大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

『古代オタクが聖書に挑むお話』11

 

 善悪の知識の木の実を食べて、神のように善悪を決めるようになった人間。

 職場の人間関係や家族関係に目を向けると、「まるで自分が神になったかのように善悪を決めつける人」って、何かとトラブルメーカーになりますよね。さらに、お互い「自分が100%正しい!」なんて思いこんでいたら……。そりゃあ信頼関係なんてすぐに崩れ去ってしまいます・

 楽園で木の実を食べるという神話で表現されると、現代人にはおとぎ話にように聞こえますが、その中に込められたメッセージに思いを馳せると、意外と身近に感じられるかもしれません。

 神話の中で、「人間vs善悪の判断を狂わせる存在」のバトルになることが語られています。しかし、最終的には「善悪の判断を狂わせる存在」が「女の子孫」によって倒されることが予告されています。容赦ないネタバレですね。

 この物語、「アダムとエバの背きという1度の出来事によって、人間は堕落し、この世界は苦しい場所になった」という解釈もありますが、事実として信じるべきでしょうか? キリスト教の中にはそういう考えもありますが、違う見方もあります。

 古代中近東の神話という文学構造を通して、何かを伝えようとしているのかもしれません。

 キリスト教は「原罪論」のイメージが強いですが、教派によって温度差があります。

 原罪論の土台を形成したのは5世紀の神学者ヒッポのアウグスティヌスで、その後16世紀頃に、プロテスタントが「全的堕落論」を作り出しました。

 一方、東方教会は「アダムとエバの背きによって、人間の持つ性質はダメージを受けた」と考えつつ「原罪」についての考えを教理化することは避けたようです。

 聖書を書いた古代の人々は、どのようなことを伝えたかったのでしょうか?

 漫画の中では、「筋肉ムキムキの男の子が、自分の善悪(ムキムキの腹が正義)に基づいてお腹ブヨブヨのお父さんに筋肉マウントを取った」というエピソードが出てきますが、これに似たようなことは、世の中のいろいろな所で起きているかもしれません。

 収入、学歴、身長、友達の数、身に着けているブランド品、休日の過ごし方など……。いろんなことで人間はマウントを取り合い、上下を決めようとします。

 自分で決めた善悪を振りかざせば、当然「安全な関係性」は壊れます。

 人間関係のこじれ、大抵は、自分こそ正しいと信じる人が互いに憎み合ったり、相手を一方的に叩いたりすることで悪化していきます。

 人間1人の「ものさし」なんてたかが知れていますが、どうしたわけか、私たちは「自分のものさしで何でも計れるッ!」と思い込みたい誘惑に駆られます。その誘惑の背後にいるのが、この神話に登場する「ヘビ」なのかもしれません。

 人間がそれぞれの善悪を振りかざすと世の中が滅茶苦茶になるため、中には「絶対的な真理などない」と主張する人もいます。しかし、古代人はそうは考えなかったようです。神だけが正確に善悪を知っていると考え、神に縋るという道を選びました。

「絶対的な真理などない」が行き過ぎると、「社会に不平等や差別があっても良い」「弱い人を助ける合理的な理由がなければ、切り捨てても良い」という、破滅的な方向に行ってしまうこともあると思います。

 そのようなことを考えると、「私たちは善悪を正しく判断できないが、神だけが善悪を正しく判断できる。神を見上げつつ、謙虚に善悪を考えていこう」というのは、なかなか絶妙なバランス感覚なのかもしれません。

 しかし、このような物語から始まる聖書を聖典として採用している宗教団体が、「自分たちキリスト教徒だけが正しいのだ!!」と独善的になってしまうのは、とても残念ですね。

「ヘビ」が倒される日は、いつ来るのでしょうね。