大和寝倒れ随想録

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2023年9月3日 礼拝説教『貧しい者は幸い?』

ルカによる福音書6章20節から26節をお読みいたします。

 

 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。

 神の国はあなたがたのものである。

 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。

 飽き足りるようになるからである。

 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。

 笑うようになるからである。

 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。

 慰めを受けてしまっているからである。

 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。

 飢えるようになるからである。

 あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。(口語訳聖書)

 

 それでは『貧しい者は幸い?』と題してお話させていただきます。

 この箇所で取り上げられているのは、イエスさまの有名な説教です。前半の部分では幸いな人、後半の部分ではその反対が語られます。しかし、ここで語られる幸いな人は、常識とは反対です。

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」

 どこが幸いやねんという感じがするかもしれません。この幸いという言葉、原語では「祝福された」という意味合いもあるようで、一般的な幸福とは異なり、宗教的な意味合いが強い言葉のようです。

 貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たちこそが、幸いである。

 聖書の中では、このように世間では弱い立場にあるとされている人を引き上げる描写が繰り返し出てきます。これは、貧しくなり、飢えて、泣く人になりなさいという意味なのでしょうか。

 そうではないと思います。

 イエスさまがこの話をしている時、イエスさまの話に耳を傾けていた人々は、みんな、貧しく、飢え、嘆き悲しむ人だったのだと思います。

 さらにイエスさまは続けます。

「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」

 ご自身に従う弟子たちの苦しみは、聖書に登場する預言者たちと同じものだったのだと、イエスさまは語られます。その時、イエスさまに従う人々の日々の苦しみと、聖書に登場する預言者たちの物語がつながり、共鳴します。理不尽に苦しめられ、嘆き悲しむ人々が、神の物語の中に包み込まれ、神さまの元へ引き寄せられます。

 一方、逆の立場にある人は災いだとされます。

 イエスさまは語られます。

「しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」

 富んでいる人、満腹の人、笑っている人。世間一般の価値観では、幸福だとされる人々です。

 それでは、経済的に豊かで、お腹いっぱいご飯を食べて、笑って生活している人は、悪人だということでしょうか。そういう意味ではないと思います。

 私達が生きているこの世界は、歪んだ世界です。

 世を治め、民を救うはずの政治が、虎よりも苛酷な政治を行います。

 救いを宣べ伝え、人々を苦しみから解放するはずの宗教が、祟りと地獄を宣べ伝え、人々を恐怖で支配します。

 人々の生活を豊かにするはずの企業が、人々の生活を貧しいものにしてしまいます。

 そんな歪んだ世界の中で、何の痛みも疑問も感じず快適に暮らしているなら、それは誰かを踏みつけて生きている側ということなのかもしれません。

 さらにイエスさまは続けて言われます。

「人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである」

 にせ預言者たちというのは、正しい政治をしない王に都合の良い預言をして、困窮する人々を横目に甘い汁をすすってきた人たちです。

 イエスさまは、この歪んだ世界の中で、何の痛みも疑問も感じず、快適に暮らす人々は、にせ預言者と同じなのだと語られます。

 イエスさまは、この世界の中で、どういった態度で生きるのか、どちらの側に立つのか、厳しく問われます。そこに中立はありません。幸いか災いか。

 しかし、苦しむ者の幸いというのは、どこにあるのでしょうか。

 苦しむ人々への報いは天にあるのだとイエスさまは語られます。
確かに、貧しさに苦しんだ人々、飢えに苦しんだ人々、嘆き悲しんだ人々は、神さまに愛されています。そして、この世界が完全に修復される時に、嘆きは喜びに変わるでしょう。

 では、今苦しむ人々は、世界の終末が来て神様が大きな奇跡を起こし、世界を修復してくださるのを待っているしかないのでしょうか。その時までは、ずっと踏みつけられ続けなければならないのでしょうか。

 私は、そうは思いません。

 神さまは、今、私達と共にいてくださいます。私達がこの歪んだ世界の中で全く無力に見える時、見えない神さまの息吹、聖霊さまが、私達の中で、私達の間で、働いてくださいます。

 イエスさまの元に集められた人々が支え合い、力を合わせる時、そこに大きな力が働きます。近くに仲間がいなくても、祈りに想いを乗せて神さまと心を合わせる時、その働きの中に身を置くことができます。

 神の国が、そこにあります。