大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年11月5日 礼拝説教 『一匹を捜し歩いて』

 ルカによる福音書15章1節から7節をお読みいたします。

 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

(口語訳聖書)

 それでは、『一匹を捜し歩いて』と題してお話させていただきます。

 取税人や罪人たちが、イエスさまの話を聞くために集まっていました。取税人というのは、ローマ帝国のために税金を集める人のことです。当時ユダヤの人々はローマ帝国に支配されており、ローマ帝国ユダヤ人の中から取税人を選んで、その取税人に税金を集めさせるという形で、属国を統治していました。なので、取税人は民族の裏切り者として嫌われることになりますし、当時のユダヤ教では異邦人と接すると穢れると信じられていたようで、ユダヤ社会の中では二重の意味で嫌われ者となっていました。罪人というのは、当時のユダヤ社会の中で宗教的な戒律を守れなかった人で、そういった人も忌み嫌われていたようです。現代のキリスト教系団体でも、組織が決めた戒律を守れなければ仲間外れにするなんてことをしている所もあります。

 しかし、イエスさまは、そういった社会から疎外された人々を受け入れていました。そして、取税人や罪人たちは、イエスさまの話を聞くために集まっていました。裏切り者や罪人のレッテルを貼られた人々が、イエスさまの教えに耳を傾けるために集まっていたのでした。

 ですが、ファリサイ人や律法学者たちが不満を言います。ファリサイ人は、宗教的な戒律を守ろうと呼びかけ、民衆の中で活動していた人々で、後のユダヤ教の基礎を築いた人々です。律法学者は聖書の研究をしている専門家です。つまり、彼ら宗教的なエリートです。そんな彼らが、イエスさまに、罪人たちと一緒に食事をしているなんて、不満を言うわけです。当時のユダヤ教では、罪人を関わってはいけないとされていたようで、彼らとしては宗教的な教えを忠実に守っているつもりなのでしょう。当時の文化で共に食事をするというのは、現代の日本以上に親密な関わりとされていたので、イエスさまがいかに罪人とされた人々と親しく接していたかが分かります。

 イエスさまは、宗教エリートへのアンサーとして、たとえ話をされます。

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」

 失われた1人を探し求めて、どこまでも、どこまでも、歩いて行く。そんな神の姿が語られます。

 そして失われた1人を見つけた時の様子を、イエスさまは語られます。

「そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」

 見つけた羊を肩に載せて大事に連れて帰り、人々を集め、「一緒に喜んでください」と言う。

 そして、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある。たった1人の人を見つけ出して、「一緒に喜んでください」と言う、神さまはそんな方なのだと、神の国はそんな所なのだと、イエスさまは言われます。

 この例え話、キリスト教では「百匹の羊の喩え」と呼ばれる有名なお話です。神の愛の深さを表現したお話として、キリスト教では大変好まれています。私もこの例え話が大好きです。人間が神に背いても、どこまでも追いかけていく神の姿が心に響きます。

 しかし視点を変えると、この例え話の美しさが、人間の心の闇を、その醜さを暴いているとも言えるかもしれません。

 この例え話がなされた文脈は、宗教的エリートに対するアンサーです。

 ご自分から離れた人間をどこまでも追いかけて探し回る神。たとえ離れても、その1人を愛して探し歩かれる神。それに対して、宗教の掟に従うかどうか、自分たちの神を信じているかどうかで人を差別し、自分と異なる人々を穢れとして扱う人間。

「一緒に喜んでください」と仲間に呼びかける神の慈悲深さが、神を利用して人を差別する人間こそ、神の仲間でないのだと告発しているのかもしれません。

 人間は弱いもので、何かと自分達の価値観から外れた者を仲間外れにしてしまいます。

 人間は仲間とそうでない者の線引きをして、自分と異質と見做した他の人間を切り捨ててしまうことすらあります。自分達の価値観にそぐわない者に対しては、特に冷淡です。

 しかし、神さまにそんな線引きはありません。神さまはご自分から離れた人すら愛し、どこまでは捜し求めて歩きます。いなくなった1人をどこまでも捜し歩かれる方です。

 そして、いなくなった1人を見つけたとき、神さまは言われます。

「一緒に喜んでください」

 百匹の羊のうちの一匹を捜し歩いていく、羊飼いのような神さまに、私たちもついていきたいと思います。