる」というイメージが前面に出てしまいますよね。実際にそのように教えている教会が多いという残念な現実もあります。それに、「選ばれた」という表現も厄介です。なんか周りより特別に優れた人間だけが選ばれて救われる、みたいなヤバい宗教みたいな雰囲気がしてきます。
しかし、聖書の伝えたいことは、そういうことではないと思います。神は世界を癒すためのパートナーを求めているということだと思います。そして、神と共に働くパートナーだけが救われるというのではなく、神とパートナーの力が世界に波及することで、世界が癒されるというのが、聖書の神の思い描く理想なのだと思います。
キリスト教徒にとって大事なのは、「この宗教によって自分だけが救われ、異教徒は神に滅ぼされる」という排他的二元論でなく、「自分達が宗教をやることによって、いずれ神が造った世界すべてに益が及ぶ」という包括的一元論だと思います。
大洪水の後、神は世界の全被造物と契約を結びました。
神にとってのゴールは、世界がまるごと救われることのはずです。
「命の血」とは?
神の言葉の中に、血に関する奇妙な話が出てきました。
1つは、獣の肉は食べて良いが血と一緒に食べてはいけないという話。もう1つは、同胞の血を流せば神も血を求めるという話です。
共通点っぽい所は、血が命と関連付けられているっぽい所です。
命の血を食べてはいけない。
同胞の血を流せば(命を奪えば)、加害者の血が流される(命が奪われる)。
どういうことでしょうか?
血を食べてはいけない?
血が命の象徴として扱われていることを考えると、「血は命だから食べてはいけない」ということになります。つまり、神は動物の肉を人々に食べ物として与えるけど、動物の命は食べてはいけないのです。
現代日本人にとっては、なかなか腑に落ちないと思います。日本では、「食べるというのは、命をいただくということだ」と教えられ、動物や植物への感謝が大切とされます。しかし、聖書は「命を食べてはいけない」と教えているようです。言葉に縛られると混乱しますが、もしかしたら、言いたいことは同じかもしれません。
ベジタリアンやヴィーガンを除いて、ほとんどの人間は動物の肉を食べます。客観的には、「人間が動物を捕食している」にすぎません。しかし、多くの日本人は「動物の命をいただいて、私たちは生かされておるんや」と考えます。ちなみにアイヌの伝承では、動物というのは、山の神が動物の毛皮と肉を着て人間の世界に遊びに来た姿なのだそうです。なので、動物を狩りますが、畏敬の念を持って丁重に扱うのだそうです。そして、動物を丁寧に葬ることで、山の神はまた動物の毛皮と肉を着て人間の世界に遊びに来てくれるのだそうです。
このように、「動物に生かされている」「山の神に生かされている」と考えたとき、動物への感謝の念が生まれ、生命への畏敬の念が育まれます。
聖書は、「私たちは神から、動物の肉を食べることを許されて、生かされておるんや」と教えているのかもしれません。つまり、人間は自分勝手に動物を殺して良いわけではないのです。食べることを神から許可されているだけで、動物の命は人間の所有物ではないのです。動物の命である血は地に流され、神の元へ還って行くのかもしれません。
聖書の著者がそこまで意図して書いていたかは知りませんし、単に「肉は血抜きをする必要がある」ということについて宗教的な意義を付け加えているだけなのかもしれません。しかし、もしかすると、古代イスラエル版の「いただきます」という意味合いもあるのかもしれません。
血には血を求める?
