ルカによる福音書14章7節から11節をお読みいたします。
客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(口語訳聖書)
それでは、『自分を低くする者』と題してお話させていただきます。
イエスさまは、お客さんが上座を選んでいる様子を見て喩え話を語られます。古代のユダヤ教の教師は、食事の場で講話をすることがしばしばあったそうです。
イエスさまは語られます。
「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう」
日本で長年生活している人であれば、上座下座の話は感覚的に分かりやすいかもしれません。宴会の席で、自分で上座を選んだのに下座に誘導されるのは、現代の日本人にとっても、めちゃくちゃ恥ずかしいことです。
そこでイエスさまは言われます。
「むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう」
たしかに下座に座っておくのが無難です。上座に座って下座に誘導されるよりは、下座に座って上座に誘導してもらえる方がずっと良いです。
締めくくりにイエスさまは言われます。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」
旧約聖書の中で繰り返されてきたパターンを引用されます。
聖書の中では、高ぶる者が引きずり降ろされ、低められていた者が高められる場面が、繰り返し描かれ続けています。イエスさまは、宴会の席という生活の場面から、高ぶる者が引きずり降ろされ、低められていた者が高められるという聖書の普遍的なテーマへ話を繋げられたのでした。
これは、単に自分を低めると高めてもらえるという意味ではないのかもしれません。
自分で自分を高めるあまり、いつも自分が正しいと思い込むようになった人は、自分の間違いに気づくこともなければ、それを修正することもありません。すると、気づかぬ内に間違いを重ねることになります。さらには、自分で自分を高めるあまり、周りの人への態度も横柄な感じになってしまうかもしれません。それが続くと、周囲の人から嫌がられ、人が離れていくかもしれません。ということは、自分で自分を高めることというのは、その時は気分が良くても、最終的には自分を低めることなのだと思います。
一方、自分で自分を低める人というのは、自分より正しい存在や自分よりすごい存在があるという意識を持つ謙虚さを指しているのかもしれません。すると、自分の間違いに気づいたり、自分の行動を振り返ったりする習慣が自然とつくかもしれません。それに、謙虚な人というのは接していて気分が良いですし、自然と人当たりが良くなるかもしれません。自分を低めるというのは、結局のところ、自分を高めることになるのではないでしょうか。
自分を高める者は低められ、自分を低める者は高められる。これは、単なる人生の知恵ではないように思います。
世の中が自分で上座を選ぶ人ばかりになれば、上座の奪い合いになってしまいます。
私たちは、自分と他人を比べたがり、自分が相手より大きいように見せたがる人や、誰かをやっつけることで自分の強さや正しさを示そうとする誘惑に襲われます。そういった行動は、宴会の席で上座を奪い合うようなものなのかもしれません。そのように考えると途端に、馬鹿馬鹿しいことのように見えてきます。しかし、こういった馬鹿馬鹿しいことをやってしまうのが、人間の弱さなのかもしれません。
もっと酷いのは、誰かを一方的に虐げて自分を強く見せようとする人です。これは上座の奪い合いでなく、一方的な暴力であり、許されることではありません。
上座を奪おうとする世界、誰かをやっつけて自分が高い位置を取ろうとする世界は、争いや一方的な暴力を生みます。上座を奪い合うような宴会は全く楽しくありませんし、そんな場にいたいと思う人はいないでしょう。
ですから、宴会の場もこの世界も、上座を譲り合うくらいで丁度良いのではないでしょうか。
互いに上座を譲り合い、座る場所を見つけられない人がいれば上座へ招く、そのような宴会の方が楽しいし、そのような世の中の方が生きていきたいと思えるのだと思います。
神を信じて生きるのであれば、神が一番上にいると信じて自分の弱さを省み、そんな神が自分や周りの人を造られたことを信じ、互いに尊重し合える。そのような世の中の方が、生きやすいと思います。
上座を選ぼうとするなら、その瞬間だけは気分が良くても、いつかは恥をかいたり自分を貶めたりすることになります。しかし、下座を選ぶなら、最終的には自分を高めることになります。
イエスさまは私たちに言われます。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」