先週、所属教会から「家の教会(とても小規模な教会)」の牧師として任命されましたので、今週から礼拝説教の原稿をここに載せていきます。
今日の聖書箇所をお読みいたします。
ルカによる福音書1章46節~55節。
するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。
この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ畏れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
わたしたちの父祖アブラハムとその子孫らを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
(『口語訳聖書』)
人間というのは、何歳であろうと、どこにいてもヒエラルキーをつくりたがる生き物かもしれません。子どもの頃はスクールカーストなどと申しまして、交友関係や立ち振る舞いによってお互いをランク付けしてしまいます。そして大人になれば、社会的な影響力や財力が、あたかも人間をランク付けするデータかのように思いこまされてしまったりするものでございます。
そうして作り上げられたヒエラルキーから、暴力や抑圧が始まります。人間は自分たちで優劣を判断して、自分は強いと思う者が、弱いとみなされた者を支配したり疎外したりします。国際情勢で言えば、軍事大国が周囲の国を暴力的に支配しようとしますし、職場や家庭であれば、パワハラや虐待などといった形で暴力が現れます。
強き者が弱き者を支配する。そのような人の世の在り様を、神さまはどのようにご覧になっているでしょうか。
それでは、「ひっくり返す」と題して、お話させていただきます。
今回拝読しました聖書箇所ですが、これはマリアが神さまを褒めたたえて歌った、そういう歌でございます。マリアはヨセフという男性と婚約しておりましたが、ある時天使が現れ、マリアから救世主、つまりキリストが生まれると告げました。まだキリストがお生まれになっていない時、マリアがこの賛歌を歌ったわけでありました。
賛歌の中で「身分の低い僕に目を留めてくださった」という風に翻訳されている箇所ですが、原語のギリシア語を確認しますと、「僕の低さに目を留めてくださった」という風にも読み取れます。
低さに目を留めてくださった。何が低かったか、確かなことは言えませんが、社会的な地位の低さかもしれませんし、謙遜な態度を表しているのかもしれません。しかし、確実に言えることは、神さまは、低いにも関わらず目を留めたのではなく、低さに目を留めてくださったということなのだと思います。
マリアの賛歌はさらに、力ある者が低められ、低められた者が高められ、飢える者が満たされ、富める者が貧しくされる、という光景を描きます。そして、それが遠い未来の出来事でなく、あたかも既に起こった出来事であるかのように歌います。
マリアの賛歌はある意味で攻撃的です。強い者が弱い者を支配する、力のある者が正義だという世界を真正面からひっくり返しにかかります。権力を持った人にとっては、反体制的ですらあるかもしれません。
このマリアという女性、いったいどのような人物だったのでしょうか。
マリアといえばキリストをお生みになった聖母というイメージが強いわけですが、実は私は、今までマリアがどのような人なのか、あまり深く考えたことがありませんでした。
マリアの賛歌、実は元ネタがございます。旧約聖書には大変似た歌が出てくるんです。そして、その歌を紡いだのは、子を産めず苦しめられていたハンナという女性です。
結婚を目前にしたマリアが、自分を重ね合わせた相手は子を望んでも産めず、家族の1人から苦しめられていた女性だったのです。そしてマリアは、社会のヒエラルキーを根底からひっくり返す歌を歌います。
ヨセフという男性と婚約していたマリア。一般的に見ると、これからが楽しみっていう時期のはずです。しかし、マリアの心の目には何が映っていたのでしょうか。
ヨセフとの幸せな結婚生活も思い描いていたかもしれません。しかし、マリアの心の中にあったのは、将来が楽しみだという思いだけではなかったと思います。そういう人は、ハンナ賛歌と似た歌、強い者が低められ、弱い者が高められるというような歌は歌わないと思います。
マリアにとって、当時のユダヤ社会は苛酷な世界だったかもしれません。
当時のユダヤ人は、ローマ帝国という軍事大国に支配されていました。ユダヤ人全体が、強者に支配される人々であったわけでございます。それにユダヤ人の中でも、王や貴族がおり、その一方で貧しい民衆もおり、宗教的なエリートもおれば、その一方で罪人として差別される人たちもおりました。
マリアは、強き者が弱き者を支配する、そんな社会に苦しめられ、憤る人だったのかもしれません。
そのように考えると突然、マリアの刻んだ鼓動が、現代を生きる私達が今刻んでおる鼓動と連動するような感じがいたします。
軍事大国が他の国々を抑圧し、政治家は強い者のための政治をし、富める者は貧しい人々を搾取し、宗教家が信者や子どもを虐待し、親が子を虐げる。この世界は暴力と抑圧に満ちています。強い者が上で、弱い者は下であるという上下関係が、いつの時代も人々を縛ります。
自分の身に起こること、身の回りで起こること、そしてニュースから流れて来る情報。私達は時に絶望しそうになりますし、「我がさえ良ければ」という生き方の方が賢いかのように感じてしまうことすらございます。私たちは傷んだ世界の中で、痛みを抱えて生きています。
マリアもまた、この世界の痛みに打ちひしがれた1人だったのかもしれません。もしくは、理不尽な世界の在り方に憤る1人だったのかもしれません。
そしてそのマリアは、神さまが、おごれる強者を低め、力なき者を引き上げてくださったと、この世界をひっくり返してくださったと、歌ったわけでありました。
キリスト教の伝統では、聖書の言葉は、神さまに導かれて書かれたものであると、そういう風に信じておりますので、このマリアの歌も、神さまに導かれて歌われた、という風にも言えるでしょう。
ですから、この歌は、マリアと神さまが共に紡いだ歌とも言えると思います。
そうすると、神さまはマリアを通して、「私がこの理不尽な世の中をひっくり返しましょう」と語られたのかもしれません。
こうしてお生まれになったのが、イエス・キリストです。
神の一人子は、傷んだ世界の中に生まれ、私達の痛みと弱さを背負ってくださいました。
今も神さまは、人々の内に働かれます。
国と国が争い、力を持った者が力なき人々を虐げ、暴力と抑圧にまみれた、この傷んだ世界の内に、市街地にさえ核兵器が使われてしまうような世界の中で、神さまは働かれます。
暴力の中に神さまの働きはありません。暴力的な世界をひっくり返す所に、神さまの働きがあります。
傷んだ世界の中で、神さまは私たちに働きかけておられます。