大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年10月22日 礼拝説教 『神の国は種のように』

 ルカによる福音書13章19節から21節をお読みいたします。

 そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。また言われた、「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

(口語訳聖書)

 それでは、『神の国は種のように』と題してお話させていただきます。

 今回の箇所、「何にたとえようか」というフレーズが2回使われています。これは、ラビ、つまりユダヤ教の教師が何か例え話をするときの、一般的な導入だそうです。

 たとえ話で使われるのは、からし種、そしてパン種つまりイースト菌です。

 一粒のからし種はとても小さく、家の中で落としてしまうとどこに行ったのか分からなくなってしまいます。しかし、そんなに小さな種でも、地に蒔かれて育つと、いつの間にか鳥が住めるような大きさに成長していきます。

 パン種も、パンを焼く前にパン生地に混ぜて寝かせると、いつの間にかパン生地全体が膨らみ、ふかふかしたパンになります。

 からし種もパン種も、土に入り、パン生地に入り、いつの間にか大きく成長するものです。

 神の国というのは、いつの間にか成長して大きくなるものだそうです。

 もしかしたら、当時のユダヤ人にとって、このイエスさまの例え話は意外なものだったかもしれません。

 当時のユダヤ人の間では、救世主待望論というものがあったようです。というのも、当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていましたが、ローマ帝国を悪の帝国と考え、ローマ帝国を倒してユダヤ人の国家を再建してくれる救世主の登場を望んでいた人が多かったそうです。イエスさまの弟子の中にも、イエスさまを、ローマ帝国を倒す軍事や政治の指導者と考えて、イエスさまに従っていた人も多かったのだと言われています。

 当時のユダヤ人は閉塞感に苦しみ、現状を一発で変えてくれる英雄を求めていたのかもしれません。そんな中イエスさまが語られたこの例え話は、多くの人にとって奇妙なものに感じられたかもしれません。

 現代に目を向けると、現代に生きる私たちは同じことを繰り返しているかもしれません。

 社会不安が高まり閉塞感が増すと、人々は閉塞感を打破してくれる英雄を求めるようになります。そして、難解な物事を単純な言葉で両断し、分かりやすい解決策を与えてくれる、そんな英雄的存在を崇拝するようになります。しかし大抵の場合、そういった人は偽りの英雄に過ぎず、かえって世の中を混沌に突き落とす暴君に過ぎない、そういうことが歴史の中で繰り返されてきました。

 現代のキリスト教でも、特にプロテスタントでは、世の中が荒廃した時に終末、つまり世界の終わりが来て、信心深い者だけが天国に行けるのだと教える人もいます。その中には、社会が荒れれば荒れる程喜ぶ人もいます。一見宗教的に見えるかもしれませんが、災害や戦争が起こる度に「世の終わりが近い」と考える心の在り方は、苦しみの只中にある人々を切り捨て、過酷な現実から目を背ける現実逃避の表れなのかもしれません。

 人間は、世の中がどこへ向かうのか不安になった時、複雑な問題を一発で解決してくれる英雄を期待してしまうことがあります。閉塞感を打ち破ってくれるデウスエクスマキナ、つまりどんな困難も解決してくれる完全な存在を求めてしまうことがあります。

 しかし、イエスさまの語る神の国は、そのようなものではありませんでした。

 イエスさまの語る神の国では、完全無欠の英雄が一瞬で閉塞感を打破するというものではないようです。

 もしかしたらイエスさまは、そのような英雄や単純明快な解決策を期待してはいけないのだと、世の中を変えていくのは、地味で地道な日々の営みの中にあるのだと、伝えたかったのかもしれません。

 キリスト教には、「来る日」や「新天新地」といった概念があり、世界の終わりの時に神さまが世界を新しく作り変え、神さまの造った世界が、その時に本当に完成し、あらゆる問題が解決するという信仰があります。そういった希望も大切だと思います。神さまがこの世界を癒してくださることを、人間だけの力では解決できない問題を解決してくださることを信じることは大切です。ですが、神さまの力を信じるあまり、自分達はただ聖書を読んで祈ってさえいれば、他に何もしなくて良いのだと考えてしまうのは、信心深い態度とは言えないように思います。

 この荒んだ世界の中に、「神も仏もいるものか」と言いたくなるような悲惨な現実の中に、神の国からし種やパン種のように、そっと入り込みます。もしかしたら、種をくださるのは神さまですが、その種を蒔くのは人間の役目なのかもしれません。種を蒔いて水をやったり、パン種を生地に練り込んで寝かせたり、そういった作業は人間が日々の生活の中で担っていくものなのかもしれないと、私は思います。例えば、目の前の人を大切にする、互いに尊重し合う、そういった態度が、目の前にいない人のことも大切にできる文化を形づくるのかもしれません。そして、そういった働きの中で、神さまが働かれるのかもしれません。

 そして蒔かれた種は、私たちが腐りきった現実に絶望している間にも成長し続け、神の国は大きくなっていきます。身近な人のことを大切にする文化が造られれば、目の前にいない、どこか遠い所にいる人のことも大切にできる文化が膨らみ、さらに大きくなると抑圧や搾取に抵抗できる文化が出来上がって行くのかもしれません。すると、不条理な制度やシステムを克服し、人間を大切にする社会が育っていくのかもしれません。人々が神さまと心を合わせ、神さまの働きに応える時にこそ、神さまが人々の内で働かれ、神の国が大きくなっていくのだと、私は思います。

 私たちの傷んだ現実の中に、神の国は、からし種やパン種のように、はっきりとは見えない形で入り込みます。そして神の国は、私たちの現実を内から変え、私たちの生き方や考え方を根底から変えていきます。今この瞬間も、神の国は、からし種のようにパン種のように、成長しているのかもしれません。