大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年8月13日 礼拝説教「共に背負ってくださる」

ルカによる福音書2章1節から7節をお読みいたします。

 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。(口語訳聖書)

 2章は、ローマ帝国の皇帝が税金を徴収するために人口調査をさせるという記述から始まります。現代に生きる私達も、給料から税金を引かれたり、買い物する度に税金を取られたりしますけれども、税金を徴収するための戸籍というのは、古代には既に造られておったわけですが、日本においても、飛鳥時代頃には戸籍が造られていたそうです。

 古代に生きた人々も、現代に生きる我々も、それぞれの時代・地域における社会体制の中に生きております。人間は等しく尊い存在として造られたにも関わらず、社会体制の中では支配する者と支配される者、強き者と弱き者、持つ者と持たざる者、といった格差が出来上がってしまいます。

 そんな格差社会の中、神の子であるイエス・キリストは、最も過酷な環境で生まれて来られました。両親が戸籍を登録しに行かないといけないため、宿が確保できず、キリスト自身は家畜小屋で生まれ、そして、ベッドがなく飼い葉おけの中に寝かされました。

 イエス・キリストは、支配される貧しい人々の苛酷な現実の中で、人間の肉体を持って生まれて来られたのでした。雲の上から地べたに這いつくばる人々を見下ろしていたのではありません。神である方ご自身が、私達と共に地べたに這いつくばってくださったのです。

 キリスト教の伝統では、イエス・キリストは、世界を造った神さまと同質な方であると信じられています。ということは、世界を造られた神もまた、私達と共に地べたに這いつくばってくださる方ということになるでしょう。

 HIP HOPやレゲエには、レペゼンという言葉があります。代表する・象徴するというような意味で、自分の地元や自分が属する音楽ジャンルを、自分が代表して音楽で表現しているんだという意気込みを表して使われる言葉のようです。聖書の神さまは、豪華な宮殿で王や貴族の子どもとして生まれたのではなく、時の社会体制に翻弄される人々の子どもとして、大変貧しい環境で生まれて来られました。ということは、聖書の神さまは、傷んだ世界の中で苦しみながら生きる私達を代表、つまりレペゼンしてくださっているということになるでしょう。そして、神は私達の痛みや弱さを共に背負ってくださる方なのです。聖書が宣べ伝える神は、高い所から人々を裁く神ではなく、地上で悩み苦しみながら生きる私達の所に、降りて来てくださる神なのです。

 キリストは人として生まれ、人々の間で生きられ、人々に殺され、それでも復活して、また人々に教えを説かれました。世界を造られた神さまも、キリストと同質なお方であると、キリスト教の伝統では信じておりますので、キリスト教の神様は、私達の間にお住まいになられ私達の内に働いてくださる神ということになります。

 そこには、人々をハルマゲドンや地獄の裁きで脅して支配しようとする神の姿はありません。人を裁いて滅ぼすどころか、神は人間に裁かれ、犯罪者として処刑されました。またそこには、人々に何があっても礼拝に来いとか、どんなに困窮していても収入の10分の1を教会に捧げろだとか、上から命令する神の姿はありません。むしろ神は、戸籍を登録して税金を払う私達の間に生まれてくださったのでした。

 神は、私達の弱さや痛みを共に負うてくださる、共に背負ってくださる方です。

 ですから、神が教会の内に本当に働かれているのなら、教会もまた、お互いの弱さや痛みを共に背負い合い、そして共に支え合って生きる、そのような共同体になっていくのだと、私は信じています。

 神は、私達の内で、私達と共に働かれるのだと思います。

 そしてまた、神は私達人類の歴史の中で、共に歩んでくださいます。

 キリストはダビデの家系から生まれたと、聖書には記されています。
ちょうど今はお盆の時期ですが、お盆は日本の祖霊信仰と仏教が融合した行事だそうで、ご先祖様の霊が帰ってくると信じられているそうです。

 もちろん聖書にはお盆の概念はございませんが、古代ユダヤの人々は、古代ユダヤの方法で、ご先祖様とのつながりを大切にしていたようです。聖書の中では、先祖から子孫までのつながりが記されております。新約聖書には、キリストが生まれるまでの家系も記されております。

 神が、人間の家系の中から生まれて来られた。

 神は、人間の歴史の中で生まれ、人間の歴史の中で、私達と共に歩んでくださったのです。

 聖書の神は、支配者でなく支配される者として、強い者ではなく弱い者として、そして、持つ者ではなく持たざる者として、人間のつくった格差社会の中で生きられました。

 そうして、私達の弱さと痛みと苦しみを共に背負ってくださったのです。

 ですから、教会もまた、それぞれの弱さを持った私達が集い、互いの弱さを背負い合い、互いに支え合い、そうして神と共に歩んでいく場であってほしいと思っています。

 教会を治められるのは、私達の弱さを代表してくださるキリストです。

 私達が苦しみ地べたに這いつくばる時、共に這いつくばってくださるキリストです。

 家畜小屋で生まれ、飼い葉おけの中で眠られたキリストです。

 そんなキリストの慈悲によって、私達は生かされておるのです。