血には血。つまり、人を殺せば自分も殺されるということです。
このように表現してしまうと、「聖書は死刑制度を推しているのか!?」となってしまいそうですが、ここでは死刑制度の是非がメインというわけではないと思います。
悪いことをすれば悪い結果が帰ってくるというのは、聖書の中で繰り返されるパターンです。
知恵の木の実を食べて、アダムとエバは園から追放されました。
アベルを殺し、カインは放浪する者となりました。
悪いことばっかり考えていたので、洪水が起きました。
おそらくそのパターンに当てはめた表現だと思います。
重要なのは、「人は神の像として造られたから、人の命は大切だ」ということだと思います。なので、血に対して血を求めるというのも、「人を殺すというのは、自分も殺されなければならない程重大な罪である」ということだと思います。
なので、「血に対して血を求める」という表現は現代の日本人にとって物騒な表現ですが、この箇所はむしろ生命の尊厳を説いていると思います。
現代の日本では、たまに合理主義とか現実主義を自称する人が、「老人を殺せ」とか「社会のお荷物は死なせろ」とか言ってバズります。それを「正論だ」「俺たちの本音を代弁してくれた」と言って持てはやす動きも一部に見られます。まさに、彼らは知識の木の実を食べ、自分達が神のようになり、自分達で善悪を判断した結果、「俺たちは賢いから、殺して良い命を自分で決められる」と思っているのかもしれません。
聖書は「人は神の像で造られたから、みな大切な存在なのだ」と教えます。生産性やら納税額やらで大切さが変化したりはしないのです。「自分も周りの人も、みな神の像なのだ」と考えたとき、他者に対する畏敬の念が芽生えます。
お互い大切にし合って生きていきたいものです。
秒で再崩壊する世界
方舟から出て来た人類によって始まった新世界ですが、ノアが泥酔して全裸中年男性化したことで、秒で家族関係が崩壊してしまいました。
ノアが生まれた時、ノアの父親は「この子が私たちの苦しみを慰めてくれるはずだ」との期待を寄せていました。もしかしたら、ノアの父親は、「ノアが蛇をやっつけるヒーローになってくれる」と期待していたかもしれません。しかし、その期待も虚しく潰えることとなります。
再び、おじいちゃん(ノア)が孫(カナン)を呪い、兄弟が兄弟(カナン)を支配するという、地獄のような世界が始まりました。人とは何と弱い生き物でしょうか。
家族内ですらこのような分断が起きてしまうわけですが、この物語から、突然地理的な話へと移行します。
もしかしたら聖書の記者は、家庭崩壊と国際問題は、「人が人と争う」「人が人を支配しようとする」という点において、同じものであると考えたのかもしれません。もしくは、「いろんな国々や民族に分かれているけど、人は皆神の像で1つの家族だったんだよ」ということが言いたかったのかもしれませんし、その両方かもしれません。
そこまで意図されていたかは分かりませんが、人は分裂して憎み合うのは、神の望むところではないようです。全ての人は「神の像」なのですから。
おわりに
以上、洪水後のお話でした。
『ギルガメシュ叙事詩』ではウトナピシュティムが神々から、「神のようなもの」とされ、永遠の命が与えられたのに対し、ノアは酔って全裸になって、その上孫を呪って、そして普通に老いて死んでいくという苦々しい展開となりました。
以上、ウトナピシュティムの洪水と共通点もありつつ、ところどころ違いもあることが分かります。
共通点としては、
-
神が洪水を起こして人類を滅ぼす
-
方舟の造り方を人間に教える神がいる
-
方舟に人や動物等を乗せる
-
洪水の後、鳥を放して乾いた陸地があるか確かめる
-
方舟から出て来た後、生贄を捧げる
異なる点としては、
-
被造物がめっちゃ悪いことやってるので洪水を起こす
⇔人間がうるさいので滅ぼす
-
洪水を起こす神と方舟を造らせる神が同一人物
⇔洪水を起こす神と方舟を造らせる神が別の人物
-
方舟を造ったノアが最後に失敗する
⇔方舟を造ったウトナピシュティムが「神のような者」とされ、永遠の命を得る
という感じでしょうか。
このように比較すると、「古代イスラエルって、メソポタミアの文化や神話と共通点を持ちつつ、独自の神観をアピールしてるっぽいぞ」という感じがしてきます。
神は、古代イスラエルの人々に、「古代中近東の文化」という媒介を用いて語り掛けたのだと思います。
ところで、最後にバベル(=バビロン)って出てきましたけど、「バベルの塔」とかって、たまに聞きますよね。この後、お話はどんな方向に展開していくんでしょうか??
というわけで、次回は「バベルの塔」が登場します!
参考資料
- 平山輝男 (編), 中井精一 (著) (2003).『日本のことばシリーズ 29 奈良県のことば』 明治書院
- Blue Letter Bible
- Interlinear Greek English Septuagint Old Testament (LXX)
- NET BIBLE